トップ - 小説一覧 - 雨のち晴れ


『そういえばもうすぐバレンタインデーですね。おれはあまいもの大好きです。葵』


  チョコのちアメ


 いつもの通り葵のどうでもいい授業の感想や友達の面白話が書かれた交換日記。この字を読むのにもいつの間にか慣れたなと妙な感慨に耽りながら文面を目で追っていた桃子は、その文章を思わず何度か見返した。
「バレンタインデー……」
 ほんの数日前まで中学受験でいっぱいになっていた桃子はそれでやっと自分には無関係のはずのイベントが間近に迫っていることに気づいた。
 第一志望校の入試直前に風邪をひいたときは自分の間抜けさを呪ったが当日はどうにか回復した。
 私立中学を受験することを葵には隠すつもりでいた桃子は試験が平日だったため、毎朝マンション前で待ち構えている葵に欠席をどう伝えるかが悩みの種だった。しかしそれも風邪のおかげで簡単に誤魔化すことができた。
 パジャマ姿のまま母親の目を盗み、マンション前で待っていた葵に風邪をひいたからしばらくは来なくていいと伝えるのは少し大変だったが、合格できた今となってはいいタイミングで風邪をひいたと自分を褒めたい気分だった。
 交換日記に『最近かぜとか受験で休みのやつがけっこういる。山内もめずらしく休んだと思ったら受験してた。しかも受かったって。広瀬とかはいかにもって感じだし前から知ってたけど、山内は勉強してる感じじゃなかったら、言われるまで気づかなかった。同じ中学に行くと思ってたからショックだ。ないしょにされてたこともショック。どうしてだまってたんだろう』と書かれたときはひやひやしつつ、次の日の日記に『受験はいろいろ大変そうです』とまるで他人事のように返事を書いた。
 受験から合格発表まではあっという間で、気が抜けたままいまだに合格したという実感がわかない。ただ両親も姉も桃子が驚くほど喜んでくれて、いじめっ子から逃げたくて私立に行こうとしているとは口が裂けても言えないと改めて思った。
「バレンタインデーかあ」
 桃子はもう一度葵の日記を読み返す。チョコレートを催促されているのは気のせいだと思いたかったが何度読み返してもあからさまに催促されている現実に変わりはなかった。
 葵はバレンタインデーをただでチョコレートがもらえる日だと思っているに違いない。
 もし渡すのなら学校では人目がありすぎるから朝か放課後、マンションの前で渡すのがいいだろう。他にすることがないのか、登校時だけでなく下校時も葵は桃子についてくるから渡すチャンスには困らない。
 一年前なら気持ち悪いと突き返されることしか想像できなかったが、桃子の勘違いでなければ催促してきたのは葵のほうで、さすがに毎日のようにノートの受け渡しをしている今なら葵も突き返すようなことはしないはずだ。
 姉の五月は毎年友人たちにばらまくためにかなり大量のお菓子を作っていて桃子も毎年そのおこぼれにあずかっていた。それを葵に渡してしまえばいい。
 そこまでどうにか考えると桃子はノートを閉じて部屋を出た。
「お姉ちゃん」
「んー? なあに?」
「今年も作るんだよね、バレンタインデーのお菓子」
 受験が憂うつだ憂うつだとしつこく言っていたが、推薦でさっさと受験を終わらせてしまった五月はリビングでスナック菓子を口に放り込みながらテレビを見て大笑いしていた。
「あー、今年は作んないよ。受験で学校来てない子も結構いるし。作るとしてもバレンタインデーの後かなー」
「え、で、でも、お父さん用のとか」
「んー、適当に買ったの渡すー」
 テレビに釘付けだった五月の視線が桃子に向けられた。
「何、桃子お菓子欲しいの? はっ、それとも誰かに――」
「お菓子食べたかっただけだからないならいい」
 五月に葵のことがばれたら何を言われるかわかったものではない。これ以上からまれる前に逃げたほうがいいと判断した桃子はそそくさとリビングを後にした。
 部屋に戻り再び机に向かった桃子は小さく息を吐いてからシャーペンを握った。

『昨夜、来週ある歌のテストの練習をしていたらお姉ちゃんがうまく聞こえるコツを教えてくれました。途中からカラオケの話になっていました。お姉ちゃんは自称カラオケの達人です。甘いものは私も好きです。駅前にあるケーキ屋さんのロールケーキが特に好きです。上条くんは食べたことがありますか? 甘くてふわふわでとてもおいしいです』



 バレンタインデー当日。
 葵は朝からやたらと機嫌がよく、桃子の表情は対照的に暗かった。
 チョコレート自体は、五月が桃子にと買ってきてくれたおかげでどうにかなった。シンプルな包装で葵に渡すのにはちょうどいい。しかしバレンタインデーに男の子にチョコレートを渡したことなどない桃子にとっては、相手が葵ということも相まって胃を痛くするなというほうが無理な話だった。
「おはよ!」
 満面の笑みを浮かべた、いつもより若干テンションが高いように見える葵がいつものようにマンションの前で桃子を待ち構えていた。
「お、おはよう」
 一応挨拶だけは返し、桃子は手にしていた交換日記を葵に押しつけるように渡すと葵がランドセルにしまっている間に足早で歩き始めた。少し遅れて葵がついてくる。てっきり直接チョコレートを催促してくると思っていた桃子は、拍子抜けしながらいつの間にか気味の悪い嫌がらせの日々が日常になっていることにどこか苛立ちを覚える。ただかつて葵にはっきりといじめられていたときよりはるかにましなのは確かだった。だから桃子も残りわずかとなったこの日常を黙って受け入れるしかない。
 学校への菓子類の持ち込みはもちろん禁止されていたが、今年で卒業ということもあるのか一部の女子はチョコレートを持ってきているようだった。浮ついた空気は一部の女子だけではなくクラス全体に広がっている。
 葵ももしかしたら誰かにチョコレートをもらうかもしれない。そうすれば桃子のチョコレートは必要なくなるだろうか。それとも甘いものが大好きだという葵はいくつも欲しがるだろうか。
 チョコレートは交換日記と一緒にさっさと渡してしまえばよかったと桃子は後悔していた。朝渡してしまうとその後気まずさを抱えて一日を過ごすことになるだろうと思い放課後渡すことにしたが、この緊張感を一日抱える羽目になることまでは考えていなかった。
 放課後、桃子の緊張はピークに達していた。葵は桃子が把握する限りは義理チョコを一つ、仲のいい女子のグループにもらっただけだった。
 帰り道はいつも通り桃子の後方に葵の姿があった。家に着けば葵と向き合わなければならないからできるだけゆっくり歩きたい。そう思うのにまるで葵から逃げるかのように早足になってしまう。
 マンションの前まで来て桃子は立ち止まり、何度か深呼吸をしてから振り返った。
「わ」
 思ったよりも近くに葵がいて思わず声を上げて後ずさった。
 どうにか逃げ出さないでいられる距離をとり桃子は葵と向き合った。普段は振り返ることもなくマンションの中に入っていたが今日はそういうわけにもいかない。
 チョコレートを渡す義務はない。しかし葵が欲しがっているのに渡さなければまた露骨な嫌がらせが再開するかもしれない。残り少ない小学校生活をできるだけ穏やかに過ごしたいという願いを叶えるためには必要な行為なのだ。
 生まれて初めて異性にチョコレートを渡す恥ずかしさを少しでも紛らそうと桃子は自分に何度も言い聞かせた。
 顔はとても見られなかったが葵は何も言わずに桃子の前にいる。このタイミングを逃せばもう渡せない。
 桃子はやけに重く感じていたランドセルを肩から下ろし、中に入れていた赤い包装紙に包まれた小さな箱を取り出した。葵の視線を嫌というほど感じるが視線の元を辿る勇気はない。ランドセルを背負い直すと目を閉じ、両手で握りしめた箱を葵に突き出した。
「こ、これ!」
 声を震わせ、顔を真っ赤にした桃子の横を、同じマンションに住む顔なじみの主婦が微笑ましく思いながら通ったことに桃子は気づかなかった。桃子は義理のつもりでも、その主婦、そして葵には本命の相手に必死にチョコレートを渡しているようにしか見えないことにももちろん気づかない。
「小川……」
 箱が自分の手から離れて桃子はやっと目を開けた。
「ありがとう! すっげえ嬉しい!」
 言葉以上に嬉しそうな葵の笑顔が視界に飛び込んでくる。
 自分があげたものを葵がこんなに喜んでいる。不思議な感動に浸りかけ、葵はただ甘いものが大好きなだけだと桃子は思い直す。誰からもらっても葵は同じ反応を返すだろう。現に休み時間に桃子の後ろの席で義理チョコを渡されていたときも驚きながらも嬉しそうな声を上げていた。
 しかし近くにいれば顔をしかめられた日々を思い出すとこの反応は奇跡のようだ。
「あ、じゃ、じゃあ、私行くね。……バイバイ」
 その日初めて桃子は葵に別れの挨拶を告げた。残された葵はマンション内に消えていく桃子の後ろ姿を見送り、それから手元に視線を落とした。
 小さな箱は桃子のように愛らしかった。この箱に桃子の気持ちがつまっていると思うと抱きしめずにはいられない。
 桃子が姉からもらったものをそのまま流用した事実を知らない葵はしばらくその場で箱を抱えたまま喜びを噛みしめていた。



 顔なじみの主婦からの情報により桃子が男の子にチョコレートを渡した事実はすぐに母、そして五月に知られることとなった。当然のように五月にそのことをしっかりとからかわれた桃子は一ヶ月後、葵からお返しにと渡されたアメの詰め合わせを葵に投げつけたい衝動と闘わなければならなかった。



トップ - 小説一覧 - 雨のち晴れ