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 左手01

 日曜日の朝、宗太郎さんが家にやってきた。鳴り止まない電話で起きて時計を見たらまだ七時前だった。
 寝ぼけたまま電話に出て寝ぼけたままドアを開けた。

「……変な顔」

 目が覚めた。



 何だかおかしい。
 さっきまでわたしが寝ていたベッドに、宗太郎さんが脚を組んで枕元に置きっぱなしになっていた漫画を見てる。
 何だかじゃなくて凄くおかしい。
「何してんの」
 宗太郎さんがちょっとだけ顔を上げてドアの前に立ったままのわたしに言った。
(それはわたしのセリフです)
 そんなこと言えるわけないから黙ったままでいた。

 どうしよう。

 宗太郎さんが今見てるの、思い切り少女漫画だけど宗太郎さんはそういうのも読むのかな。あんまり似合わない感じがする。

「気が向いた」

 困って余計なことを考えていたら、宗太郎さんが一言。前後のつながりとか無視して、いつもみたいに唐突に。
 言葉の意味がわからなくて何も言えないでいると、宗太郎さんの機嫌が思い切り悪くなった気配がした。
「あんたが、言ったんだろうが」
 わたしが、宗太郎さんに何か言った。何を。
(絵を)
 見せてって言った。宗太郎さんの描いた絵。思い出して顔を上げる。
「絵、見せて、くれる、の……?」
 嬉しくて、声が震えてしまったのが悪かったのかもしれない。宗太郎さんの眉間にしわが寄ったのが見えて、反射的に肩をすくめた。
 宗太郎さんは黙って立ち上がって、ベッドの向かいにあるわたしの机の前。教科書やノートと一緒に立てかけてあったスケッチブックを取った。まだ一ページも使ってないスケッチブック。宗太郎さんに憧れて衝動買いしたなんて、絶対に言えない。
 ぐちゃぐちゃの机の上、ちゃんと片付けておけばよかった。出しっぱなしになっていたシャーペンを手にして、宗太郎さんはそのまま椅子にどかって座ってスケッチブックを開いた。左手が動き始める。
 わたしはドアのところに立ったまま動けなかった。シャーペンだと描きにくくないかなって思いながら、宗太郎さんの手が動くのだけをじっと見ていて変な感じがした。小さな違和感。宗太郎さんが神くんのふりして学校に来たときのことを思い出した。
「あ」
 変な感じの正体に気づいて思わず声を上げてしまった。
「何」
 手は止めないで。わたしは言葉を探す。
「あ、の、宗太郎さん、左利きだったかなって」
 前に神くんのところで、宗太郎さんとつんつん頭も一緒にラーメンを食べたとき。つんつん頭は左利きだったんだって何となく思った記憶がある。でも、宗太郎さんは普通に右手で食べていた気がする。
「絵、描くときだけ。こっちのほうが描きやすいから」
 わたし、宗太郎さんのことも何も知らないんだ。
 止まらない左手。あのシャーペン、今日から宝物にしよう。

 紙とシャーペンが擦れる音を聞いていたら、宗太郎さんが何を描いているのか気になった。体はわたしのほうを向いているけど、多分わたしを描いているわけじゃない。
 さっきから一度も顔を上げる気配がないから、思い切って宗太郎さんの顔を見る。
 いつも不機嫌そうで怒ってるような顔をしているけど、今は違った。俯き気味、黒縁眼鏡の向こう側、真っ直ぐスケッチブックに向けられた目は、思っていたよりずっと穏やかで、でもやっぱりどこか鋭かった。

(姿勢、きれい)

 思ったのと一緒に気づいてしまった。今の自分の格好。
 髪の毛とかしてない。歯も磨いてない。おまけにパジャマのまま。
(変な顔)
 さっき言われたことを思い出して急に恥ずかしくなった。
 今更意味ないってわかってたけど慌てて髪を撫でる。顔、洗ってこよう。歯も磨いて、ちゃんと着替えて。
 いつの間にか足元に落ちていた視線を持ち上げたら、宗太郎さんと思い切り目が合った。顔が一気に赤くなったのが自分でもわかった。
 ぎしっと音を立てて宗太郎さんが立ち上がった。数歩進んでスケッチブックをわたしに突き出す。
「あり、がと」
 それだけ何とか言って受け取って、視線を落とした瞬間、やっぱりうまいなって見惚れて、それから何が描いてあるのか頭に入ってくる。
 多分暗闇の中。上から見た感じで。
 布団を抱き締めるようにして、体を丸くして眠っている誰か。
 髪がかかってて顔はよく見えないけど。
 けど。
 このトレーナーとズボン、見覚えがある。ストライプ柄の布団も。
 髪の長さとか雰囲気とか、やっぱり、どう見ても。

「あほ面晒してるところでもよかったけど」
「見た、の……?」

 さっきとは違う理由で声が震えた。
 宗太郎さんがいきなり家に来たのは今日が初めてじゃない。最初に来たのは雨の日だった。
 いきなりやって来た宗太郎さんはびしょ濡れで、勝手にお風呂に入って、酷いことをたくさん言って、帰ったと思ったのに朝になってもまだいた。あのとき。
「人が寝てるとこ、勝手に」
「無用心すぎるあんたが悪い。普通、赤の他人を家に上げたまま寝ないだろ」
 その通りだけど、宗太郎さんにそういうこと言われると、何だか凄く悔しい。
 悔しいけど、宗太郎さんの言う通りだったから何も言い返せなかった。
 スケッチブックを抱えて、足元を見つめてぐるぐる考えていたら、視界の端っこで宗太郎さんの左手が動くのが見えた。
「邪魔」
 左手がわたしの左肩に触れて横に軽く押した。ドアを塞いでいたから。
「もう、帰るの?」
 言ってから失敗したと思った。今の言い方、まだ帰ってほしくないみたいに聞こえる。

「また来る」

 ドアが閉まる直前、ぼそっと一言。
 その場に座り込んで触れられた左肩を右手で押さえる。不意打ちでそういう言葉を投げてくるなんて、ずるい。
 帰らないでって、言ったら宗太郎さんはもう少し一緒にいてくれたかなとか、夢みたいなこと考えてスケッチブックを抱き締めた。

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