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 メガネがない日03
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「や、やっぱり無理だよ」
 電車を降り改札を出て、待ち合わせ場所でもあった木の下まで来たところでとうとう足が止まった。電車に乗っている間中、昨夜と同じような胃痛と吐き気に襲われて今もそれは続いている。
「心の準備とか全然できてないし、お土産とかも、用意してないし」
「そんなの気にしなくていいよ。おとうたちが勝手に会いたいって言ってるだけだから」
「でも」
 一ノ瀬くんのご両親にもし嫌われたら。
「わたし、きっと失敗して」
「んー、むしろ来なかったときのほうががっかりすると思うけど」
 わたしは言葉につまり、鞄の持ち手を意味もなくいじる。行けば確実に何か失敗をする自信があるけれど行かなければ行かないでとても失礼なことになってしまう。
「そんなにいやなら、来れなくなったって言って」
「ま、待って。いやとかじゃなくて」
 何もしないで後悔するくらいなら、当たって砕けたほうがいい。それはわかっている。本当に一ノ瀬くんの家に行かずにこのまま帰ろうと思っているわけでもない。
 ただ、時間が欲しくて。勇気を出す時間が。
「大丈夫だよ。俺と付き合ってるってだけで、親にとっては女神に見えるみたいだから」
 一ノ瀬くんがわたしの右手を取って歩き出した。わたしの思考はそこで止まってしまう。
 一ノ瀬くんに引っ張られるようにしてわたしも足を動かす。相変わらず心臓は大暴れしていて全身燃えるように熱かった。



 とうとう一ノ瀬くんの家の前まで来てしまった。一ノ瀬くんの手が離れた右手が勝手に一ノ瀬くんの服を掴もうとしたのはどうにか抑えた。
 がらがらと戸を開けて一ノ瀬くんが中に入る。
「ただいまー」
 家の中から足音が聞こえてきた。
「おかえりー! あれ、一人なの?」
 多分、一ノ瀬くんのお母さんの声。
「いや……古谷さん」
 一ノ瀬くんに促されわたしはなかなか動いてくれない足をどうにか動かして横にずれた。その勢いに任せて足をさらに一歩前に踏み出した。
「お、お邪魔し――」
「ま、まあまあまあ! あなたが高志の! 高志がいつもお世話になって!」
 勢いよく下げた頭の上に明るい声が降ってくる。
「はじめまして。高志の母です」
 おそるおそる顔を上げると声と同じような明るい笑顔にぶつかった。
 ショートカットに水色のスーツを着た、どことなく一ノ瀬くんと似た雰囲気の人だった。
「は、はじ、はじめまして。ふ、古谷直で、す」
「わざわざ来てくれてありがとうねえ。さあ、上がって上がって。おなか空いたでしょう」
「あ、は、はい、ありがとうございます」
「いらっしゃい」
 ぺこぺこ頭を下げている途中で今度は落ち着いた男の人の声がした。
「あれがおとう」
 横にいる一ノ瀬くんの指の先を辿るとスーツ姿の男の人が廊下の奥からやって来た。
「あ、はじめ、まして!」
 白髪交じりの頭をかきながら一ノ瀬くんのお父さんも頭を下げる。
「どうも。ええと、うちのばか息子が」
「ほらお父さん、先に上がってもらうから向こうで待ってて」
 一ノ瀬くんのお父さんは一ノ瀬くんのお母さんに背中を押されてすぐに行ってしまった。
「ね、全然大丈夫でしょ」
 一ノ瀬くんに曖昧に頷いて答える。とにかく歓迎されていることだけはわかったから安堵して深く息を吐き出した。

 わたしが通されたのは居間だった。ベージュの絨毯に、正方形の茶色いテーブルとその周りには赤い座布団。部屋の隅にはテレビがあって、きれいに片づいてあたたかい感じのする部屋だった。慣れない匂いに心拍数がますます上がっていく。
 一ノ瀬くんのお母さんが運んでくる料理が次々にテーブルの上に並ぶ。
 好きなところに座っていいと言われたからとりあえず入り口に一番近いところに腰を下ろした。一ノ瀬くんはわたしから見てテーブルの右側、左側には一ノ瀬くんのお母さん、そして向かいには一ノ瀬くんのお父さんが座った。
 わたしはひたすら目の前のおいしそうに湯気を立てているロールキャベツを見つめた。
「そ、それじゃあ早速食べましょう!」
 一ノ瀬くんのお母さんの言葉を合図にそれぞればらばらに「いただきます」と言い、料理に箸をつけ始めた。
「おかず、味どうかしら。お口に合う?」
「あ、はい、おいしいです。すごく」
 訊かれて慌てて頷いた。正直うちのお母さんが作るロールキャベツよりもおいしかった。
「そう? よかった」
 一ノ瀬くんのお父さんは黙々と食べ続けている。一ノ瀬くんは、とちらっと見たら目が合った。さっきまでは一ノ瀬くんに緊張していたのに、今は一ノ瀬くんがいることに安心している。
 食事の間は一ノ瀬くんのお母さんがわたしに学校のことや家のことを訊いて、わたしがしどろもどろになりながら答え時々一ノ瀬くんが口を挟むという流れを何度か繰り返した。自分が何を言ったのかはよく覚えていないけれど、一ノ瀬くんのお母さんは笑顔でいてくれたからほっとした。

「ごちそうさまでした」
 最後の一口を食べ終えわたしは箸を置いた。ロールキャベツも他のおかずもみんなおいしくて、好き嫌いが決して少なくないわたしでも残すことなく全部食べることができた。
「実はデザートもあるのよ」
 最後に食べ終えた一ノ瀬くんのお母さんがテーブルの上を手早く片づける。
「高志、これ台所に持っていって。あと冷蔵庫にアップルパイがあるからそれも用意して」
「俺が?」
「アップルパイ、一番大きいの食べていいから」
「んー、わかった」
 一ノ瀬くんは立ち上がり、お皿が重ねられたお盆を持って居間を出ていってしまった。
 残されたのは一ノ瀬くんのお父さんとお母さんと、そしてわたし。
 気まずさと不安でテーブルを見つめていたわたしは、一ノ瀬くんのお母さんに突然「古谷さん」と呼ばれ勢いよく顔を上げた。
「は、はい!」
 そこに明るい笑顔はなかった。真剣な目で見つめられる。
「もし、高志があなたの望まないことをしようとしたら、遠慮なく殴ってくれていいから」
「は、い?」
 何を言われたのかわからなくてわたしも思わず見つめ返した。
「古谷さんはもう知っていらっしゃるようだけれど、高志は昔から、その、女性の体に、並々ならぬ興味があるみたいで。だからいくら付き合っていると言ってもあなたたちはまだ高校生だし、高志にもせめて自分で責任が取れるようになるまでは軽はずみなことはするなと注意はしているのだけれど、あんな子だから心配で」
 一ノ瀬くんのお母さんが何を言おうとしているのかうっすらと理解して顔が一気に熱くなった。
「ま、まさか高志、もう……! ご、ご両親にどうお詫びしたら」
「あ、わ、違います! 何もないです!」
 わたしが変な反応をしたのがまずかったのかとんでもない誤解をされそうになった。
 確かに突然押し倒されはしたけれど一ノ瀬くんはちゃんとわたしの話を聞いてやめてくれた。その後ももうあんなことは一度もないし、一ノ瀬くんは手も繋げなかったわたしに呆れずに付き合ってくれるくらいで。
「本当に?」
「はい、本当に、大丈夫です」
 わたしが頷くと一ノ瀬くんのお母さんはほっとしたような笑顔を浮かべた。
「ごめんなさいね、突然変なことを言って。我が家だけの問題ならまだしも、あなたにとって取り返しのつかないことになってしまうかもしれないから。高志のことを好きになってくれるような子が現れるなんて思っても……はっ、まさか高志に脅されて無理やり付き合ってるなんてことは」
「そ、それもないです! わた、わたしが、ずっと好きで、告白して」
 わたしは一ノ瀬くんのことを何も知らなかったけれど、どんな人か知っても好きになったことは後悔しなかった。
「一ノ瀬くんはすごく素敵な人です。ちょっと、びっくりしたこともあったけど、でも一ノ瀬くんのこと、知れば知るほどもっと好きになって、わたし、本当に一ノ瀬くんのことが好きです」
 一ノ瀬くんのお母さんが驚いたような顔をしたから途中で恥ずかしくなって最後には声も震えた。
「ありがとう」
 そう言ったのは、ずっと黙っていた一ノ瀬くんのお父さんだった。
「あんな子でも、私たちにとっては大切な息子ですからあなたのような人に好きになってもらえてよかった」
「ほ、本当にねえ。ありがとうありがとう。これからも高志のことよろしくお願いします」
 一ノ瀬くんのお母さんはハンカチで目元を拭い始めて、わたしがうろたえたところで一ノ瀬くんがアップルパイを持って戻ってきた。
「持ってきたよ」
「ありがとう。そうそう、お茶を入れるのを忘れてたわね。すぐ用意するから待っててね」
 一ノ瀬くんと入れ替わるように今度は一ノ瀬くんのお母さんが立ち上がり行ってしまった。
 一ノ瀬くんはアップルパイののったお皿を並べると元の場所に座った。今の話を一ノ瀬くんに聞かれなかったか不安になったけれど一ノ瀬くんは何も言わなかったから聞かれなかったのだと思うことにした。


 おいしい紅茶とアップルパイもしっかりいただいて、帰る頃には緊張も最初よりは大分解けたような気がした。
「今日は、本当にごちそうさまでした」
「いえいえ、こちらこそありがとう。またいつでも来てね」
「帰り道、気をつけて」
「はい」
 一ノ瀬くんのご両親に見送られながら、駅まで送ってくれることになった一ノ瀬くんと一緒に家を出た。
 お互い無言のまま歩く。
 手は、そういう流れにならなかったから繋いでいない。
 一ノ瀬くんはあまりにもあっさりとわたしのことを受け入れてくれるから、油断すると些細なことで不安になってしまう。今もそんなことはないとわかってはいても一ノ瀬くんはわたしと手を繋ぐのが本当はいやかもしれないと悪いほうに思考が流れていく。そもそも最初に手を繋げないと言ったのはわたしのほうで、そう考えるとますますどうしようもない自分に落ち込む。
「疲れた?」
 思わずついたため息に反応されて、わたしは慌てて首を横に振った。
「ううん、全然。おいしいものいっぱい食べられたし、一ノ瀬くんのお父さんとお母さんにも会えてよかった」
「うん、会ってくれてありがとう。何か俺、あんまり信用ないみたいだから。おとうもおかあも実際に古谷さんに会ってちょっとは安心したっぽい。そういえば俺も古谷さんの親に会ったほうがいいの?」
 一ノ瀬くんの恐ろしい提案にわたしはもう一度勢いよく首を横に振った。
「会わなくていい! 親とはそういうこと、全然話してなくて」
 だから今日みたいな日に平然としていられる一ノ瀬くんが少しうらやましい。
「ふーん」
 そこで会話は途切れる。
 繋いでいない手が何だか落ち着かない。繋いだら繋いだでもっと落ち着かなくなるのに。
 不意に、常に受け身でいたことで何度も後悔した記憶がわたしを責めるように押し寄せてきた。
 自分から、手を伸ばしてみようか。
 告白したときのことを思えば実に簡単なことだ。告白はできたのに手は繋げないなんてやっぱりおかしい。込み上げてくる恥ずかしさは自分の中で処理すればいいだけ。それを外に出してしまうからわたしはだめなのだ。
 静かに深呼吸する。一ノ瀬くんとわたしは一応付き合っているということになっていて、一ノ瀬くんもわたしと手を繋ぐことに嫌悪感を抱いたりはしないとちゃんとわかっている。だから大丈夫。
 横目で一ノ瀬くんの左手を捉える。握り締めていた右手を開いて一ノ瀬くんのほうに伸ばすタイミングをうかがいながら大きく息を吸い込んだ瞬間、左肩に強い衝撃を感じて前に進んでいた足が後ろに数歩戻った。
「大丈夫?」
「え、わ、だ、大丈夫」
 何が起こったのかわからないまま一ノ瀬くんに答える。痛む肩に手をやりながら辺りを見てやっと自分が電柱にぶつかったのだと気づいた。
「びっくり、した。ちょ、ちょっと考え事してて」
 どうしていつも一ノ瀬くんの前で。
「もしかして手繋ぎたかった?」
 ただでさえ熱い顔から、本当に火が出るかと思った。
「な、なん、なん、で」
「さっきから古谷さん、ずっと俺の手のほう見てたから」
 まさか一ノ瀬くんが気づいていたなんて。
「ごめ――」
「やっぱそうだったんだ。はい」
 繋げないと言ったり繋ぎたいと言ったり、面倒くさい奴だと思われても仕方ないのに一ノ瀬くんは文句も言わずに手を差し出してくれる。
 震えそうになる手を思い切って一ノ瀬くんの手に重ねたら今まで緊張や恥ずかしさで覆い隠されていた感情が垣間見えた気がした。
 手を繋いで再び歩き出す。
「もう手繋ぐの平気になったんだ」
「そ、そういうわけじゃ、ないんだけど」
 平気なわけがない。今もちゃんと歩けているかわからないし手だって一ノ瀬くんの温かくて乾いた手とは正反対の状態で一ノ瀬くんの手を思わずはねのけたときとほとんど変わっていない。ただ、好きな人と手を繋げる幸せにやっと気づいただけ。
 もっと早く気づくべきだった。余計なことをごちゃごちゃ考えなくてもそれだけで十分だった。
 だんだん駅が近づいてくる。一ノ瀬くんとももうお別れ。
 一ノ瀬くんと一緒にいる緊張感よりも一ノ瀬くんと一緒にいたいという欲求のほうが大きくなっている。
 改札の近くまで来たところで手を離した。
「今日はありがとう。それと、色々ごめん」
「今日も楽しかった。また一緒にどっか行こう」
「……うん」
 笑顔で別れたいのに寂しさと嬉しさがごちゃ混ぜになって涙が込み上げてきた。
「古谷さん?」
「ちょっと、コンタクトが」
 涙の理由をコンタクトレンズのせいにしながら、手が癖でメガネを直そうとしたのが妙におかしくて今度はちゃんと笑えた。
「それじゃあ行くね」
「うん、また」
 別れの挨拶を交わして小さく手を振る。改札を通って振り返ったらそこにまだ一ノ瀬くんがいてくれたのが嬉しくて、わたしはもう一度手を振った。

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