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第1話 沈む夢
「お茶」
ご主人様の一言で私は学校近くの自動販売機まで駆ける。
冷たい缶を手に、本当なら鍵の掛かっているはずの屋上へと続く扉の前で乱れた呼吸を整えた。
重い扉を押すと痛いほどの水色が目に入る。
その中にフェンスにもたれて空を見上げる男の子が一人。
見た目に反比例して口が悪くて、ちょっと怖い私のご主人様の結城くん。
結城くんが眠そうな顔を私に向けた。
「遅い」
「あ、ご、ごめん」
あんなに急いだのに、と思いながらも反射的に謝ってしまう。
缶を渡すと結城くんが制服のポケットから何やら取り出し、握り拳を差し出した。
「……何?」
尋ねた私に金、と一言言ってからその鋭い目で私を見上げた。
「いらねえの?」
「い、いります」
私の手の中に穴の開いた銀色の硬貨が一枚。
これ五十円玉、と口にしかけてやめたのは、結城くんがただでさえ怖いその目で私を睨んだからだ。
「何バカみたいに突っ立ってんの? 座れば」
「……うん」
結城くんは昼休みによく屋上に来る。
そこで空を見上げてぼんやりしたり、食後のおやつなんかを食べたりする。
私はたまに何か買いに行かされ、大抵はそのまま追い払われるので、屋上に一緒にいられるのは初めてだった。
一ヶ月前に転校してきたばかりのはずなのに何故か屋上の鍵を持っていて、猫並みに気まぐれで、何を考えるのかよくわからなくて、性格が悪いのも何もかもひっくるめて、私は結城くんが好きだ。
多分、この人生で初めて本気で好きになった人。
たとえ"犬"でも好きな人の傍にいられるなんて、私は幸せだ。
温かいコンクリートに腰を下ろした途端、私のおなかが鳴った。
「あ……」
お弁当はちゃんと食べたはずなのに。結城くんにも聞こえてしまったかもしれない。
しばしの沈黙。
「食べたきゃどーぞ」
私が買ってきたお茶を飲みながら、コンビニの袋からおにぎりを出してくれた結城くんを、思わずまじまじと見つめてしまった。
どうして今日はこんなに優しいんだろう。
「何」
「あ、ありがとう」
「別に。昨日の残りだし。俺、賞味期限が切れたのは食わない主義なの」
前言撤回。やっぱり結城くんは結城くんだった。
それでもせっかくだから頂くことにした。賞味期限切れのおかかのおにぎり。平気だよね。
「このお茶もなんかまずいからもういいや」
飲みかけのお茶を押し付けられて私はしばらく考える。
これはもしかして……。
「間接キス……」
慌てて口を押さえたけどもう遅い。
「は? 気色悪いこと言ってんじゃねえよ」
顔が赤くなっていくのが自分でもよくわかった。
今時回し飲みなんて特別なことじゃないかもしれないけど、気にするようなことでもないかもしれないけど、でも。
「あ! お前本当に屋上だったのかよ」
二人の間、と言うよりも私一人が気まずくなり始めたときだった。
違うクラスの男の子が三人やって来た。私は目を伏せる。
結城くんは何故か平気だけど、私はもともと男の子が苦手だ。
「お前もう行って」
そんな私の気持ちを知ってか知らずか、結城くんが私に言った。
「あ、もしかして俺らお邪魔だったとか?」
三人のうちの一人が笑いながら言った。
「しっかし結城と二宮サンなんて意外だよな」
見下すような笑い。私じゃ結城くんには全然似合わないって。
「何やってんだよ。行けって言ってんだろ」
「あ、うん、ごめん」
結城くんに促され、私は食べかけのおにぎりを持って立ち上がり、スカートについたゴミを払った。
「お前、カノジョにそれはないんじゃん?」
後ろで聞こえた会話。
「ああ、あいつは"犬"だから」
「うわ、きっつー、あはははは」
勝手に笑ってればいい。
帰り道。
いつも横切る公園の桜の木を見上げた。花びらはほとんど散ってしまっている。
私はきれいな花をつけた桜よりも葉桜が好き。花びらはすぐに落ちてしまうから。
少し前までよく見ていた夢を思い出した。
目覚めたとき、いつも足がすくんでいて、胸が苦しくて、そして泣いていた。
「結城くんなら助けてくれるかな……」
小さく呟き土を踏む。
"ねえ、俺の犬になってよ"
誰もいない放課後の下駄箱の前で、結城くんが私に言った最初の言葉。
私は何も考えずにただ頷いた。
あのときから結城くんが私の全て。
もし結城くんがいなかったら。
怖すぎて考えたくない。
「結城くん……」
嫌みなほど青い空の下で、大好きなその人の名を呼ぶ。
穴に落ちる夢を見た。
真っ暗闇で無重力を体験し、あるはずの底を夢見てひたすら願う。
己の死を。