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弟の心姉知らず
直に彼氏ができた。らしい。
正直弟の俺から見てもかわいくないし(メガネが何もかも台無しにしている)、いいところと言えばお人好しなところくらいしか浮かばないような姉だ。少なくとも恋人なんてできるのはもっとずっと先の話で、最悪俺が結婚しても独り身でいるんじゃないかと密かに心配していたくらいだ。
だからこんなことはありえない。あるはずがないと思いたかった。
「お帰り。今日晩ごはんどうする?」
ゴールデンウィーク最終日。直は彼氏とデートの後は昨夜の家族での外食以外ずっと家にいて、とうとう今日は一日、俺が朝家を出たときと同じパジャマにぼさぼさ頭のままでいたらしい。
「父さんたちは?」
靴を脱いで洗面所に向かう。直も俺の後をついてくる。
「ほら、今日は二人だけでドライブして外でごはん食べてくるって」
「ああ」
そんなことを言っていたような気もする。
「お金もらったよ」
手を洗いながら鏡に映っている五千円札を広げた直の間抜け面を見る。
本当にこんなのを彼女にしようと思う物好きがいるのか。
「ピザがいい。母さんいるときは頼んでもらえないし」
「ピザ? 二人で食べきれるかな」
「俺の食欲なめんなよ」
タオルで手を拭いて、五千円札を見つめている直のぼさぼさ頭に目をやる。
「そうだ」
直が顔を上げた。本当にメガネが邪魔だ。
「学校の近くに最近イタリアンレストランができたからそこに行こうよ。二日続けて外食なんてちょっと贅沢かな。でもお父さんたちだってそうしてるしいいよね」
「え、直と?」
行きたくないという表情を作ったのはわざとだ。ここで嬉しそうな素振りを見せたら負けた気分になる。何となく。
「いやなら大助はうちにあるもの適当に食べれば。わたし一人で行くから」
直は拗ねたように顔を背けた。一人でなんて行けないくせに。
「一緒に行ってほしかったらメガネは絶対やめてコンタクトにしろよ」
直のぼさぼさ頭をさらにぼさぼさにして洗面所を出た。直はもうついてこなかった。
俺は直のメガネが嫌いだ。
普通のメガネならまだしもよりにもよってあんな不格好なメガネをどうして選んだのか。確かに最初は違和感しかなかったのがいつの間にか似合って見えるようになってしまったけど、直のセンスはいまだに理解できない。高校に入るときに違うメガネにするチャンスがあったのにまた似たようなのを選んだときはいっそのことメガネを踏みつぶしてやろうかと本気で思った。
かっこ悪くて嫌いだった直のメガネを本当に嫌いになったのは、外で学校帰りの直を見かけたときに近くにいた同級生らしき野郎どもが直と直のメガネをバカにしているのを聞いてからだ。今だったらその場でそいつらを締め上げられたけどそのときの俺には度胸も腕力もなかった。
昔の俺は、今の俺しか知らない奴らは絶対信じないけど周りよりも体が小さくて気も弱くて、しょっちゅう近所の悪ガキどもにいじめられていた。
直は昔から泣き虫で今と全然変わらなくて違うのはメガネがあるかないかくらいで、それなのに年下相手に泣きそうになりながら俺を悪ガキどもから何度も守ってくれた。
『やめて! 大助にひどいことしないで!』
情けないくらいに震えた声は必死で今でもはっきりと覚えている。いつかは俺が直を守ってやれるようにならないといけないんだと、俺をかばう背中を見て思った。
今なら俺が直を守ってやれるのに。やっと、守ってやれるようになったのに。
同じタイミングで部屋を出た直の格好を見て思わず固まった。俺の記憶が確かなら、彼氏との初デートのときの格好とコンタクトで髪を下ろしているところまで一緒だったからだ。
「なんでまたその格好」
「いや、ほら、ちょっとおしゃれな感じのレストランだからいつもの格好だとあれかなと思って。あ、ちゃんと洗濯したから!」
上下スウェットだったのを一応下だけジーンズに替えた俺にケンカ売ってんのか。
「早く行くよ」
照れ隠しなのか直は乱暴に部屋のドアを閉めた。
「手ぶらで行く気か。俺何も持ってかねえぞ」
「え、あ、忘れた!」
先に玄関に向かおうとしていた直が慌てて戻ってきた。メガネがなくても直はやっぱり直だった。
わざわざ電車に乗って直に連れて行かれたレストランは駅前の広場を挟んで立ち並ぶ店舗の一つで、男一人で入るのは敷居が高いような、いかにも直が好きそうなちょっとしゃれた、でも家庭的な雰囲気のレストランだった。確かに直のいつもの格好だと浮くかもしれない。俺は確実に浮いていた。
量が俺には少し足りない以外は店の雰囲気も料理の味も値段も文句はなかった。
「お待たせ」
直が会計を済ませるのを店の外で待っていると財布を鞄にしまいながら直が出てきた。
「ちょっと食べすぎじゃない?」
「ピザ一枚とパスタ一皿しか食ってない」
「よく入るね」
俺を見上げる直の間抜け面を見ていると、いつの間にこんなに小さくなったのかと不思議な気持ちになる。俺の背が伸びただけなのはわかってるけど。
「育ち盛りだから。行くぞ」
「あ、待ってよ」
「古谷さん?」
直が後ろから俺のスウェットの袖を掴んだのと同時に知らない声が横から聞こえた。男の。
「やっぱり古谷さんだ。どうしたの? こんなところで」
知らない男が近づいてきて立ち止まった。
「わ、あの、ば、晩ご飯を食べに。新しくできたところが気になって。一ノ瀬くんは?」
後ろで直の震える声が知らない男に答えている。誰だこいつ。
「おかあに頼まれて買い物」
そいつは右手に持っていた買い物袋らしきものを持ち上げて見せた。いつの間にか俺の背中にへばりつくようにしている直に。顔だけ後ろのほうに向ける。
「直、誰」
直がびくりと震えたのがわかった。
「まさか彼――」
「友達が! 友達が副部長やってる部の部長さん!」
この反応はやっぱり彼氏なのか。
俺は見知らぬ男に視線を向ける。日はとっくに沈んでいるけど駅前のこの場所は十分すぎるほど明るいからよく見える。俺とは違って何か白くて細い。爽やかそうな雰囲気で普通という言葉がぴったりな感じで、安心したのか落胆したのか自分でもわからなかった。
とりあえず見た目からしてやばそうな奴じゃなかったのはいいけど、そういう奴らから直を守れるようには見えない。
じろじろ見ていたら目が合った。すぐに逸らされると思った視線はこっちを向いたまま。睨むでもなく笑うでもなくただ俺を見ていた。何だこいつ。
「古谷さん」
「は、はい!」
視線が俺から直に移った。
「二股?」
あまりにもさらっと言ったから、直もすぐに理解できなかったのだろう。俺も何かの間違いかと思った。数秒遅れて直が俺を突き飛ばすようにして背中から離れた。
「ちが、違う! これはただの弟!」
「弟なんだ。見えないからびっくりした」
少しも驚いた様子は見せず納得したように頷いたそいつは、また俺を見た。
頭を下げられて、俺も慌てて頭を下げた。
「じゃあ、また明日」
それ以上自己紹介するわけでもなくそいつはあっさり別れの言葉を口にして立ち去ろうとする。どう挨拶をすればいいのか内心緊張していた俺は思い切り拍子抜けした。
「う、うん! またね」
直も直でほっとしたような表情で遠ざかる背中に手を振っていた。
「おい」
俺が声をかけると大袈裟に反応して手を振るのをやめた。
「な、何?」
家族とそういう話をするのが気まずいのはわかる。俺も彼女ができたとしても親に紹介なんてできそうにないし直にもきっと言わない。
今のも触れられたくないだろうけど、確かめずにはいられない。直が心配だから。
「本当に今の奴と付き合――」
「直ちゃん?」
俺の声を遮るようにまた知らない声が直の名前を呼んだ。今度は女だ。
「え、あ、ミキちゃん!」
きょろきょろしていた直の視線が一点で止まり表情が一気に明るくなる。俺も直の視線の先に顔を向けた。
直の友達みたいだった。今までに何度か見たことがある直の友達のタイプとは大分違う。笑顔のせいか周りの空気がやたらとキラキラして見える。顔は、多分かわいい。パーカーとデニムスカートのシンプルな服装も、直が着たらこうは見えないだろうと思ったら直がちょっと不憫になった。直にもこんな友達がいたのが意外だ。
「おお、やっぱり直ちゃんだった! メガネじゃないし髪も下ろしてるから声かけるのちょっと迷っちゃったよ。そういうのもかわいいねえ。家このへんだっけ?」
「あり、ありがとう。家はここじゃないんだけど、晩ごはん食べに。ミキちゃんは買い物?」
「そう、前編だけ買ってた小説読んでたら続きが気になって後編を買いに来ちゃった。私のうち、駅の向こう側なんだ」
直の友達は持っていたどこかの本屋の紙袋で駅のほうを指した。
「へえ」
「それより直ちゃん、つかぬことを伺いますが」
いくら見ていても飽きそうにない笑顔が消えて耳に気持ちよく響く声がひそめられた。
「そちらの方はどなたで? ま、まさか二股なんてことは」
続けて妙な勘違いをされるとは思わなかった。直はまたバカみたいに慌てて否定する。
「いや、だから違うの! 二股とかじゃなくてええと、ええと」
「弟の大助です」
直がさっさと言わないから自分で名乗った。
「弟! ということは中学生の? うわー何か大学生って言われても信じたよ」
そこまで老けてるのか俺。
「はじめまして。私直ちゃんの友達の横井美紀です」
「姉がいつもお世話になってます」
やっぱり笑顔がいいんだこの人。
さっきの奴とは違って丁寧に挨拶されて俺もありきたりだけど挨拶の言葉を返した。
「いえいえこちらこそ直ちゃんにはお世話になってます。弟いいなー。私一人っ子だからうらやましい!」
俺にもう一度頭を下げてまた直のほうを向く。
この人が姉だったら、直とは違った意味で色々心配になる気がする。
「いたらいたで大変だけどね」
大変なのはこっちだバカ。
「そういえばさっき一ノ瀬にも会ったんだけど直ちゃんは会わなかった?」
「……会った」
この人もあいつのことを知っているのか。
気まずそうに直が答えた。
「あれ、もしかして一ノ瀬にも勘違いされたり?」
直はこくりと小さく頷いた。
「おおお、それでやきもちやかれちゃったり」
「そういうのは、全然」
直が言うと、その人は残念そうに肩を落とした。
「そっかあ。無駄に手強いな一ノ瀬」
それからぴーちくぱーちくお喋りが続くのかと思っていたら、今度は直の口からあっさり別れの言葉が出てきた。
「えと、それじゃあ、また」
「うん、帰り気をつけて、って、頼もしい弟くんがいるから安心だね。じゃあまたねー」
長いこと後ろ姿を見送っていた直がやっと俺のほうを向いた。
「帰ろ」
「俺先帰ったほうがよかった?」
「なんで? 一緒に帰ろうよ」
俺がいるせいでちゃんと話ができなかったのかと思ったけど、いてもいなくても直はあんな感じだったのかもしれない。さっき直に訊きかけたことを思い出した。
「直さ、本当にあの一ノ瀬って奴と付き合ってんの?」
「は!?」
裏返った声だけで直の動揺具合がよくわかった。
「なな、なんで、そんなことを」
「何か、俺のこと二股相手と勘違いしてたみたいだけど全然動揺とかしてなかったし」
「それは、そういう人だから」
直は居心地が悪そうにもごもごと言う。
そういう人だとしても直を見る目が、好きで付き合っている相手を見る目には見えなかった。
「直は向こうのこと好きなのかもしんないけど、向こうは直のこと別に好きじゃないんじゃ」
「うん、わかってる」
予想外の強い声が返ってきた。
「だから頑張る」
何を、とは訊けなかった。好きじゃないのにどうして付き合っているのかとも訊けなかった。俺を一瞬見つめた目は何かを決意しているようで俺の知っている直とはどこか違った。だから、あいつに直を守る役目は任せられないと思ったのも、今はとりあえず胸の奥にしまっておくことにした。
「行こう。早くしないとお父さんたち先に帰ってきちゃうよ」
いつもの、気の抜けたへらっとした笑顔になった直が歩き出す。これ以上この話はしないと背中が言っていた。
俺の背が伸びている間に、直も成長している。どんなに頼りなくても俺の姉で、俺が一生敵わない相手。
あいつが直を泣かせたら許さない、と思ったけど直はくだらないことですぐ泣くことを思い出した。現に初デートの前夜に自分で勝手にネガティブモードになって泣いていた。
あいつが直を泣かせるようなことをしたという確かな証拠を掴んだら、あいつをぶっ飛ばしに行く。こっちにしよう。
直には言えないことを決意して、ちんたら歩いている直を走って追い抜いた。直の後ろを歩くのはもういい。
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