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 夢を見る羊01

 さっきから心臓がうるさくて痛い。
 だって今、神くんの部屋にいる。来てって神くんに言われた。おいしいロールケーキがあるからって言われて断れなかった。
 呼んでもらえたの、嬉しかった。神くんと一緒にいられるのも嬉しい。ロールケーキもちょっと楽しみ。でもそれで全部じゃない。緊張して、神くんに嫌われたらどうしようって不安もいっぱいで、苦しい。

 ふすまを背にしていつもの場所。神くんが台所でがさごそ何かをしている音が聞こえる。
「坂口さん、ごめん、飲み物がなかったからちょっと買ってくる」
 ふすまが開いて神くんが言った。わたしは後ろを向けなくて黒いテーブルを見つめたまま答えた。
「別になくても、大丈夫」
「すぐに戻るから。何がいい?」
「え、あ、何でも、いい」
 ふすまが閉まって神くんの足音が遠くなる。がちゃり。鍵を閉める音が聞こえて神くんの部屋に一人残された。わたしのいる場所ではないところ。今日は宗太郎さんもいない。変な感じ。
 神くんの部屋には窓が二つある。わたしから見て右側と正面。いつも灰色のカーテンと一緒にしまっていたけど今日は、正面のベッドのところの窓が少し開いているみたい。カーテンが少しだけ揺れていた。
 目を閉じる。温い空気。学校からここに来るまでの間に結構汗をかいた。思い出したからポケットからハンカチを出して汗を拭った。
 ハンカチをポケットにしまって息を一つ吐いたらテーブルを挟んで向かい側にあるパイプベッドが何となく気になった。あそこでいつも神くんが寝てるんだ。何となく思ったのがいけなかった。変なことを考えてしまった。
 神くんはさっき出て行ったばかりでどんなに早くてもあと十分は戻ってこないはず。今ここにいるのはわたしだけ。他に誰もいない。
 意味もなく部屋を見回してから立ち上がった。テーブルの左側を通ってベッドの前に来る。
 いけないことをしている。こんなところを見つかったら。でもすぐに出れば誰にもわからない。
 水色のかけ布団を少しめくって、何度か深呼吸をする。後ろのふすまを見る。大丈夫。
 スカートに変なしわがつかないように気をつけながら横になった。
 冷たいシーツに心臓が少し痛い。
 神くんがいつも頭をのせている枕。布団を顔のところまでしっかりかぶったらいい匂いがした。神くんの、匂い。目を閉じたら神くんに包まれてるような感じがして、どきどきした。ずっとこうしていたい。



 左の耳たぶを少しだけ引っ張られた感じがした。
 それから頬が温かくなって、唇に何かが触れた。
「ん」
 触れていたのが急に強く押し付けられて、思わず顔を背けたけどまた同じ位置に戻された。
「伊織」
 掠れた声に名前を呼ばれて目を開けようとしたけどうまく開かない。
「神、くん……?」
 目の前に、多分人の顔。よく見えない。神くんの声がしたから多分神くんの顔。わたし、何してるんだろう。寝てた?
 これ、夢なのかな。
 前にもこんなことがあった。宗太郎さんがうちに来たときに、夢と間違えて恥ずかしい思いをした。でも神くんは、昨日も今日もうちに来てない。だから大丈夫。これは本当の夢だ。
「神くん」
 重い両腕を持ち上げた。
 夢だと何でもできる気がする。現実ではしたくても絶対にできないようなことだって。
 神くんの首の後ろに手を回して頭を抱き寄せる。
「神くん」
 声がうまく出せなくて自分の声じゃないみたい。
「神くん、もっと」
「もっと、何?」
 首元がくすぐったかったから腕を解いて、肩を押し返して神くんの頭を離した。
「早く起きないと、本当にもっとしちゃうよ」
「ん、もっと、して」
 ぎゅって抱き締めてもらいたい。神くんの体温に包まれたい。
「……お願いだから、早く起きてください」
 起きたら、この夢から覚めてしまう。せっかく神くんが出てきたのに。神くんが。神くん。早く起きないと帰ってきてしまう。
 思い出して飛び起きた。
「おはよう。目、覚めた?」
 飛び起きたらベッドの端に腰掛けていた神くんと目が合った。前にも、あった。こんなこと。あのときはわたしの家で、今は、神くんの。
「飲み物買ってきたよ」
 にっこり笑顔で、わたしを見ている。わたし、今、神くんのベッドで、勝手に寝て。
「ごっ、ごめん!」
 とっさに布団で顔を隠した。
「わた、わたし、勝手に、あの」
「そんなに眠かった?」
 顔を隠すための掛け布団は神くんにあっさりと取られて、どうしていいかわからなくて首を横に振った。
「神くんが、いつも寝てるところ、どんな感じなのかなって、思って」
 嘘でもいいから眠かったことにすればよかったって、言ってから気づいた。
「どうだった?」
 神くんは真っ直ぐわたしを見ている。
「どう、って……あの」
 神くんの匂いにどきどきしたなんて、言えない。
「寝心地、よかった。です」
 顔が熱くて神くんのこともまともに見られない。
「あ」
「ん?」
 神くんのベッドに勝手に寝ていた恥ずかしさに気を取られて、わたしが神くんにしたこと、ちゃんとわかっていなかった。あのときは、夢と間違えて宗太郎さんに抱きついた。さっきも夢だと思って抱きついた。神くんに。あれが夢じゃなかったら、どうしよう。
「あの、わたし、神くんに」
 何もしてないよねって、訊くつもりだった。
「ちょっと、びっくりした」
 神くんが言って思わず顔を上げたら綺麗な笑顔のままだった。びっくりしたって、つまり。
「ごめん」
 首元の感触を思い出して、謝って、消えたくなった。神くん、絶対に困った。気持ち悪いって思った。どうしよう。
「ごめん、夢かと思っ、じゃなくて、違う、ごめん、あの」
 頭の中、いっぱいになって宗太郎さんのときと同じ間違いをまたしそうになって、自分でも何を言ってるのかわからなくなった。
「わたし、そんなつもりじゃなくて、ごめん」
「びっくりしたけど、嫌じゃないよ」
 どんどん絡まっていく頭が、神くんのやさしい声で止まってゆっくり解けていく。嫌じゃないって、嘘でも言ってくれた。
 大丈夫。まだやさしい。

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