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どちらにしようかな
読みかけの小説を最後まで読んで顔を上げたら視聴覚室にはもう誰もいなかった。今日の探偵部は横井と一年の名前は知らない男しか来ていなかった。一年はそんなに長くいなくてその後「私も帰るから後よろしく」と横井が言ったのを聞いた気がする。黒板の上の時計は四時半を過ぎたところだった。
「あのー」
聞き覚えのある声が離れたところから聞こえた。振り返るといつの間にか視聴覚室の入口のところに人が立っていた。同じクラスの十和田さん。下の名前はアンとかそんな感じだったと思う。
「もしかして、今一人だったりする?」
「うん、他の奴らは先帰っちゃった」
「ちょっとお邪魔してもいい?」
別に俺の部屋じゃないから頷いた。何か忘れ物でもしたのかと思って見ていたら、十和田さんは一番前の右端の席に座っている俺のほうに向かってきた。
俺の右横を通って机の前に回った十和田さんは、肩にかけていた鞄を下ろして両手で持ち直した。それから首を少し傾げて笑った。
「突然ごめんね。私、一ノ瀬くんのこと好きなんだ。知ってた?」
人生で二度目の告白をされていることに、少し遅れて気づいた。
「知らなかった」
知るわけなかった。同じクラスといっても接点はほとんどない。人生で初めての告白は、名前も知らない子だったけど。
「あは、やっぱり。うん、というわけで、私一ノ瀬くんのことが好きなんです。付き合ってくれませんか?」
十和田さんは俺の目算だとGカップは確実にあって、少なくとも俺が知っている女子の中では一番大きい。顔は普通にかわいいし、胸の大きさのわりに他のところは細くて明るいけど落ち着いた性格も相まって男子人気はものすごい。
少し前だったら付き合うと即答していた。でも今はメガネが浮かんできてそれを邪魔した。古谷さんのメガネ。
「ごめん、俺彼女いるから」
「知ってる」
笑顔を浮かべたままの十和田さんは古谷さんとはまるで違う。古谷さんは今でもたまに思い出し笑いしそうになるくらい緊張していた。だからほとんど初対面の古谷さんの告白が本気のものだとわかった。
「ん、あれ、もしかしてこれ何かの罰ゲームとか?」
よく考えたら十和田さんが俺のことを好きなんておかしい。
「あは、ひどいなあ。それだったらこんなに緊張してないよ」
緊張しているのか。見えないけど。
「なんで俺?」
「胸」
言われて顔に向けていた視線を反射的に下にずらした。
「大きいね、って、言ったの覚えてる? 入学式の日」
すぐに思い出した。十和田さんとは一年のときから同じクラスで、その頃は今よりももう少し小さかったけどそれでも目立っていたからつい声をかけた。
「すごく気にしてて、自意識過剰なのかもしれないけど、何も見てないって顔して見てくる人が多くて、だからそんなこと言って遠慮なしに胸見てきた一ノ瀬くんにびっくりして」
だから嫌われたり気持ち悪がられたりするならわかるけど。
「最初は嫌だったけど、一ノ瀬くんは裏表がなくて正直な人ってわかって、いつの間にか好きになってた。ずっと好きだった。今も好き」
視線を顔に戻したら笑顔の代わりに泣きそうな顔がそこにあった。
「そう言ってもらえるのは嬉しいけど――」
「結婚してるわけじゃないよね。それでも私には望みない? 一ノ瀬くんは私のこと好きになれない?」
十和田さんにこんなに必死に言われて揺らがない男がいるわけない。俺ももちろんぐらぐら揺らいだ。でも古谷さんが。
もし俺が十和田さんの告白を受け入れたら古谷さんとは別れることになる。いまだに理由がよくわからないけど古谷さんは俺のことを好きで。
「十和田さんと付き合いたくないってわけじゃないけど、むしろ付き合いたいけど無理」
「そんなに、彼女のこと好き?」
「んー好き……というかなんだろう、俺が好きってより、向こうが俺のことなんかすごい好きで、別れにくいっていうか」
「じゃあ、彼女と別れなくてもいいから付き合ってって、言ったら」
古谷さんにばれなければ俺にはおいしすぎる話。
おいしい話には必ず落とし穴があるんだと、おとうがおかあにお説教されていたのを思い出して、即座に頷きそうになったのをなんとかこらえて一応確認する。
「そういうのってありなの?」
十和田さんはしばらく何かを考えるように俯いてから首を横に振った。
「ごめん、やっぱり、なし」
半分残念で半分ほっとした。
それから十和田さんはまた顔を上げた。
「もし、彼女より先に私が告白したら付き合ってくれた?」
今度は迷わず頷いた。
「うん、付き合った。十和田さんかわいいし、胸でかいし」
断る理由も迷う理由もない。
十和田さんの泣きそうな顔が何故かさらに歪んだ。
「そっかあ。なんで私、もっと早く勇気出せなかったんだろ」
もし十和田さんが先に告白してきたら俺は十和田さんと付き合っていた。
想像しようとしたけど現実味がなさすぎてうまくいかなかった。
「付き合ったけど、体目当てだし多分俺すぐにふられてたよ。十和田さんは、十和田さんのこともっとちゃんと好きないい男がたくさんいるだろうから、そういう相手と付き合ったほうがいいよ」
正直十和田さん相手だと気後れして何もできないうちにふられる気がする。
「だから、これでよかったと思う」
「……うん。一ノ瀬くんの、そういうところが本当に好きだったよ。ありがと」
最後に無理やり作ったような笑顔を見せて、それ以上は何も言わずに十和田さんは視聴覚室から出ていった。笑顔なのに泣きそうだったけど、結局十和田さんは最後まで泣かなかった。
かわいくて胸がでかくて性格もよくてしかも俺のことを好きな子なんて、多分もう二度と現れない。もしかしなくても、惜しいことをした。
十和田さんと付き合ったら古谷さんを傷つけることになるけど、どっちにしろ俺は十和田さんを傷つけた。今の感じだと十和田さんも俺のこと相当好きだったっぽいし、体を見るなら古谷さんよりも十和田さんのほうがずっといい。
十和田さんにはすぐにふられるかもしれないしふられないかもしれない。古谷さんとだっていつまで付き合うかわからない。考えれば考えるほど間違えた選択をした気がした。
今から追いかければまだ間に合う。慌てて読んでいた本を鞄につっこんで立ち上がった。瞬間、またメガネが浮かんだ。それから、映画を観に行ったときのメガネをかけていない古谷さんの顔。
古谷さんは、本当は自分から告白するようなタイプじゃない。それなのにあんなに必死になって告白してくれた。手を繋ぐだけで死にそうになって、十和田さんと付き合うことにしたなんて言ったら本当に死んじゃうかもしれない。
どっちを泣かせたくないかって訊かれたら今の俺はやっぱり古谷さんと答える。仮にも付き合っている相手だし。
でも十和田さんの体も諦めきれない。あの胸を生で見たり触ったり好きにできるかもしれないと思ったら簡単に諦められるわけない。
古谷さんのメガネと十和田さんの胸が頭の中をぐるぐる回る。
明日、古谷さんがうちに来ることになっている。古谷さんと会えば、少しは諦めがつくかもしれない。
そこまで考えてまた椅子に座り直した。
どっちを選んでも逃した魚は大きいに決まってる。
「昨日同じクラスの子に告白された」
俺の部屋で眉間にしわを寄せながら俺が貸した本を読んでいた古谷さんが、少し遅れて顔を上げた。
「え?」
きょとんと俺を見た古谷さんの顔が次第に強張って、どんな顔をするかもっと見ていたかったのに俯いて見えなくなってしまった。
何も言わない古谷さんの本を持つ手が、震えているのに気づいてやっぱり顔が見たくなって両手で押さえて無理やり俺のほうに向けた。
「一応断ったよ」
予想通り涙の浮かんだ目を見たら、もう少し焦らすつもりだったのに反射的にそう言っていた。
「断、った……?」
「なんでそんな意外そうな顔するの」
「だ、だって」
もごもごと何かを言おうとした古谷さんは、逸らした視線をまた俺に向けた。
「どんな人、だったか訊いてもいい?」
「胸がでかくてかわいい。あと性格もいい」
多分俺が触っているせいで赤くて熱い顔は泣く寸前。
「どうして断っちゃったの?」
「断らなかったほうがよかった?」
「そ、そうじゃなくて」
「今は古谷さんと付き合ってるし、もしその子と付き合うことにしたら古谷さんどうなっちゃうんだろうと思って。かなり迷ったけど」
むしろ今も迷ってるけど。
メガネのレンズの向こう側、涙でいっぱいになっている目にじっと見つめられた。
「もしその人がわたしよりも先に告白してたら、その人と付き合ってた? わたしとは、付き合わなかった……?」
真っ直ぐな視線とは違って震えた声が、十和田さんと同じことを訊いた。
「うん」
泣き出しそうな古谷さんをこのまま泣かせたくなったから正直に頷いた。
期待通りに視線が揺らいで古谷さんの顔がくしゃくしゃになる。
もしそうなっていたら、古谷さんはこうやって泣いただろうか。多分泣く。確実に泣く。
そのままずっと俺のことを好きでいるのか、それともさっさと別の相手を好きになるのか。
古谷さんが俺以外の男を好きになるところを想像したら思った以上に不快になった。
だからてのひらで挟んでいた古谷さんの頬をつまんで引っ張った。
涙を流した目が見開かれる。
「い、一ノ瀬くん」
「でもその子人気あるし俺はすぐにふられて、結局古谷さんと付き合うことになってたと思う」
そう。古谷さんは俺のことを諦めきれなくて何度も告白してくる。それくらい俺のことが好き。それならありだ。
古谷さんはまた顔をくしゃくしゃにした。
「そうだったら、嬉しい」
くしゃくしゃの顔は鼻水も垂れておまけに頬を引っ張られていてきれいとかかわいいとは程遠い。それでも、抱き締めたいと思うから不思議だ。
前に抱き締めたときは、ちょっと興奮した。なんかやわらかくて、普通に女の子で、しかも俺のことが好きで。
さすがにこれで抱き締めたりしたら古谷さんがかわいそうだから手を離して近くにあったティッシュの箱を差し出した。
「鼻水出てるよ」
古谷さんがすごい勢いでティッシュを取って鼻を押さえたのがおかしくて笑ったら後ろを向いてしまった。
古谷さんをいじめるのは楽しい。いじめなくても、最近結構楽しい。本の感想を言い合ったり、俺のどうでもいい話を聞いて一緒に笑ったり怒ったり悔しがったりしてくれるし、何もしなくても一緒にいるだけでなんだか楽しい。
古谷さんとも体目当てで付き合い始めて、早く目的を果たしたい気持ちはもちろんあるけど古谷さんを見ていると妙に余裕が出てきてそこにいくまでの過程も楽しみたいと思える。
今だって、俺が原因で古谷さんが大変なことになっていると思うと、それだけでわくわくする。
十和田さん相手だったらきっとこうはいかないだろうから、やっぱりこれはこれでいいのかもしれない。
涙と鼻水を拭いた古谷さんがまたこっちを向いた。
「ごめん」
目が合うとぱっと逸らして古谷さんは謝った。
「何が?」
古谷さんは何故か一瞬驚いたような顔をしてからすぐに笑って首を横に振った。
「なんでもない」
畳の上に落ちていた本に伸ばそうとした古谷さんの右手を思わず握った。
「な、何?」
「いちゃいちゃしたい気分だから、とりあえず手だけ」
すぐにまた真っ赤になった古谷さんは、逃げずにそのまま俯いた。震える手は俺よりも小さくてなんだか頼りないと握る度に思う。
古谷さんがもう少し慣れたらキスとかしたい。したら、古谷さんはどんな顔をするんだろう。
「一ノ瀬くん」
手みたいに震えた声に呼ばれて古谷さんを見た。古谷さんが顔を上げる。
「わたし、一ノ瀬くんと一緒にいられて本当に嬉しい」
言葉通り嬉しさを噛み締めるように古谷さんが笑って、古谷さんの顔の一部だと思っていたメガネを初めて邪魔だと思った。
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