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夢を見る羊02
どうしようこの人。
コンビニから戻ったら坂口さんが俺のベッドで寝ていた。急いだつもりだったけれど、飲み物を選ぶのに迷って少し時間がかかった。家を出たのは二十分前。その二十分の間に坂口さんに何があってこんなことになったのだろう。
「坂口さん」
ベッドの端に座ってとりあえず呼んでみる。反応はない。短時間でそんなに深く眠れるものなのか寝つきの悪い俺にはわからないけれど、とにかく坂口さんは声をかけただけでは起きそうになかった。
触れられる距離にいる動かない坂口さん。思わず口元が緩んだ。
寝顔は穏やかで幸せそうで、可愛い。
「坂口さーん……伊織さん、伊織ちゃん……はちょっと違うか」
小さく呼び慣れない名前を呼んだら思いの外くすぐったかった。
反応がないのを確認してから右手を伸ばして頭を撫でるように髪に触れた。
数日前、朝の教室で坂口さんの髪の話をした。坂口さんは自分の長い髪があまり好きではないようだった。そろそろ切りに行きたいと言う坂口さんに短いのもいいけど長いのも好きだと言ったら、真っ赤になっていた。思い出したら抱き締めたくなった。抱き締める代わりにまた頭を撫でる。
宗太郎にその話をしたら他の誰かに切らせるくらいなら自分が切ると言っていたのも思い出した。坂口さんに伝えたらはにかむように嬉しそうな顔をするのはわかっているからまだ伝えていない。喜ぶ顔は見たいけど。
「坂口さん、起きて」
これ以上寝顔を眺めていたら余計なことばかり考えてしまいそうだったから、坂口さんの肩を揺すって起こそうとしたのに、頭を撫でていた手を肩にかけた途端我慢できなくなった。
体を右にひねったままベッドに左手を突いた。身を乗り出した分坂口さんの顔が近くなる。
右手で坂口さんの耳に触れる。しばらくそれを弄ってからてのひらを頬に当てた。温かい。
身を屈めて唇に唇で触れた。触れるだけでは足りなくて、もっと求めようとして押し付けた。
「ん」
微かに洩れた声に唇を離すと、坂口さんの顔が不快そうに背けられた。それがとても悲しくてもう一度こちらに向けさせる。
「伊織」
思わず呼んだ名前に、坂口さんが反応した。
「神、くん……?」
薄く開いた目が俺を捉える。
すぐに離れたほうがいい。近すぎる距離の理由を訊かれたら困る。
「神くん」
離れようとしたのを小さな声に阻まれた。次の瞬間、自分でも相当間抜けな顔をしたと思った。
坂口さんの両腕が俺に。
状況を理解する前に弱い力に引き寄せられた。
「神くん」
坂口さんに抱き寄せられたのだと気づいて、混乱した。こんな状況、明らかにおかしい。
今坂口さんの首元に顔を埋めている。しかも坂口さんに抱き寄せられて。
「神くん、もっと」
弱い、甘えたような声に、考えるのはやめた。
「もっと、何?」
嗅ぎ慣れない坂口さんの匂い。目の前の耳たぶを噛みたいと思ったのが坂口さんにも伝わってしまったのか首に絡まっていた腕に肩を押し返された。ここでこのまま理性なんか無視できたらよかった。
「早く起きないと、本当にもっとしちゃうよ」
まだ半分寝ているような坂口さんに向かってうっかり本音が出た。
「ん、もっと、して」
坂口さんは寝起きが最悪だと、宗太郎がぼやいていた意味を痛感する。本当に最悪だ。
「……お願いだから、早く起きてください」
身を起こして天井を見上げた。忍耐力はないんだ。
小さく息を吐いたのと同時に、坂口さんが文字通り飛び起きた。見ると目が合ったから無理やり笑顔を作った。
「おはよう。目、覚めた? 飲み物買ってきたよ」
目を見開いた坂口さんの顔が面白いように赤くなっていく。
「ごっ、ごめん!」
坂口さんは真っ赤になった顔を布団で隠してしまう。
「わた、わたし、勝手に、あの」
「そんなに眠かった?」
坂口さんの顔を見たくて布団を取った。てっきり頷くと思っていた坂口さんは、首を横に振った。
「神くんが、いつも寝てるところ、どんな感じなのかなって、思って」
これは予想外で嬉しかった。坂口さんはちゃんと俺に興味を持っている。わかりきっていることだけれど学校では避けられ気味だからこうやって実感できる機会は意外と少ない。
「どうだった?」
「どう、って……あの」
坂口さんの視線があちこちに動いて面白い。一瞬目が合ったけどすぐに逸らされた。
「寝心地、よかった。です」
最後は完全に俯いてしまった坂口さんは震える声で答えた。理性と本能が自分の中でせめぎ合うのを感じていたら坂口さんが小さく声を上げた。
「あ」
「ん?」
「あの、わたし、神くんに」
真っ赤な顔のまま、さっきのことを訊こうとしているのがわかって笑いそうになった。
「ちょっと、びっくりした」
ちょっとどころかかなりびっくりした。のは秘密。
「ごめん」
あ、泣きそう。
「ごめん、夢かと思っ、じゃなくて、違う、ごめん、あの」
面白いくらいにうろたえる坂口さんを、どうにかしてしまいたいと思った自分には気づかなかったことにする。
「わたし、そんなつもりじゃなくて、ごめん」
「びっくりしたけど、嫌じゃないよ」
むしろ嬉しい。までは言わない。
「ロールケーキ切ってくる。飲み物、ウーロン茶にしたけど平気?」
「う、ん。ありがと」
坂口さんは少し落ち着いたのか、小さく頷いて顔を上げた。
顔は上げたけれど俺のことは見なかった。もう違うところにいた。
声をかければすぐに戻ってくる。わかっていても坂口さんが遠い。俺が今ここにいるのにひとりきりの世界を作って、俺のことは見ていない。今まで俺のことでいっぱいだったくせにもう坂口さんの中に俺はいない。
俺も人間だから坂口さんに苛々することもある。普段それを表に出さないのは宗太郎がいるから。宗太郎が隠さないから俺まで出す必要はないし、そのほうが坂口さんの俺に対するイメージもいいままでいられる。でも今は。
「坂口さん」
堪えきれずに名前を呼んだ。
ここではないどこか遠くを見ていた目が揺れて、俺を見た。
「ちゃんとここにいて」
「え、あ、うん……?」
多分何もわかっていない坂口さんはそれでも頷いてくれた。だから酷いことを言おうとした口は閉じた。
大きめに切ったロールケーキ出すと、坂口さんの表情が少し緩んだように見えた。
「どうぞ」
「いただき、ます」
坂口さんの向かいに座って黙々とケーキを食べる坂口さんを見つめる。
色々と面倒な人だと思う。好意を見せれば逃げるしそっけなくしたらきっと泣く。でも面倒なのも嫌じゃない。
坂口さんと一緒にいるときの空気が好きだ。冷たいような温いような、居心地が悪いようないいような、うまく言葉にできない矛盾した空気。
時々わけがわからなくなる。宗太郎に言ったら「ああ、わかる」と頷いたから宗太郎も同じ空気を感じている。坂口さんの空気。
「おいしい?」
「あ、うん、凄くおいしい」
目が合うと坂口さんはすぐに下を向いてしまった。
「何かね、ずっと夢、見てるみたい。凄くいい夢」
声も好きだ。耳に残った音を拾って思う。
「夢じゃないよ」
坂口さんに、と言うよりも自分に向けて言った。
これが夢でたまるか。目が覚めたときのあの虚しさはもう味わいたくない。
「確かめてみる?」
坂口さんの手に触れたくなってフォークを置いて右手を坂口さんのほうに伸ばす。坂口さんは困ったように俺の右手を見つめた。さすがに無理かと思っていたら。
「触っても、いいの?」
「やっぱり駄目」
とっさに右手を引っ込めてしまったのは、予想外の坂口さんの反応に驚いたのと、今坂口さんに触られたら全部崩れてしまいそうな気がしたから。今日の坂口さんは危険だ。
少し遅れてから、傷つけたかもしれないと思って表情を窺うと坂口さんは驚いたような顔をしていた。
「同じこと、言われた」
誰とまでは訊かなくてもわかる。
「俺も宗太郎も、坂口さんが嫌で言ったんじゃないよ。心の準備が、少し足りなかったから」
坂口さんが変な方向に考えないように笑顔を作って言った。どうせ宗太郎はフォローなんかしていないだろうから宗太郎の分もついでに。
「……ありがとう」
しばらく考えるような仕草をして、坂口さんは小さく笑んだ。
これは現実で途中で覚めたりしない。夢じゃない。坂口さんの体温を思い出して、もう一度自分に言い聞かせた。
坂口さんは確かにここにいる。
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