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 始まりの終わり
雨のち晴れ

 最初は桃子のことが好きだったのかもしれない。
 たまたま見かけた笑顔がかわいいと何となく思っていた。三年のクラス替えで同じクラスになれたときは嬉しかった。
 それがおかしくなってしまったのは本当に些細なことがきっかけだった。葵が初めて桃子に話しかけようとしたときに、緊張していつもより大分小さくなってしまった葵の声が桃子に届かなかった。だから桃子は気づかずに葵の横を通り過ぎて友人と談笑していた。ただそれだけのことだった。今なら傷つくだけで終わるが、かつての葵はそれだけのことで自分を全て否定されたような気がした。好意的な感情が逆を向くのに時間はいらなかった。
 自分の感情に任せて散々当たった桃子に再び好意を抱くようになったのは、犬のモモコの死がきっかけだった。大切な家族を失った悲しみに押しつぶされそうになっていた葵をモモコと同じ名前の桃子が救ってくれた。あのときの手のやさしさを葵は一生忘れない。
 逆を向いた感情が元に戻るのにも時間はいらなかったが、それを葵が自覚し認め、くだらないプライドを捨てるのには少し時間が必要だった。

「モモコ、おれ、好きな人ができたんだ」
 
 布団に入り、写真のモモコに話しかける。丸い瞳が写真の中から葵をやさしく見つめていた。
「モモコと同じ名前の小川桃子。前にも話したことあるよな。おれ、ひどいこといっぱいしちゃった」
 モモコはいつも全てを受け入れるように傍にいてくれた。それがどれだけ葵にとって必要なことだったのか、いなくなって改めて思い知る。
「でも小川は俺にやさしくしてくれた」
 あの一件以来桃子のことが今まで以上に気になって目が離せなくて、離れたくなくて最初はそんな自分の感情に戸惑っていたがモモコに話しかけることで、自覚した気持ちをより強く意識する。
「おれ、小川と結婚して小川を幸せにする。明日交換日記を渡すんだ」
 それから桃子がやさしくしてくれたように自分ももっと桃子にやさしくしよう。そう心に誓い葵は淡い期待に胸を膨らませてモモコにそっとおやすみと告げた。

 桃子との関係は順調に進展していると葵は思っていた。
 交換日記を見ても最初の頃と比べると桃子が大分打ち解けてきているのがわかった。交換日記はさらに他の誰も知らないであろう桃子のことを自分だけは知っているという優越感を葵に与えた。
 毎日登下校も一緒で、残念なことといえば手を繋げないことと、桃子がなかなかちゃんと顔を合わせて話してくれないことくらいだ。
 だから信じてやまなかった。幼いけれど幼いなりに真剣だったプロポーズを受け入れてもらえると思い込んでいた。
 葵の思い込みは幼い桃子にあっさりと打ち砕かれ、傷心に浸ってそれでも中学でもう一度頑張ろうと決意を新たにしたがその決意が余計に葵を打ちのめすこととなった。
 ぎりぎりの時間まで待ってもマンションから出てこなかった桃子。入学早々遅刻しかけた葵を待っていたのはどこにも桃子の名前のないクラス割り表。何度目で追っても指で一人ずつ確認しても、小川桃子という名前を見つけることはできなかった。
 桃子の友人に尋ねようとしたが自分のせいで桃子が親しい友人を作ることができなかったことを思い出して胸が痛んだ。
 桃子本人に聞くしかないと、ひとしきり落ち込んでから思い直し葵は桃子の家に乗り込んだのだった。
 突然現れた桃子の元クラスメートだという葵を、桃子の家族は葵が恐縮するほどあたたかく迎えてくれた。
「ごめんねえ。桃子、今日は図書館に行っちゃって多分夕方まで帰って来ないと思うのよ」
 桃子が不在だったことは残念ではあったが結果としてはよかった。桃子がいたらドアを開けてくれることさえなかったかもしれない。
 桃子の留守中にまんまと桃子の家に上がり込んだ葵は、自分に都合の悪いところはうまく端折りつつ、桃子への熱い想いを伝え見事家族を味方にすることに成功し、桃子が私立の中学へ行ったという情報も手に入れることができた。
「葵くん」
 帰り際、桃子の父親に呼び止められた。葵の父親より少し年上で、そのわりには子供のような顔で笑う人だった。
「君はまだ子供で会うのも初めてだったけれど、一人の男として君を信じているから」
 娘を泣かせたら許さないと、暗に言われた。
 穏やかな笑みを浮かべた父親の重い言葉に、想い人の両親への挨拶が思いがけず予定よりも早く、そしてあっさりと終わったことに安堵していた葵は震え上がり気を引き締め直したのだった。

 中学での桃子のいないつらい三年間は、自分が桃子に与えたであろう苦しみを思い、そして将来桃子を誰よりも幸せにするために必要な準備期間なのだと思うことで乗り切った。
 桃子の家族が応援してくれたことも大きい。桃子の姉の五月は、桃子の周りに男の気配がないことや桃子がそのとき気に入っているものなどを時々メールで教えてくれた。

 高校は桃子と同じ私立の学校を受験するため葵は両親に土下座をした。両親は葵が、女のためとはいえ中学ではいまだかつてないほど勉強や部活動を頑張っていることを知っていたから高校に入ってからも学業を疎かにしないという条件で葵の受験を許した。
 そして見事に合格し幾夜も夢に見た再会を無事果たして桃子と結婚を前提とした友達になれた日の夜、葵は布団の中で静かに泣いた。
「モモコ、やっと小川に会えたよ。おれ、やっぱりまだまだだったけど、もう小川を離さない。今度こそ小川を幸せにする。あの手は、おれだけの手だ」





 桃子の朝はため息から始まる。
 眠い目をこすりながら、昨夜適当に書いた交換日記を書き直そうと一度鞄にしまった大学ノートを取り出し、ここ何日か分の日記を読み返す。

『昨日はバイトだった。最初のころは緊張してばっかだったけど最近はけっこう慣れてきた。お客さんのおばちゃんにがんばってるねーって声かけられた。なんかうれしい。店長いい人だし、バイトの先輩もいろんな人がいておもしろいし、時給は安めだけどいいところで働けてると思う。小川と一緒に仕事できたらもっといいけど、うちの店イケメンばっかだから小川は来ちゃだめです。お客さんとしてなら絶対おれがいるときに来てください。そういえばもうすぐ中間テストですね。今度一緒に勉強しましょう。葵』

 桃子の学校は、仕事の内容や時間などに制限はあったがきちんと届けを出せばアルバイトの許可は基本的に下りた。葵も入学早々コンビニで働き始め、葵の行動力は自分にはとても真似できないと桃子は素直に感心していた。その理由が桃子が唇を奪われた日に怒りに任せて投げ捨てた婚約指輪を買うためだとしても。

『今日生物で抜き打ちテストがありました。室井先生は抜き打ちテストが大好きみたいです。放課後は部活にも出ました。今度はカップケーキを作ります。楽しみです。アルバイトは順調そうですね。上条くんのお店にはかわいい子もいっぱいいますか? 中間試験の勉強はもう始めています。上条くんは忙しいと思うので、自分のペースで勉強してください』

『おれのとこも昨日生物の抜き打ちテストがあった。抜き打ちなんてひきょうだ。でも勉強がんばってるから満点とれた。ばあちゃんに見せたら喜んでくれた。父ちゃんと母ちゃんにもほめられた。もっとがんばるぞ。小川の作ったカップケーキ食べたいです。この間のクッキーはあきらめたから今度は絶対にください。うちの店は美人も多いけど、おれは小川が一番かわいいと思うので安心してください。浮気はしません。あとテスト前はシフト減らしてもらえたからちゃんと小川と勉強できます。今度の土曜日は一日空いています。葵』

『昨日は体育で卓球をやりました。球技は苦手だけど楽しかったです。来週はバレーをやるみたいで憂うつです。何度も言いましたがクッキーは焦がしてしまったのであげられませんでした。カップケーキも上条くんにあげられるかまだわかりません。上条くんのバイト先にかわいい子がいるか聞いたのはただの話の流れです。深い意味は少しもありません。試験勉強は、もし一緒にやるならうちでは絶対に無理です』

 言葉には表せない恥ずかしさが込み上げてきてそれ以上は日記を直視できず、桃子は書き直そうと思ったこともなかったことにしてノートを閉じ洗面所に向かった。


 恋人ではなく友達だと、確かにあの日そう約束したはずだった。
「小川ー、旦那が来たぞー」
 クラスメートの囃すような声に、桃子は顔を真っ赤にして俯いた。
 机を合わせて一緒に昼食をとっていた友人たちもにやにやしながら桃子を見ている。
「桃ちゃんいいなー、私も早く彼氏欲しい」
「だ、だから彼氏なんかじゃないって」
「今更隠さなくてもいいのに。上条くん、いつも桃ちゃんのとこに来るし。桃ちゃんもたまには上条くんのところに行ってあげれば?」
「だから、本当に違――」
「お・が・わ!」
 教室中に響く声で呼ばれ、桃子は耳をふさぎたくなるのを何とか堪えて手早く空になった弁当箱を片づけ立ち上がり、俯いたまま早足で葵の元へ行く。
「もう教室に来ないでって」
「代わりに小川がおれんとこに来てくれるならって言っただろ。小川が来てくれなかったのが悪い」
 葵の言い分はもっともで桃子は何も言い返せなかった。背中にクラスメートの視線をちくちく感じて、慌てて廊下に出る。
 登校は毎朝マンション前で待ち構えている葵と一緒。下校も、葵が遅くなるときは桃子は先に帰っていたが桃子が遅くなるときは葵は必ず待っていた。十分休みは次の授業の準備があるという理由で葵も教室には来ないことを納得してくれたが、昼休みは友人とのランチタイムだけは何とか確保したものの葵の来訪を阻止することはできなかった。そのせいで葵と桃子が付き合っているという誤解は少なくとも桃子のクラスでは公然の事実となっていてとうとう担任の熱血教師にまで「若いっていいなー」とあたたかく見守られるようになってしまった。葵のクラスでも葵の惚気話により同じようなことになっているらしいという情報の真偽は確かめたくもなかった。


 その夜突然鳴り出した携帯電話に、数学の問題に集中していた桃子はびくりと体を揺らした。
 携帯電話を開き画面を見ると、想像通りの名前が表示されていた。
「……もしもし」
『あ、もしもし、小川? 今平気?』
 桃子は反射的につきそうになったため息をこらえ、渋々頷いた。
「うん、平気だけど」
『今交換日記読んでさー』
 葵の言葉に、桃子は自分の顔に急速に血が上っていくのを感じた。気恥ずかしくて交換日記での話題は交換日記の中だけにしてほしいと、葵に頼んでいた。
『試験勉強の話』
 桃子が抗議の声を上げる前に葵はその必要がない話題であることを告げる。
『交換日記で決めたら時間かかっちゃうだろ』
「だったら、何も電話じゃなくてもメールで」
 そのほうが電話代もかからないのにと桃子が言うと、葵が電話の向こうで小さく笑った気配がした。
『小川の声、聞きたかったから』
 桃子は言葉を失い、葵は何もなかったように話を戻した。
『それでさ、一緒に勉強、小川んちが無理ならおれんちは?』
「か、み条くんのうち?」
 動揺を悟られまいとそれを何とか抑え込み桃子は聞き返す。
『そ。うちなら土曜は父ちゃんと母ちゃんはばあちゃん連れて温泉旅行でいないし、周り気にしなくてもいいし』
 そもそも一緒に勉強するという提案自体のむつもりは桃子にはなかった。
 ――あんまりひいてばかりだと、そのうち上条くん離れていっちゃうよ。
 数日前の友人の忠告が桃子を惑わせる。確かに桃子は葵との距離感がうまくつかめないことをどこかで気にしていた。自分が葵に対して少し冷たくしすぎているのではないかという不安もあった。葵の好意を受け入れることはできずにいるのにそれが自分から離れることをとても恐れていると、桃子は認めたくはなくても認めざるを得なかった。
『小川?』
「……あ、と、うん、わかった」
『つーことで土曜日の十時にいつもの場所で待ち合わせな』
 いつもの場所というのは、桃子のマンションの前のことだ。小学校時代、そして現在も交換日記の受け渡しをしている場所でもある。
『んじゃ、おやすみ』
「おやすみ」
 無事葵との電話を終え、桃子は携帯電話を置くと深く息を吐いた。鼓動が速くなっている。
「これで、いいのかな」
 誰にともなく呟き机に突っ伏した。



「おは、よ」
 土曜日の朝。約束の五分前にマンションを出た桃子は、曇り空を見上げため息を一つついてからマンションの前の植え込みのところにしゃがみ込んでいた葵に気づき、おそるおそる声をかけた。葵は桃子の声に勢いよく顔を上げた。
「おはよう」
 嬉しそうな笑顔の葵を見て、桃子は思わず目を逸らしてしまう。
「何、してるの?」
「だんご虫見てた。それより小川」
 立ち上がった葵を、目で追い見上げてから再び横に視線をずらした。
「いつもと違う」
 普段は二つに結んでいる髪を今日は下ろしていた。薄い化粧もし、何よりも高校生になって初めて見る桃子の私服に葵は驚いた。タイトなデニムスカートは膝丈だった制服のスカートよりも大分短く、白いジャケットの下は淡いピンクのキャミソールで、第一ボタンまできっちり閉められたワイシャツで常に隠れている首回りが大きくあいていた。
「昨日、今日は友達とテスト勉強するって言ったら、お姉ちゃんが」
 昨夜「明日桃子と勉強する友達って葵くん?」というメールが五月から来たことを葵は思い出す。
「お、お姉ちゃんのお下がりなんだけど、やっぱり変だよね。急いで着替えてくるから」
 姉の五月は衣装持ちで色々な種類の服を持っていたから、普段はありがたく姉のお下がりに頼っていたが露出の多い服は今まで避けていた。それをいつもよりかわいくしてあげるという五月の口車に乗せられ好きなようにされてしまった。
 恥ずかしさで泣きそうになりながらマンション内に戻ろうとした桃子の左手を、葵の右手が捕らえた。
「かわいい」
 桃子は涙の溜まった目を葵に向けた。
「いつもの小川も好きだけど、今日の小川も誰にも見せたくないくらい、かわいい」
 かつて刺だらけの言葉を桃子にぶつけたのと同じ口が、甘い蜜のような言葉を何度も何度も発して桃子を引き寄せる。
「行くぞ」
 葵は桃子の握った手を離さずに歩き出した。いつもならその手からすぐに逃れていた桃子は、自分のおろしたてのスニーカーを見るだけで何の抵抗もしなかった。

「……小川、どうしたんだ? 今日何か変だ」
 人通りの多いアーケードに入っても桃子は嫌がる素振りすら見せず、葵に手を引かれるままになっていた。葵が何か話しかけても小さく返事をするだけ。
「もしかして具合悪いのか?」
 葵は辺りを見回してから人を避けるようにして狭い路地に入って立ち止まった。
「小川?」
 熱でもあるのか思い葵は、右手は桃子から離さず左手で俯き気味の桃子の前髪をかき上げ額に触れた。桃子は驚いたように僅かに顔を上げ後ろに下がりかけたが自分の左手を掴む葵の手に阻まれ困ったように目を伏せた。
「んん、ちょっと熱い、か?」
 葵は自分の額にも手を当てて唸る。桃子の額と自分の額を何往復かしてから桃子の視線がいつの間にか自分に向けられていることに気づいた。
「何だ?」
「上条くんて」
「うん」
 桃子はごくりと喉を鳴らし、葵の心配そうな瞳に挑むように口を開いた。
「どうして私のこと、名前で呼ばないの?」
 手を繋ぎたいとか早く恋人になりたいとか、恥ずかしいことを平気で口にする葵が、自分のことを決して名前で呼ぼうとしないことが桃子は前から気になっていた。今もこうして握った手を離そうとしないのに。
「上条くんは、犬のモモコがいるから」
 バカなことを口にしているのはわかっていた。元は嫌っていた自分と、もういなくなってしまった大切な家族は比較対象にすらならない。
「小川だっておれのこと名前で呼ばないじゃないか」
「え」
 葵の反論に桃子は言葉を詰まらせる。
「い、今は私の話じゃなくて上条くんの」
「……今は、友達だから」
「え?」
「名前呼んだらきっともっと我慢できなくなる。友達にはしないこと、したくなる。だから名前で呼ぶのは恋人になってからって決めてるんだ。それと」
 葵の目に見つめられ桃子はその場から逃げ出したい衝動に駆られる。これ以上は駄目だ。そう思うのに葵の視線に縛られて少しも動けない。
「モモコはおれにとって大切な家族だけど、だからモモコのほうがとか、絶対ないからな。小川もおれと結婚してモモコみたいにおれの大切な家族になるんだ」
 葵の言葉はいつも桃子の不安を吹き飛ばそうとするように力強い。
 もう駄目だ。絶望的な気分で桃子は思った。藪をつついて蛇を出してしまった。必死に落ちないように穴の淵で何とかバランスをとろうとしていたがもう無理だった。葵の言葉が桃子の背中を突き飛ばし、桃子はそれに抵抗できずに穴に落ちる瞬間をはっきりと自覚した。
 いつかはこんな日が来るかもしれないと覚悟はしていたがまだ先のことだと思っていた。こんなにすぐ、こんなに唐突に訪れるとは思っていなかった。
 顔に血が上り、声にならない声が震える吐息となる。握られている左手の熱さも意識してしまう。
「わた、し」
 自分が何を口にしようとしているのかを知り、桃子は僅かに首を横に振った。言いたくないのに気持ちが抑えられない。
「私、上条くんのことが」
「待った!」
 思わぬ葵の制止に、桃子はあと少し出てしまいそうだった言葉を何とか飲み込んだ。
「嬉しいけど、すっげえ嬉しいけど本当に夢みたいだけど今は駄目だ」
 葵は何かを振り払うようにぶんぶんと首を横に振る。桃子が何を言おうとしたのか葵はすでに気づいているという事実を悟り、桃子は恥ずかしさから視線をあちこちにさまよわせる。
「もうすぐテストだし、今からおれんちに行くんだぞ。しかも二人っきりだ。今そんなこと言われたら勉強なんてできなくなる」
 葵は気持ちを落ち着けるように深呼吸を繰り返す。桃子は無意識のうちに葵の手を強く握り締めていた。
「だから、テストが終わったらもう一回」
 葵の声が震えた。桃子は思わず葵に視線を向ける。葵の瞳も揺れながら桃子を捉えた。よく見れば桃子ほどではないにしても葵の顔も赤い。そこでやっと桃子は、葵も不安にならないわけがなかったことに気づいた。
 桃子は今までの自分の態度を振り返る。葵がよく諦めなかったと思うほど突き放してしまったこともあった。葵の好意に慣れてきてそれに甘えていたのも事実だ。
「ごめんなさい。私、今まで上条くんにひどいこと」
「何言ってるんだ。おれのほうがひどいこといっぱいしただろ」
 だからわかるのだ。傷つけられることがどれだけつらいのか。
「テストが終わったら、ちゃんと言う、から。上条くんに、ちゃんと」
 過去に関わる複雑な気持ちは根深く残っているし葵の好意を受け入れる心の準備もできていない。それでもこの感情をなかったことにはできない。何より葵には自分の気持ちを伝えなければいけない。葵が桃子に伝えてくれたように。
「だ」
 突然葵が奇妙な声を上げ、桃子の手を振り払った。振り払われた桃子がかつての茨のような記憶を思い起こすより先に葵は続けた。
「駄目だ。やっぱ駄目だ。二人きりは無理だ。我慢できない」
「上条、くん?」
「心の準備、全然できてなかった。できてなさすぎた。小川、今日の勉強はなしだ」
「え」
「頭ん中、モザイクだらけになってる。今のおれ、危ないから近づいちゃ駄目だ」
 わけのわからないことを言い出した葵に桃子は首を傾げる。
「モザイク……?」
「今のおれはオオカミなんだ。がおー!」
 桃子を怖がらせようと葵は両手を高く上げ桃子を襲う真似をしたが桃子は訝しげな表情を浮かべるだけで何の効果もなかった。
「……動物ごっこ?」
 見当違いの答えに行き着いた桃子は、先ほどまでの恥ずかしさを忘れ葵をまじまじと見つめた。
「上条くんって、いつもいきなりだね」
「……いきなりなのは小川もだろ」
 葵は脱力し大きなため息をついた。急激に上がった熱が少しずつ落ち着いてくるのを感じる。焦りは禁物だ。焦って先を急ごうとすればするほど桃子は遠ざかってしまうが、ペースを合わせていけばこうして必ず追いついてくれる。そう自分に言い聞かせ葵は右手を桃子に差し出した。
「ごめん。勉強はなしだはなしだ。行こう」
 桃子は葵の右手を見つめて逡巡する。今までは葵が強引に繋ごうとしていたがこれからは桃子からも手を伸ばすのだ。今までのように葵から逃げることはできなくなる。
 なかなか手を取ろうとしない桃子を見て葵は困ったように笑った。
「今はまだ友達だ。恋人として繋ぐのはテストが終わってからだから安心しろ」
 葵は強引だが同時に桃子に対してとても気を遣っていることに桃子も少しずつ気づき始めていた。もう昔桃子をいじめていた葵ではない。
「……うん」
 桃子は大きく息を吸い込んで小さく頷き、左手を伸ばした。


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