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まだあたしが幼すぎて世の中ってものも何も知らなかった頃、お兄ちゃんがあたしの世界の全てだった。
大好きなお兄ちゃん。
そう思い込んでいたあの頃のあたしは、宇宙一おめでたいおバカさんだった。
01.いきなり地獄行き
「茜、誠さんの北海道への転勤が決まったから、あなたは浩行のところに行くことになったわ」
いつもに増して疲れて学校から帰って、自分の部屋に直行してベッドに倒れこんだところで、珍しく家にいたマイ母上・容子さんがやって来てそう告げた。
誠さん、北海道、転勤、ヒロユキ。重要そうなところだけ繰り返す。誠さんはマイ父上のことで。
「ヒロユキって誰」
「もう、何真顔でボケてんの。あなたのお兄ちゃんでしょうが」
お兄、ちゃん?
「茜? どうしたの。顔真っ青よ?」
危うく気を失いかけた。お母サマ、今何と。
「ええと、もっかい説明して?」
起き上がってベッドの上で正座する。
「だから誠さんの転勤が正式に決まったの。それで茜は来年大学受験で、どうせ東京の大学を受けるでしょう? 転校は色々と面倒臭いし、浩行のマンションならここから車で十分くらいだし、部屋も余ってるみたいだからそこへ行けって言ってるの」
「い」
「い?」
「嫌だ! ぜーったいに嫌! 死んでも嫌! 無理!」
「大袈裟ねえ。もう決まったことなんだから、わがまま言わないの」
「勝手に決めないでよ! 大体あの人勘当されたんじゃないの?」
「何言ってるの。そんなわけないでしょ」
「だって家出てから一回も帰ってきたことないし、容子さんだって今まで一言もあの人のこと話したりしなかったじゃない!」
「あら、帰ってきたわよ。五年位前に一回」
容子さん……。
「茜の前で浩行の話をしなかったのは、浩行が出て行ってすぐのときにその話したら、物凄い勢いで泣き出したからよ。覚えてないの? あのときは大変だったんだから。荒れに荒れて。それ以来うちでは浩行の話はしなくなったのよね。まあ茜はお兄ちゃんっ子だったからねえ。浩行が出て行ったときも号泣してたし。愛情が屈折しちゃったのかしら」
「じょ、冗談でもそんな恐ろしいこと言わないでよ!」
“お兄ちゃん”って言葉を聞いただけで失神しかけたんだから。
「そんなに照れなくてもいいのに。昔は本当に仲がよかったものね」
「照れてない! 仲よくない! どこをどう見たら仲よく見えんのよ! 絶対に嫌だからね、あんな人と暮らすの。あたしも北海道に行く!」
「転校とかその他諸々の手続きを全部自分でするならいいわよ」
「え」
「できないなら浩行のところ。北海道でダーリンと新婚気分に戻る予定なんだから茜はついて来なくていいの」
それが本音か。
「じゃあ一人暮らしを」
「あら、そんなお金持ってたの?」
一円たりとも援助する気はないってことですか。
「とにかくもう決まったことなの」
「容子さ〜ん」
あたしには十歳年の離れたクソ兄貴がいた。そう、いた。あたしにとってそれはすでに過去のことだった。むしろ、すでにあたしの過去から兄という存在は抹消されていたはずだった。今日までは。
クソ兄貴の名は立花浩行と言った。このクソ兄貴にいたいけなあたしがどんな目に合わされてきたかは、涙なくしては語れない。
普通十歳も年が離れていたら妹を少しは可愛がってもいいものを、あのバカは幼いあたしを散々こき使い、いびりまくり、やれるだけの嫌がらせはやって、挙句の果てには生命の危機にまでさらしたのだ。
あたしがあいつのせいで死にかけたのは一度や二度じゃない。
仕事大好き人間の父親と、外出大好き人間の母親は揃いも揃って思い切り放任主義で、クソ兄貴の横暴を止めてくれる人は誰もいなかった。
両親は、もはや神業的な猫かぶりを身につけたクソ兄貴を完全に信用してしまっていたし、ちょっとでもあたしが誰かにクソ兄貴のことを言いつけようとすれば世にも恐ろしい報復が待っていた。
そんなわけであたしが十歳のときにクソ兄貴が家を出たときは嬉しさのあまり号泣してしまった。癪なのは、傍からはダイスキナオニイチャンがいなくなって、悲しくて泣いているように見えてしまったらしいこと。
とにかく、あの悪魔がいなくなってからはまるで天国のようだった。
クソ兄貴は少なくともあたしが知る限りでは帰ってくるどころか電話すらしてくることもなかったし、お嫁に行ったら娘の存在すら忘れてしまいそうな両親は、絶対にクソ兄貴のことはすっぽり忘れていたはずだ。
そんな環境に置かれたあたしの中の立花浩行に関する記憶は、完全に封印されてしまったはずだった。
そしてあたしはこれからも暗い過去は振り返ることなく、明るい未来を送っていくはずだった。
なのに、なのに!
「茜は七年ぶりの再会なのよね。嬉しいでしょ」
無神経な容子さんの発言に反論する気力もない。
ああ神様、茜はあの恐ろしい悪魔に散々虐げられながらも、こんな立派ないい子に成長しました。それをお見捨てになるのですか。
「今度の日曜日には浩行のところ移ってもらうから。もう一週間ないんだからさっさと荷造りしておきなさいよ」
「あ、う……」
神様、一生恨みます。
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