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逢瀬
「やっと卒業だね」
「そうですね」
「ちょと早いけどおめでとう」
「ありがとうございます」
放課後、保健室で私の膝の擦り傷を手当てしてくれている先生は、そのままいつもの世間話のような口調で続けた。
「卒業式が終わったら、うちに来ない?」
思わず言葉に詰まったのは、先生の突然の誘いに驚いたのと保健室の戸が勢いよく開いたからだった。
「あれ、宇野っち、また怪我したの?」
入ってきたのは同じクラスの明日香だった。幸いなことに今の会話は聞かれていなかったらしい。
「うん、ちょっと転んじゃって。明日香は?」
「この間先生に借りた本返そうと思って」
明日香は鞄の中からハードカバーの本を取り出した。
「先生、ありがとうございました。すっごくよかったです。机の上に置いておきますね」
「ああ、ごめんね。今手離せなくて」
「いーえ。じゃあ先生さようなら。宇野っちもいつまでも先生に迷惑かけないようにね」
余計な一言を残して去って行った明日香から、先生の後ろの机に置いてある本に視線を移す。
「何の本ですか?」
「ん? ああ、自己啓発系の本。宇野さんも読む?」
「あ、いえ、そういうのにはあまり興味ないので」
明日香がそういう本を読むところも想像できない。明日香と先生は一体どんな話をしたのだろう。先生と話すときは二人きりのときよりも他に誰かがいることのほうが多いけれど、明日香が保健室に来るところは見たことがなかったから余計に気になる。
「結構面白いんだけどなー。読みたくなったらいつでも言ってね。よし、はい終わり」
傷の手当を終えた先生が顔を上げる。のん気な笑顔を見ていると明日香と先生のことを気にしている自分がバカみたいに思える。
「で、いい?」
「あ、はい。え?」
答えてから何の話だったかを思い出した。
卒業式は思ったよりも呆気なく終わった。私の周りはみんな同じ大学かわりと近くの大学に進むからそう感じたのかもしれない。
卒業式が終わった後は、友達とご飯を食べたりあちこちふらふらして最後の制服を満喫した。家族には今日は友達の家に泊まるかもしれないと伝えてあったけれど、友達とは暗くなる前に別れて先生が描いてくれた地図を頼りに目的地を目指した。
「いらっしゃい」
迷うことなく先生の家に辿り着いた私を、黒いシャツにジーンズといういつもよりラフな格好の先生が笑顔で迎えてくれた。
先生の家は駅から歩いて数分の小奇麗なワンルームのマンションで、広いフローリングの部屋、角にいかにも高そうな布団が畳んで置いてあるだけの、本当に何もない部屋だった。
玄関の脇のキッチンには調理器具も食器もなくて、この部屋にある電化製品で見当たるのはエアコンくらいだった。
「こんなところで生活できるんですか?」
「ここ、秘密基地だから」
「は?」
私の反応が期待していたものと違ったらしく、先生は少し口をとがらせた。
「基本的に寝るだけの部屋なんです。置いてるのは洗面道具とか着替えくらいかな。おなか空いたら前のコンビニで適当に何か買って食べるし。実家の部屋はもっとごちゃごちゃしてるよ」
寝るためだけにこんな部屋を借りられる先生が、そういえば理事長の甥とやらだったことを思い出す。
「ん? どうした?」
立ち止まって余計なことを考えてしまった私の顔を、先生が覗き込んできた。
「いえ、私、もしかしたら玉の輿に乗れるのかなとか考えてました」
正直に告げたら先生は苦笑いを浮かべた。
「期待を裏切るようで悪いけど、多分、宇野さんが思ってるほどお金持ちってわけじゃないよ」
先生は私が少し重いセリフを口走ってしまったことに気づいているのかいないのか、それには触れずに流してくれた。私もさり気なく話題を変える。
「あと、女の人連れ込み放題ですねとか、そんなことを」
「うん、宇野さんを連れ込み放題」
満面の笑みを浮かべた先生に、そうですか、とだけ言って私は先生の後について部屋の中央まで進んだ。
座布団代わりに先生が敷いた敷布団の上に先生と向き合って座る。先生も私も正座で、何だか微妙な空気。我が家のせんべい布団とは明らかに感触が違う大きな布団も少し落ち着かない。
視線もどこに向ければいいのかわからなくて、とりあえず膝の上で組んだ両手を見つめていた。
今まで先生とは学校以外の場所で会うことはなかったし、メールや電話はそれなりにしたけれど他愛もない、それこそお互いの気持ちが通じる以前と大して変わらないような内容で、時々保健室で二人きりになることがあっても先生が必要以上に私に近づくことも触れることもなかった。
だから今日は、特別な日。
「ところで宇野さん」
先生がやっと口を開いてくれてほっとしながら私も返す。
「何ですか?」
「キスしたことある?」
「ありますけど」
先生の思わぬ質問に、どういう意味か考える前に反射的に答えたら笑顔だった先生が本当に驚いたように目を見開いた。
「うそ! 僕だってまだしたことないのに!」
そしてとても衝撃的な告白を聞いてしまったような気がする。
「……先生、何歳でしたっけ」
「二十五です。もうすぐ二十六です。結婚して一児のパパとかになっている友達もいます。というか宇野さんは遠回しに『え、その年でキスもしたことないの?』って言ってるんだねそうなんだね」
先生は私に向けた背中を丸めてわかりやすすぎるくらいにへこんでますというポーズをとった。
「え、いや、ちょっと驚いただけで別にそこまでは」
「やっぱり驚いたんだねひいたんだね」
「いや、だから驚いただけで」
その後しばらく一人でいじけていた先生はやっと気が済んだのか今度はあぐらをかいて私に向き直った。痺れてきたから私も足を崩して座る。
先生はぱっと見てかっこいいと思うタイプではないけれど、まだ若いし話しやすいし生徒にはそれなりに人気のある先生だった。少し変なところがなくもないけれど少しだし、普通にしているだけで普通に恋人ができそうなのに。
「大人がみんな恋愛経験豊富なわけではないのです」
今度は開き直った先生に、豊富以前の問題じゃないですかと言いかけたのを何とか飲み込みそうですねと相槌をうつ。先生がいなかったら、もしかしたら私もそういうことには縁のないまま一生を終えることになったかもしれない。
「世間の人はなんであんなほいほい相手を見つけられるのか不思議なんだよね。好きな人がいて、なおかつその好きな人に気持を伝えたり自分を好きになってもらわないといけないわけだし」
あの冗談のような告白も、先生にとっては精一杯の告白だったのだろうか。やけに子供っぽいところがあるくせにそういうのを表に出さないところはちゃんと大人なのが、何だかずるい。
「告白されて別に好きじゃないけど付き合うってパターンもあるんじゃないですか?」
「まさか君も」
「それは大丈夫なのでご心配なく。私はそういうのもいいと思いますけどね。でもやっぱり意外です。先生、普通にかっこいいのに」
少し持ち上げてみたら先生の表情が一気に明るくなった。
「はっきり告白されたことはないけど、今思うとそういうアプローチだったのかなってのはあるんだよ。一応」
先生がとても嬉しそうに言うから、私もよかったですねと素直に思えた。
「先生から告白したことはなかったんですか?」
つい気になって尋ねたら、何かまずいことを言ってしまったのかやっと機嫌を直したはずの先生ががっくりと項垂れた。
「え、あの、先生……?」
先生は何度か頭を横に振ってから顔を上げた。
「高校のときにさ、一回したことがあって」
先生の顔色が心なしか悪い。
最初に衝撃の告白を聞いたおかげか、好きな人の過去を全て受け入れられるほど大人になりきれていない私は先生の昔話をとても落ち着いた気持ちで聞くことができた。
「すごくかわいい子だったんだけど、性格も、何かすごくて」
「そういう子がタイプなんですか?」
私は見た目も性格も、よく言えば普通で、そういえば先生は私のどこを好きになってくれたのだろうと、今更ながら不思議に思う。
「いや、正直見た目だけで好きになって、そのまま勢い余って告白しちゃって。若いってこわいね」
「それでふられたんですか?」
「うん、こっぴどくふられました。しかもその後もひどくて、うう……」
何かを思い出したのか先生は身震いをした。
「そんなわけで僕の中では高校時代の一部はなかったことに」
一体何があったのか気になって仕方ないけれどここは深くつっこんではいけないところなのだろう。
「だからかな。自分から積極的に動こうと思えなくなって、そもそも女の人自体を少し避けていたかもしれない。勤め先が女子校になっちゃってそんなことも言ってられなくなったけど」
そんな先生が私に告白してくれた。あの告白の重さを改めて感じて、嬉しさを噛み締める。
「じゃあその古傷はもう乗り越えられたんですね」
「うん、ありがとう。君のおかげです」
「私、何もしてません」
私がしたことと言えば、人より少し多く保健室に通ったことくらい。先生にはもっと体を大事にしろと怒られたけれど、それで先生と話すことが多くなって、気がついたら先生を好きになっていた。先生も、そんなふうに私を好きになってくれたのかもしれない。
「ところで先生」
「はい?」
「さっきの、うそです」
先生は笑顔のまま首を傾げた。何だかかわいい。
「さっきのって、どれ?」
「キスしたことがあるって」
「え」
「私、中学校からずっと女子校で、バイトとかもしてないから男の子と出会う機会なんて滅多にないし、もてるタイプでもないのでつまり先生と同じです」
「なんでまたそんなうそを」
「ちょっと、見栄を張ってみたかったんですけど」
私よりもずっと大人のはずの先生に少しでも釣り合うようになりたくて。
「ああ、ごめんね、見栄を張る必要もない相手で」
またいじけモードに入りそうになった先生に両手を伸ばした。
「先生」
先生はいつもの幼い笑みとは別の、静かな笑みを口元に浮かべた。
「何? 抱っこ?」
仕返しのつもりなのか、少し意地悪な顔。ここで負けるわけにはいかない。
「家族には今日は友達の家に泊まるかもって言ってあります。着替えもちゃんと持って来てます。今日はずっと先生と一緒にいられます」
先生の目を見つめて両手を伸ばしたまま一気に言った。しばらく見つめ合った後、先生は小さく息を吐いた。
「悪い子。後で嫌だって言っても知らないよ」
先生に抱き締められる。強く、抱き締められてそこで初めて先生をこわいと思った。
想像と現実は全然違う。想像では抱き締められるときこんなに苦しくはなかったし体勢がつらいと思うことも手の行き場に困ることもなかった。先生の息遣いなんて聞こえなかった。
先生は私の頭を何度か撫でてやっと離してくれた。と思ったら肩をつかまれて先生の顔が近づいてくる。とっさに目を閉じた。今度はこわいと思う間もなく先生の唇が私の唇に触れるのを感じる。
その静かな行為とは裏腹に私の心臓は今にも飛び出しそうなくらい胸の奥で暴れていた。
先生の唇が離れてからゆっくりと目を開ける。
「あは、顔真っ赤」
心底嬉しそうに笑う先生に、いつもの先生だと安心したら何も言い返せないのが悔しくなった。
先生、どうしたらそんな平気な顔をしていられるのか教えてください。
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