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不可避02
目が覚めた瞬間欲しくて欲しくてたまらなくなった。
こんなに欲しいのに今この場にいないことに苛立って、右の拳をベッドに叩きつけたら思いの外響いて、下で寝ていた孝太郎が飛び起きた。
「うお、何、今の」
「気のせいじゃないの」
俺も起き上がって頭をかく。眼鏡。は、孝太郎の机の上か。
「んだよ、お前か。人のベッド奪っただけじゃ気が済まないのか」
「じゃんけんに負けるのが悪い」
遅れて鳴り出した目覚まし時計を止めて、絨毯の上に座布団の枕とタオルケット一枚で寝ていた孝太郎はわざとらしく肩を回した。
「家帰れよ」
「代わりに家賃ちょっと出してるだろ」
「本当にちょっとな」
「それより飯。」
「……あー、へいへい、今用意しますよ」
「あと今日代わって」
面倒くさそうに立ち上がった孝太郎が、驚いたように俺を見る。
「何急に。夢にでも出てきた?」
「違う」
「バイトは?」
「今日は夕方からだから平気」
「あれ一回きりって言ったのはどこの誰かなー」
「要はばれなきゃいいんだろ」
「そういう問題じゃない」
「お願い」
「代わってやるからその上目遣いを今すぐやめろ」
あれが何時の電車の何両目のどこに乗っているのかはわかっていた。
でも孝太郎が朝の電車ではあれに声をかけないとかわけのわからないことを言うから、同じ電車には乗ったけど一応その通りにしてやった。
殺人的な満員電車ではなくてもそれなりに混んでいる車内だから、あれが嫌がると思っているのか。
わりと早い時間で電車から降りる制服姿はそんなに多くない。あれの後ろ姿をすぐに見つけて、早足になりそうなのを抑えながら改札を通って声をかける。
「はよ」
振り返った顔はすでに驚いていたから、声をかけた時点でわかったのかもしれない。
「え、あれ、あ、おは、よう」
何か訊きたそうな顔はしたものの実際に訊いてくることはなかった。
感覚が麻痺しそうな空気が全身に沁みてくる。やっぱり、このままじゃ足りない。
離れたらまた渇く。
朝の誰もいない教室。二人きりで目の前には欲しくてたまらなかったあれの背中。毎日こんなにいい思いをしている孝太郎を羨ましく思いながら、じっと見つめる。
髪、引っ張りたい。と思って引っ張ってみたら無視された。
そう言えば、髪を切るとか切らないとか言っていたらしいけどどうするのだろう。切るなら俺が切る。切らないなら切らないで別にいいけど。長い髪を、まだ思う存分触ってないから。
一時間目の後の休み時間、教室移動の途中らしい渉が来た。
「おはよーさん。孝太、来週の日曜暇?」
渉は空いていた右隣の席に腰を下ろす。
「ん、何かあんの?」
「友達のライブ。お前も知ってるだろ? よっしー」
「知ってるけど、あんま興味ない」
「じゃあ宗太……はもっと駄目だろうな……って、あれ?」
渉が俺を凝視する。
「あ! お前!」
付き合いだけは無駄に長い渉はさすがに気づいた。
「まだこんなことやってんのか」
「今日はたまたま」
「……ばれても知らねーからな」
昼休みはパンでも買いに行こうかと思ったけど前の背中が動かないからやめた。
一人で弁当を食べている背中を見つめる。孝太郎は一人の背中に安堵する。俺も今、似たようなことを思った。
「坂口さん」
食べ終わって弁当をしまったのを確認して声をかける。
「ちょっと、いい?」
こっちも見ずに首を横に振ったから、もう一度強く言って教室を出た。あれは少し離れてちゃんとついてきた。
無人の美術室は人目を気にするあれと話すのにはちょうどいい。
戸の前で向かい合う。
あれの視線は下に行くばかりでなかなか俺を見ようとしない。
「欲しくなったから」
俺が何か言わないと沈黙だけが無駄に続きそうだったから孝太郎のふりをしてまで学校に来た理由を告げたら、「あんたが」を抜かしたからか明らかに違う意味にとった顔をした。
「苛々するからその馬鹿面やめろ」
何か言いたそうに開きかけた口はすぐに閉じた。閉じてそのまま。
俺は言葉を探すふりをしながら、欲しくてたまらなかったそれを見て思い切り抱き締めるところを想像する。
「あれ、誰かいる?」
想像を実行に移そうとしたところで、聞き覚えのある声に邪魔された。
「神? と、坂口か。何、こんなところで逢い引き?」
俺の記憶が確かなら原田はこの時間はいないはずだったけど、来るのが早すぎたか。さっさと準備室に引っ込めばいいのにわざわざ出てきた原田に、眉間にしわが寄りそうになるのを自覚して抑える代わりに笑顔を作る。孝太郎の。
「すみません。先生がいたのに気がつかなくて」
原田の視線が俺の足から頭まで動く。
「いやいや、俺のことは気にしないで。今からちょっと出るところだし。でも昼休みが終わるまでには戻ってくるしここ一応学校だからキスまでにしてね」
「そうします」
うさんくさい笑みを浮かべた原田の言葉を受け流して、早くどっかに行けと念じる。
「じゃあ、ほどほどに」
それで終わりだと思ったら、最後の最後で振り返って一言。
「宗太郎はどうなったの?」
原田は俺が孝太郎じゃないことに気づいていると知って、笑顔は作っていられなかった。
「ご想像にお任せします」
俺とは反対に原田はおかしそうに笑った。
「あーあ、お前もまだまだだなー。宗太郎に戻ってる。弟だったらそこは笑顔で返すところだろ。今回は見逃すけど、次やったらたっぷり説教するから」
「次は気づかれないようにします」
「生意気なことばっか言ってるとまたあれこれ訊いちゃうよ」
言わなくても訊いてくるくせに。視線をやっと消えた原田からあれに移す。目が合った。次の瞬間には俯いて、相変わらず黙ったまま。
「何か喋れ」
声が聞きたくなって言ったらしばらく無言で、考える気配は伝わってきたから待った。
その間、髪の毛一本一本まで目に焼き付けるつもりであれを見る。顔は俯いていてよく見えなかった。もっと上を向け。
「誰にも言わないで」
やっと、聞きたかった声が響く。
「何を」
「わたしのこと」
「なんで」
「原田先生、知ってる」
思わず舌打ちしそうになった。原田が余計なこと言うから。
「原田は知らない」
詮索してある程度の結論は出しているだろうけれど、あくまで原田が勝手に考えていることであって、全部知っているわけじゃない。
「でも」
「あいつは勝手に想像してちょっかい出してきてるだけだ。本当に知られたくなかったらあいつの前で余計なことは何も言うな」
「……うん、言わ、ない」
こくんと頷いた頭を見て、いつか言おうと思っていたことをついでに。
「夜の十時」
「うん」
「電話する」
「うん……電話……?」
頷きかけた頭が止まる。
「毎日する」
「毎日、って、なんで」
「足りないから」
「何、が」
「あんたが」
今度ははっきり言ってやった。言ってやったのに反応がない。俯いたまま、どんな顔をしているのだろうと思っていたら。
「好き」
一瞬、何を言われたのかわからなかった。ずっと欲しかった言葉を、こんな不意打ちで。
体中、じんわり痺れて温かくなるのを感じながら、もう一度、今度はしっかり聞きたくて咄嗟に顔に触れて上に向かせる。
「今の」
「焼き食べたい。すき焼き」
「…………」
「すき、焼き」
好きの後に余計なことを言わなければ、抱き締めて少しはやさしい言葉でもかけてやろうと思っていたのにこの馬鹿女。
「で?」
怒りを隠さないで訊いたら真っ赤な顔で視線をあちこちに動かして言った。
「あ、あの、だから、三人で、食べたい、な、と。思って」
このまま泣かせてやろうかと思ったけどそれよりもここで約束を取り付けるほうがよさそうだ。
「今度の土曜日に行く」
「え」
無理やり逸らしていた視線が戻ってきて俺を捉えた。
「孝太郎と行くから、用意して待っとけ」
嫌だって言っても絶対に行ってやる。
「あ、あり、がと」
驚いた顔でお礼を言われて、馬鹿女に振り回されている自分に気づいた。こんなのに、俺が。いつも。
「肉は持ってくから」
「う、ん、わかった」
一瞬緩んだ表情が、強張る。どうしてそこで、そんな泣きそうな顔をするんだ。
「もっと嬉しそうな顔しろ」
「……ごめん」
無理に笑おうとして余計に泣きそうな顔になっている。
「も、教室、戻る」
「……勝手にすれば」
体温を感じていたてのひら。離して残った温もりを少しでも長く感じていたくて、下ろした両手を握り締める。
手を離すとすぐに俯いて背を向けられた。
今日ずっと見ていた後ろ姿。
遠くから見ているだけだった頃は、危うさはあったけれどそれでも張り詰めて、その場にしっかり立っていようという気迫がどこかにあった。
今は、それがない。揺らいで、いつ崩れてもおかしくないような。
孝太郎と、僅かに重なる。
孝太郎もあれも、腹の奥に爆弾を抱えている。ちゃんと向き合って吐き出さないとまずい。じゃないといつか、壊れる。
俺は。
あれに言っていないこと。俺もただの弱い人間だということ。どうでもいい。
「あんたも、余計なこと考えすぎ」
声、もっと聞きたかった。
「何の、こと」
体温、もっと感じたかった。
「それくらいわかってるだろ」
今なら引き止められる。
「わからないよ」
手を伸ばす前にあれが一歩踏み出して遠くなる。
それでも無理やり掴まえてしまえばよかった。
後ろ姿が見えなくなってから、左手を伸ばした。
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