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Call my name.04
我慢するつもりだった。何もしないつもりだった。坂口さんは本気で怯えていたから。俺まで怖がらせるようなこと、できない。坂口さんの背中に添えた手を離したときは本気でそう思っていた。
思っていたのに。
坂口さんは自分が俺たちにどれだけ影響を与えるのかということを少しもわかっていない。わかっていないから、宗太郎を間単に家に入れるし、俺の部屋にも何の疑問も抱かずに誘われるままやってくる。それが都合のいいときもあるわけだけど。
「……ごめん、さっきのやっぱなし」
自分の忍耐力のなさに呆れた。
手を伸ばして坂口さんに触れる。坂口さんが俺を見る。この瞬間は、俺だけを。
「許して」
行き場のなかった思いを全部坂口さんにぶつけた。
思う存分坂口さんの熱を感じて味わって、それだけで済んだのは宗太郎の声に引き戻されたから。
一度離れてからまた少しだけ触れて、今度こそ本当に離れた。体中、燃えているみたいに熱い。
坂口さんは惚けたように俺を見た。頭の芯が痺れる。そんな目で、見ないで。おかしくなるから。
もう一度伸びかけた手は、坂口さんがパジャマの袖で口を思い切り拭ったことで引っ込んだ。確かに、ほとんど無理やりだったけど。宗太郎のときはざまあみろと思ったけど。自分がやられると結構、ショックかもしれない。
でも体の熱は下がるどころか上がっていく。坂口さんがそこにいるから。
少し大きめの、花柄のパジャマ。前に見たのは暗い色のトレーナーで坂口さんのイメージ通りだったけれど、明るい色もよく似合っている。いつもより大きく開いた首元。ちらちら覗く肌は、いつも隠れているせいか他のところよりも白い。舐めたら、きっと甘い。
健全な男子高校生らしくよからぬことを考えていたら、坂口さんが辺りをきょろきょろと見回して足元に落ちていた枕を拾い上げた。
とん、と左腕に軽い衝撃。
「……坂口、さん……?」
坂口さんは俯いたまま、手に持った枕を何度か俺にぶつけた。
嫌だと、坂口さんははっきり言った。だけど俺は無視した。それに対するささやかな抗議。
こうして色々な坂口さんを見ることができるのは、嬉しい。だから黙って受け止めた。
しばらくしてから坂口さんの動きが止まって枕がまた足元に落ちた。
「……ごめん」
坂口さんの視線が俺に向けられることはなく、小さな声だけが届く。このまま抱き締めて、今の気持ちを全部伝えてしまいたい衝動に駆られた。坂口さんが謝る必要なんてないことをわかってもらえるまで。他のことを考える余裕なんてなくなるくらい。
「孝太郎」
「ん。俺たち、そろそろ帰るから」
宗太郎に促されて立ち上がる。一瞬顔を上げた坂口さんはまたすぐに下を向いた。本当はもっと一緒にいたいけど、少し頭を冷やしたほうがいい。
「それじゃあ、また明日」
「バイバイ」
俯いたままの坂口さんの右手が律儀に小さく動いたのを見てから部屋を出た。
『好きな女が自分以外の男とも付き合ってるなんて、よく平気だな。俺は無理だわ』
いつか渉が言った。それが禁句だということに気づいていなかったから後でたっぷりわからせてやった。
(平気なわけ、あるか)
昔から独占欲は人一倍強かった。自分のものは自分だけのものでなければ我慢できなかった。他人と共有するなんてありえない。
でも、宗太郎だけは別だった。
同じ顔。同じ声。お互い考えていることは何となくわかって。
もう一人の自分だと、思っていたから。馬鹿な子供。
宗太郎が自分と違う人間だと気づいたのはいつだったか。きっかけは絵だったような気がする。宗太郎の描いた絵だけが大人たちに褒められた。そういうことの積み重ねで嫌でも思い知らされた。
早朝、母親からの電話で実家に帰ったはずの宗太郎が帰っていないことを知った。宗太郎が外泊することは滅多にないし、するときは必ず俺に言う。言わなかったのは一度だけ。坂口さんの家に行ったとき。嫌な予感はしていた。
いずれこんなこともあるかもしれないと思っていたけれど、かかっていなかった鍵にこれ見よがしに開いていたドア。俺が来ることをわかっていてあの状況。俺が来るとわかっていたからあの状況。
どれだけ覚悟はしていても宗太郎に腹が立たないと言ったら嘘になる。俺以外の誰かが坂口さんに触って嬉しいはずもない。宗太郎だからまだ耐えられるだけの話。一時期死ぬほど憎んでいた、もう一人の自分。
「伊織って呼んだら、泣いた」
薄暗い玄関。靴を履いていた俺は宗太郎を振り返る。
「……あっそ」
坂口さんは宗太郎のことを下の名前で呼ぶ。宗太郎がどんな手を使って坂口さんに呼ばせたのかは簡単に想像できる。
俺がいつまでも「神くん」なのはクラスメートだから。孝太郎と呼んでくれと頼んでも、多分頷いてはくれない。俺が坂口さんのことを下の名前で呼ぶのもきっと嫌がる。
くだらないことを考えてから宗太郎の腹に一発入れた。間違っても顔は殴らない。
「今回はこれで許してやるよ」
「……孝太郎だってしたくせに」
蹲った宗太郎が恨めしそうに俺を見て言った。
その日は一日満たされて幸せだった。
坂口さんの温もりを思い出しながら眠った。
会いたい。
翌朝、同じ電車に乗っていた坂口さんに、校門の前まで来たところで声をかけた。俺が何もなかったように挨拶をしたから坂口さんも何もなかったように返す。明らかに泣き腫らしたとわかる目で。
「昨日のことは」
下駄箱から上履きを取り出そうとしていた坂口さんの手が止まるのを見ながら俺は続けた。
「謝らないから」
坂口さんの気持ちを無視する形になってしまったのは悪いとは思うけれど、好きな人に触れたいと思うのは当然の欲求。坂口さんがそういうことを嫌がるのは潔癖な人だからかもしれない。
「わたし、なんで」
不意に坂口さんが声を上げた。手は止まったまま、微かに震えていた。
「……ごめん、何でもない」
ざわりと、嫌な感覚。
いずれ坂口さんも気づいてしまう。もしかしたらもう気づいているのかもしれない。この、異常さに。
(潔癖な、人)
もし坂口さんがそれを口にしたら。
俺はまた嘘をつく。今度ははっきりと、坂口さんに全てを押し付けて。
大丈夫だと自分に何度も言い聞かせる。坂口さんは簡単には離れていかない。今は俺たちしかいないから。
とても狭い世界にひとりきりで生きている人。
広い世界に憧れて、人に飢えていることも知っているけれど、ずっと今のままでいればいいのにとどうしようもないことを思う。
今のままでいれば、坂口さんは俺たちを離さない。
特に会話もないまま教室に着く。三人目が来るまで二人きり。
真っ直ぐ前を見ている坂口さんの背中に向かって、今はまだ呼べない名前を声には出さないで呼んだ。
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