トップ | 小説一覧 | くさり目次 | 熱の功罪 010203


 遠くで、泣き声が聞こえた気がした。


  熱の功罪03


 茜の膝が当たった部分が鈍く痛む。浩行はその部分を押さえながら、荒い息のまま体を動かし何とか仰向けになった。
 ドア越しに届いた泣き声は、きっと空耳ではない。
 ――やっぱり泣いたか。
 いくら熱があるからと言って、こんなにあっさり理性が崩れてしまうとは思わなかった。
 唇に触れた茜の体温を思い出し、ぞくりと身震いをする。
 もう少し。
 重い右腕を持ち上げて、天井に向けて伸ばす。

 もう少しで手に入れられそうだったのに。





「クソ兄貴のバカ野郎」
 久しぶりに乙女らしくシクシク泣いて、ちょっとすっきりしたからその一言で泣くのをやめることにした。
 立ち上がって大きく伸びをする。
 よく考えたらどうしてあたしが、あんな奴のためにこんなうじうじ悩まなきゃいけないんだ。バカみたい。
 もっと大人にならないと。いつか、クソ兄貴のことも軽くあしらえるくらいには。

 洗面所で顔を洗ってから、クソ兄貴の様子を見るために再び部屋のドアを静かに開けた。
 クソ兄貴は大人しくベッドに横になって寝ているみたいだった。とりあえず気まずい雰囲気になることはない。
 あたしは安心して部屋に足を踏み入れた。
「……お兄ちゃん」
 本当に寝てるのか一応確認してみる。
「おーい、変態さーん」
 耳元で呼びかけてもうんともすんとも言わない。完璧に熟睡中。
 ベッドの横に膝をついて、クソ兄貴の寝顔を覗き込む。寝顔だけなら普通のお兄ちゃんって感じなのに。
「ぶー」
 クソ兄貴の鼻の頭を人差し指で押し上げていつかやられたのをやり返してみる。こんなときじゃないとこんなことはできないから。
 風邪をひいて寝込んだクソ兄貴。本当は、少しだけ安心した。一体何の仕事をしてるかなんて知らないけど、平日は極端に遅く帰ってくることは減っても、やっぱり遅くなる日はあるし、早く帰ってきた日だって夕食を食べたらすぐ部屋に引っ込んでしまう。おまけに休みの日まで会社に行ったり部屋でパソコンに向かって何かやってる。
 一応今はあたしの保護者であるわけだから、倒れられたりしたらちょっと困るわけで、だからたまにはこうやってじっくり休養を取るのはいいことだと思う。それだけのこと。
「お兄ちゃん」
 もう一度呼びかける。気持ち良さそうな寝顔。
 この人の顔をまじまじと見つめることなんて滅多にないわけで。

「ちゅう、しちゃうぞー」

 不意に口走ってた言葉。次の瞬間血の気が引いた。あたし以外に誰もいるわけないのにとっさにあたりを確認する。
 キス、したいとか、一体どっから出てきたんだ。

 熟睡中のクソ兄貴。今なら何をしてもきっと気づかれない。何をしても、誰にも知られることはない。今だけ。

 悪魔の囁き。
 唐突に訪れた衝動。
 脳みそが熱い気がする。クソ兄貴の風邪がうつってしまったのかもしれない。
 ああ、きっとこのわけのわからない感情もそのせいだ。

 だから今だけ。

 薄く開いた唇は少し乾燥している。あたしは思わずつばを飲み込んだ。
 クソ兄貴のおでこにそっと手を置いて、目を閉じた。瞼の裏で光が瞬く。
 唇に、自分のものではない温もりを一瞬感じて。

 我に返る。

 何したあたし。
 今、何を、した。
 呆然とクソ兄貴の寝顔を見下ろすあたしの頭の中では、後悔の二文字がもの凄い勢いで駆け巡っていた。





「お、おは、おはよう!」

 翌朝。
 脅威の生命力で自然治癒、何事もなかったかのように起きてきたクソ兄貴と、あからさまに動揺しすぎたあたし。
「茜、顔赤いけど熱でもあんのか?」
 滅多に見せない優しさをタイミング悪く見せてくるクソ兄貴を心底憎いと思った。あたしはおでこのほうに伸びてきたクソ兄貴の手を、思わず勢いよく払った。
「あ、ごめん、何かね、お兄ちゃんの風邪、うつっちゃったみたいで。ああでも全然平気だから。お兄ちゃんはさっさとご飯食べて会社に行って」
 一晩寝たらいつも通りに戻ると思っていたのに、昨日よりも遥かに気まずさと恥ずかしさが増していて顔を上げられない。

 悔しいけど、一緒にいるのは時々心地いいと思う。
 でも、不覚にもドキドキしてしまうことはあっても、クソ兄貴に対するあたしの気持ちは、恋とか、そういうものとは違う。そう思わないとやっていけないって自分が一番わかってる。
 だから、昨日のことは全部熱のせい。
 クソ兄貴が熱でおかしくなったのと同じ。それがあたしにも伝染しただけ。
 そう自分に言い聞かせる。
 今までだって普通にやってきたんだから、これからも大丈夫。

「よし」
「あ?」
「あ、いや、何でもない、です」
 一人で気合を入れたらクソ兄貴に変な顔をされた。
 あたしは席を立って空になった食器を流しに持って行く。学校から帰って汚れた食器が待っていると疲労感が何倍増しにもなることに気がついてから、朝は食べ終わったらすぐに食器を洗うようになった。
「お兄ちゃんも早く食べてお皿持ってき、てー!」
 気配もなくいつの間にかあたしの後ろに立っていたクソ兄貴のおかげで、危うくお皿を割りそうになった。
「一体何なんだよ」
 重ねた食器を渡しながら、不機嫌そうにレンズの向こう側の目を細めて。
「何、が」
 やっぱり気まずくて反射的に目を逸らしてしまう。
「何がってそういうことがだ、ぼけ」
 手には泡だらけのスポンジを持って、顔だけクソ兄貴のほうに向けていたあたしは、クソ兄貴に頬を両手で挟まれて無理やり上を向かされた。
「昨日のことを気にしてるなら、悪い夢でも見たと思ってさっさと忘れろ」
「あ、いや、あのことはもういいんだけど」
「……もう、いい?」
 自分で忘れろっていったくせに、どうしてそこに反応するんだ。
「や、よくはないんだけど、全然。でもそっちよりあっちのこと、が」
 うっかり口を滑らしそうになってあたしは慌てて口を閉じた。
「あっちのこと?」
「ううん、違う。何でもないから。うん。だから手、離して」
 触られているところが、本当に熱が出てしまったみたいに熱い。
「俺に隠し事とはいい度胸だな」
 こういうときのクソ兄貴はハイエナ以上にしつこい。唇の端を持ち上げて、にやりと笑うクソ兄貴。目が笑ってないよ。

「帰ったら覚悟しとけよ」

 何の嫌がらせか耳元で囁いて、全身鳥肌のたったあたしを置いてクソ兄貴はさっさとご出勤。
 あたしは昨日のことは絶対に墓場まで持っていくと決意した。
 クソ兄貴にだけは死んでも言えない。


←02へ


トップ | 小説一覧 | くさり目次