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 左手02

 会いたくなった、というのとは少し違う。あれは、水みたいなものだから。いつも欲してる。ないと死ぬ。
 ただ、渇いて渇いて、自分の中で何かが破裂しそうだったからあれを感じないと駄目なのだと思った。
 会いに行く口実ならある。衝動を抑える理由はない。



 ピンポン代わりのコールで繋がる。

『もしもし』

 寝起きなのか掠れていたけど確かにその声で、鼓膜を突き破って体の一番奥に突き刺さる感覚。
「開けろ」
 一言だけ言って繋がりを断つ。
 しばらくしてからドアが開いて起きてきたままの姿がそこにあった。客観的に見ても主観的に見ても酷い姿だったけれど、俺の感覚はこの女の前では狂う。
「……変な顔」
 思った通りのことを口にして、渇きが癒えるのを感じながらそれでもこれが俺にとっては無二の存在であることを思い知って、幸福。


 相変わらず無用心なままだったから、家に入り込むのに苦労はなかった。
 初めて来たときからこの家の印象は変わらない。
(温度のない家)
 息が詰まる。外とは完全に隔たれた世界。生活感がないわけじゃないのに冷たく感じる。
 嫌いじゃない。
 数度、足を踏み入れたことのある部屋。この家でこの場所がきっと一番温かい。
 さっきまで人が寝ていた形跡のあるベッドに腰を下ろす。自分の領域に他人が入り込むことを過度に嫌う女だとわかってはいたけれど、それに付き合えるほどお人好しじゃないしあれのペースに合わせていたら、時間がいくらあっても足りない。
 部屋の主は何故か入り口のところに立ったまま。初めて見る暖色系のパジャマは、暗い色のものを着ているところしか見たことがなかったから違和感があって、でも意外と似合ってる。気がしないでもない。

 絵を見せるという口実。

 さり気なく伝えたら絵を見たいと言った本人が忘れていて不愉快だ。
「あんたが、言ったんだろうが」
 苛々して言ったら、下を向いていた顔を上げて。
「絵、見せて、くれる、の……?」

(凶悪だ)

 そんな顔をするなんて。
 この触れたいという衝動は、抑えなければいけない。触れたらきっと、壊してしまう。
 余計な考えは無理やり振り払って机に立ててあった使われた形跡のないスケッチブックを開く。

 あれに、絵を好きだと言われるのは嬉しい。
(俺の命だから)
 絵を描くという行為で、俺は俺自身を紙の上に刻み付けている。そこに命を。

 強烈な視線を感じた。普段はろくに顔も上げないくせに、時々こっちが戸惑うくらい強く見つめてくる、妙な女。
 全部、見透かされてるみたいな気がすると、孝太郎がいつか言っていたけどきっと本人は何もわかってない。ただ見つめているだけで、だから厄介なのかもしれない。

「あ」
「何」

 突然の声に、一瞬動揺してすぐに何でもないふりをして問う。
「あ、の、宗太郎さん、左利きだったかなって」
 そう言えば、いつも何故か手を見ていた。
「絵、描くときだけ。こっちのほうが描きやすいから」
 少しでも心臓に近いほうが、命を刻み付けられるような気がするから。

 沈黙。

 再び視線を感じながらスケッチブックに写すのは、初めてこの家に来たときに見た光景。
 あのとき、強引に自分の世界に入り込んだ俺を、あれは緩く拒絶していた。だから腹が立ったんだ。
 その苛立ちをぶつけられて今にも泣き出しそうな顔をしていたくせに、俺の前では絶対にそうしようとはしなかった。
 俺を部屋から追い出して、一人になってから泣いていたのを知っている。まさかあのまま寝てしまうなんて思ってもいなかったけど。
 起こす気にもなれなかったし、鍵が開けっ放しの家に一人残していくわけにもいかなかったから予定外の外泊。
 部屋に入ったのはほんの出来心だった。何かするつもりだったわけでもなく、実際色気も何もあったもんじゃない寝姿にそんな気が起こるはずも。ないのに。
(怖い女)

 手を止めて顔を上げる。さっきから何かもぞもぞ動いていると思ったら髪を直しているようだった。一応女だから身だしなみくらい多少は気にするのか。タイミングが随分遅い気もするけど。
 不意に目が合って、面白いくらいに顔が赤くなった。
 俺の感覚はすでにおかしくなっているので、そういう態度をとられてもやばい。本人は無自覚だから余計にたちが悪い。
 スケッチブックを渡すと小さな声でお礼の言葉。それから一瞬呆けた顔をして、少ししてから何かに気づいたようだった。相変わらず反応が遅い。
「あほ面晒してるところでもよかったけど」
「見た、の……?」
 見た。ついでに触った。ことは秘密。
「人が寝てるとこ、勝手に」
「無用心すぎるあんたが悪い。普通、赤の他人を家に上げたまま寝ないだろ」
 そう、この女が悪い。俺をおかしくするから。
 もう駄目だ。これ以上は。
「邪魔」
 心臓に近いほうの手で肩を押す。触れたところが、電流が流れたみたいにぴりぴり痺れる。重症。
「もう、帰るの?」
 だからどうしてそういうことを言うんだろう。この馬鹿女は。
「また来る」
 おかげでうっかり口が滑って余計なことを。言ったのと同時にドアが閉まったから、多分誰にも聞こえなかった。聞こえてないはず。
 閉まったドアに寄りかかる。向こう側にあるはずの体温を感じて瞼の裏に浮かぶ透明な青。
 一日の始まりにしては悪くない。

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