トップ - 小説一覧 - 青い鳥はいない09 ←前へ   次へ→


 ほとんど寝た気がしないまま迎えた月曜日の朝、待ち合わせの時間、待ち合わせの場所に黒岩双葉はいなかった。昨日があれでいるわけなかった。律儀に約束を守った自分がバカみたいだった。


  09.振り出しに戻る


「カオルン、黒岩くんと何かあったの?」
 昼休み、私のトイレについてきたキャサリンが、トイレを出てすぐに立ち止まって心配そうな顔を向けてきた。何かと思ったら。
「……なんで?」
「カオルンはひどい顔してるし黒岩くんは思い切りカオルンのこと避けてるから」
 ひどい顔なのはただの寝不足のせいだ。その寝不足の原因は黒岩双葉だけど。
 黒岩双葉が私のことを避けているのは誰の目から見ても明らかだった。私が黒岩双葉の席の前を通るだけで顔を背けるか逃げるように別の場所へ移動するくらい。
 こっちから話しかけるつもりは元々ないけど、私が話しかけたらどうするつもりなのだろうとは思った。偽善者の黒岩双葉でも、クラスメートの前で一応彼女と認識されている相手を無視するのかとか。
「キャサリン、何でも相談にのるよっ」
 心配そうな表情があっという間に期待に満ちた表情に変わる。発言内容と顔が合ってない気がするけど思えばこの半年の間、お互い相談したりされたりということがなかった。キャサリンの期待に応えるためにもそろそろこの友達っぽいイベントの一つをこなしてみるのもいいかもしれない。
 私はひと気のない場所を求め渡り廊下を渡って音楽室とか理科室とかの特別教室が集中している北校舎に向かった。
 そこから一階に降りて階段の裏に回る。ここならとりあえず話を誰かに聞かれる心配はないだろう。
「何? 何? 内緒話? やーんドキドキしちゃうっ」
 何も言わずについてきてくれたキャサリンは大げさに体をくねらせた。周りにひと気はなくてもこの声のでかさはさすがに気になる。
「内緒話だから声はもっと小さくでお願いします」
「はいっ」
 キャサリンは勢いよく右手を挙げて小声で返事をした。動きのうるささはどうにもならなかった。
「それでそれで、何があったのかな? キャサリンが聞いてあげるっ」
 キャサリンに話すのがちょっと不安になった。やたらと嬉しそうなキャサリンに、数分前の判断をひそかに悔やみながら私は口を開いた。
「黒岩双葉のファーストキスを奪ってやった」
 キャサリンは笑顔のまま何度か瞬きをして私を見つめ小首をかしげた。
「奪われたじゃなくて?」
「うん、ぶちゅーと奪ってやった」
 自分で言いながら昨日のことを思い出して鳥肌が立った。
 何かを考えるように顎に手を当てたキャサリンは、もう一度私を見た。
「結婚できる歳になるまでしない主義って言ってなかった?」
 キャサリンは時々普通につっこんでくるから油断ならない。
「だって、本当に腹が立つことがあって、一泡吹かせてやろう的な、そんな勢いでつい」
「……そっかぁ、危険なのは黒岩くんじゃなくてカオルンのほうだったか……」
 キャサリンは何度か頷いてぶつぶつつぶやいた。
「でもでもっ、なんでそれで黒岩くんがカオルンのこと避けてるの?」
「知らない」
 それだけ私とのキスが嫌だったんだろう。
「……男のプライドとか、そんな感じかなぁ……」
 珍しく真面目な顔をしたキャサリンがまたぶつぶつ言いながら考え込んでいる。
「キャサリン」
「なあに?」
 キャサリンの目に私が映る。
「あのさ」
「うん」
 私はしばらくキャサリンを見つめてから、本当に訊きたかったことをどうにか口にした。
「嫌いな人とキスしても気持ち悪くならないのって、やっぱりおかしいよね」
「好きな人とキスして気持ち悪くは普通ならないと思うよっ」
「だ、だから好きじゃなくて」
 そうだ、キャサリンは私が黒岩双葉のことを好きでつきあっていると思っているんだった。
「本当は」
「うん」
「黒岩くんのことが大嫌いで、嫌がらせのためにつきあうことにして」
 突然キャサリンがおかしそうに笑い出して私はうろたえた。
「な、何」
「キャサリン、カオルンがそんな器用なことできる子じゃないって知ってるもん」
「器用とか関係ないよ。事実だよ」
「わかってないなぁ」
 私が反論するとキャサリンは人差し指を立てて、うっかり見惚れてしまうとびっきりの笑顔を浮かべた。
「カオルンの『大嫌い』はね、『大好き』ってことだよっ」
 一昨日同じようなことを黒岩双葉にも言われたのを思い出した。私の周りには話が通じない人しかいないのか。
「とにかくね、黒岩くんとちゃんと話したほうがいいと思うの。黒岩くんが逃げようとしてもつかまえるんだよっ」
「……考えとく」
 黒岩双葉にダメージを与えるという当初の目的は一応達成できたみたいだし、私としてはこのまま、私を避ける黒岩双葉をわざわざつかまえて別れ話をすることなく自然消滅的に別れられるのならそれでいいんだけど。

 黒岩双葉と新島さんが一緒にいるのを見かけたのはその日の放課後だった。教室前の廊下の窓から二人が中庭のバスケットゴールの下に立っているのに、久しぶりに一緒に帰ることになったキャサリンが目ざとく気づいたのだ。
 小学校も同じでそれなりに仲がいいらしい二人が一緒にいること自体は珍しいことでも何でもないけど、あんなところで二人だけで、ここからでもわかるくらい深刻な雰囲気で何をしているのかは気になった。
「あの雰囲気は告白かも……」
 二人に負けず劣らずの深刻な顔でキャサリンが言った。
「告白?」
「だって、新島さん黒岩くんのこと好きなんだよっ」
「……え?」
「まさかカオルン気づいてなかったの?」
 私が知っているのは、新島さんが黒岩双葉のことを好きだったという過去形の噂だ。今も好きだなんて聞いていない。
「今日黒岩くんカオルンのこと避けてたから、焦って勝負かけたのかもっ。カオルンとつきあっちゃったのかなりショックだっただろうし」
 キャサリンの言葉にぎくりとした。なかったことになっていた、好きでもないのにつきあっている罪悪感が顔を出す。それなりに人気があるらしい黒岩双葉のことを好きな子がいるはずなのを私はわかっていたのに。元を正せば黒岩双葉がひどい勘違いをしたせいだけど。
 私があの日ちゃんと黒岩双葉の誤解を解かなかったから、新島さんがつらい思いをすることになった。
 私は、好きでもないのに黒岩双葉のファーストキスを奪ってしまった。
 手の甲がかゆくなる。
 何か、私、すごく悪者だ。一番悪いのは黒岩双葉だけど、私が新島さんの立場だったら私のことを許せる気がしない。
「カ、カオルン、大丈夫だよっ」
 突然キャサリンに励まされて我に返った。
「え?」
「黒岩くんにはカオルンがいるんだもんっ。新島さんに告白されてもちゃんと断るに決まってるって」
「そういうこと考えてたんじゃない」
 キャサリンも黒岩双葉もどうしてこう変な勘違いばかりするんだ。
 私の目的は一応達成されたからもう黒岩双葉と無理につきあう必要はない。新島さんと、私に少しばかりある良心のためにもむしろ断らないでほしいくらい。でも新島さんの幸せは願えても黒岩双葉の幸せは願えないし、黒岩双葉がすぐに新島さんとつきあい出したらせっかく私が与えたダメージが薄れてしまいそうで嫌なのも事実。
「あ、話終わったみたい」
 私の言葉を無視してキャサリンは二人のほうを指差した。
 つられて見ると新島さんが走って黒岩双葉の元から去っていくところだった。
「むむ、あの様子だと新島さんはふられちゃったっぽいね」
 喜ぶべきなのか悲しむべきなのかよくわからなくて私は顔をしかめた。
「そもそも告白って決まったわけじゃないじゃん」
「それなら確かめに行こっ」
 キャサリンに手首をつかまれて引っ張られた。ちなみに私はキャサリンに腕相撲で十三連敗中で一度も勝てたことがない。
「え、やだよ。黒岩くん私のこと避けてるし」
「だったらなおさら行かなくっちゃっ」
 やたらと目をキラキラ輝かせているキャサリンは、間違いなく友達の恋の危機を救うという状況に浮かれていた。お互い、今までこんな状況になったことなんてなかったから。今もキャサリンがそう思い込んでいるだけで全然そんな状況じゃないけど。
 黒岩双葉がすでに移動していることを期待していたのに間抜けな黒岩双葉はキャサリンと私が中庭に到着したときもこっちに背を向けてまだゴール下に突っ立ったままでいた。
 その姿を確認した途端足がすくんだ。
「黒岩くんっ」
 そんな私に構わずキャサリンは黒岩双葉に声をかけてしまう。
 驚いたように振り返った黒岩双葉と目が合った。逸らされる前に逸らして私の手首をがっちりつかんでいるキャサリンの手を見つめた。この手から抜け出すのは不可能に近い。
「な、なんでここに」
「新島さんと話してるのが見えたのっ。何話してたの?」
 キャサリンは遠慮を知らない。空気もわざと読まない。
「な、何って」
「もしかして告白?」
 キャサリンの問いかけに黒岩双葉がうめくように声を上げたのを聞いた。
「やっぱりそうなんだぁ。それで黒岩くんはなんて答えたの?」
「そんなの、キャサリンには関係ねえだろ」
「ひどーい! でも、カオルンにはあるよね? 彼女なんだもんっ」
 突然名前を出されて驚く間もなく手首を離されて背中を思い切り押された。
「じゃあ後は二人で話してねっ。バイバーイ」
 私を黒岩双葉の前に押し出したキャサリンは、ぶんぶん振っていた手で敬礼をして去っていった。この状態で置いていくなんて聞いてないぞキャサリン。
 私と黒岩双葉の間には一方が幸せ王子だとは思えないくらい重く気まずい空気が漂っていた。
 黒岩双葉が動く気配はない。このまま何も言わずに私もさっさと帰ろうかとも思ったけど、せっかくだからこの機会に黒岩双葉とちゃんと別れて早くすっきりすることにした。
 黒岩双葉はうなだれて立ちつくしている。顔さえ上げようとしないことにイライラしながら私は口を開いた。
「新島さんとはどうなったの」
 別れ話を切り出す前に黒岩双葉が触れられたくなさそうにしていることをわざと訊いてやった。キャサリンの言う通り私にも関係ない話じゃないし。
「……別に、どうも」
 黒岩双葉らしくない歯切れの悪さだけどやっぱり。
「新島さんのことふっちゃったんだ」
 ということは私は悪者のまま。どうでもいいけど。
「俺には薫子がいるから」
 黒岩双葉は覇気のない声で、でも黒岩双葉らしく気持ちの悪い言い方をした。
「それなら別れるってことでいいよね。昨日のこと気にしてるんだったらあれは不幸な事故だと思ってもう忘れて。私も忘れるから。だからこれできれいさっぱりお別れということで」
 黒岩双葉にはずっと忘れないで苦しみ続けてほしいところだけど偽善者の黒岩双葉が変に気にして別れられないとか言い出さないようと思ってとりあえずそう言ったら、黒岩双葉が勢いよく顔を上げた。怒ったような目とぶつかった。
「嫌だ」
「え?」
 てっきり「そうする」と返ってくると思っていた私は予想外の答えに間抜けな声を出してしまった。
「そんなの嫌だ。絶対忘れない。つーか別れねえし!」 
 ということはつまり、どういうことだ。
 まさかの展開に私はうろたえそうになるのを何とかこらえる。
「……じゃあ、なんで今日私のことあんなに避けてたの」
 あの態度はどう見たって私と別れたいと言っているのと同じだった。
 黒岩双葉はまた気まずそうに視線を逸らした。
「だって、まさか薫子からされるなんて思ってなくて、びっくりして、逃げちゃうみたいになっちゃったから余計に気まずくて、だ、大体薫子はなんでそんなに平気なんだよ!」
 逆切れしてきた黒岩双葉に、昨日からくすぶり続けていた私の中の何かが弾けた。
「へ」
「へ?」
「平気なわけあるか!」
 キスしたとき、私がどれだけ緊張したと思ってるんだ。キスした後、私がどれだけ後悔したと思ってるんだ。夜だって全然眠れなくて、考えなくてもいい余計なことまで考えて。
 平気でいたかったけど残念ながら私の神経はそこまで図太くなかった。
「全然平気じゃない。平気だったらなかったことにしたいとか思わない」
 あんなことしなければよかった。黒岩双葉を傷つける方法なら他にいくらだってあったはずなのに。
「……そっか」
 何故か黒岩双葉は微笑んだ。嬉しそうに。何なんだこいつ。私が思わず後ずさったのと同時に黒岩双葉は勢いよく頭を下げた。
「ごめん! 薫子のこと避けて傷つけるようなことして」
「いや、別に傷ついてないから」
 黒岩双葉はわたしのつっこみが聞こえていないのか無視して続けた。
「俺、薫子と、その、キ、キ、キス、できて嬉しかったから!」
 無駄にキラキラした目で見つめられて、私は愕然とした。捨て身でやっと与えられたはずのダメージはどこへいった。
「一生忘れない」
 黒岩双葉に関するいくつもの後悔の中でも最大級の後悔をしかけて思いとどまった。少なくとも黒岩双葉の中に、一生忘れないと思うような記憶として残った。それが後で黒岩双葉に致命傷を与えることになるかもしれない。というか間違いなくなる。
 そうでも思わないと悔やんでも悔やみきれない。
 さっきまでまとっていた重苦しい空気をいつの間にか吹き飛ばして私に押し付けた黒岩双葉は、いつもみたいに心底幸せそうに笑った。
「俺、超幸せ」
 幸せ王子を不幸のどん底に突き落としてすっきりお別れするはずだったのにどうしてこうなった。

 その日私は放心状態で黒岩双葉と手を繋いで帰った。


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