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 メガネがない日01
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 ゴールデンウィークは家族で外食がわたしの唯一の予定だった。だから一ノ瀬くんに「ゴールデンウィーク、空いてる?」と訊かれたときも迷わず頷いた。
「うん、空いてるけど」
 連休前、学校帰りにまた一ノ瀬くんの家にお邪魔して化学の先生の怪しい噂の数々で盛り上がり、一ノ瀬くんと、たとえわたしが一方的にそう思っているだけだとしても盛り上がれた感動にひっそり浸っていたときだった。
「じゃあ明日映画見に行こう」
「え、えいが?」
「そう。ちょうど見たいのがあるしせっかくの連休だから」

 こうしてわたしは好きな人と初めてのデートをすることになった。

 家に帰った後のわたしはそれはもうひどかった。顔が赤いのは鏡を見なくてもわかった。落ち着かなくて家の中を無意味に歩き回った。一ノ瀬くんとの初デートは明日。十時に学校近くの駅で待ち合わせて、その数駅先の映画館へ行くことになっている。
 夕食後、わたしは意を決して大助の部屋のドアをノックした。
「大助、ちょっと訊きたいことがあるんだけどいい?」
 しばらく待っても返事がないからお風呂にでも行ってしまったのかと自分の部屋に戻ろうとしたところで、やっとドアが開いた。
「何」
 不機嫌オーラを隠そうともしない大助に怖気づきそうになりながらもう一度言う。
「だから、ちょっと訊きたいことが、あって」
「何」
「ここでは話しにくいことで」
 大助はわざとらしくため息をついた。
「入れば」
「お、お邪魔します」
 弟の部屋に入るだけなのにどうしてこんなに下手に出ないといけないのかと思いつつも、大助の機嫌を損ねられないわたしは出かかった文句をどうにか飲み込む。
 宿題でもやっていたのか大助の机の上には教科書とノートが広げられていた。
 わたしはソファベッドの上に乗り膝を抱えて座り、大助は椅子を回してわたしのほうを向いて腰を下ろす。
「で、何」
 大助の部屋に入るのは久しぶりだという感慨に浸る間もなく、わたしは言葉を選びながら大助に相談する。
「明日友達と遊びに行くことになったんだけど、どんな格好で行ったらいいかなーと思って」
「……なんで俺に訊くの?」
「いや、ほら、たまには男子的な意見をね」
 さすがに苦しいいいわけだった。
「友達って誰」
 何かに勘付いたように大助が訊いてくる。
「さ、最近仲よくなった子で」
「この間できたとかいう彼氏?」
 わたしは自分の顔に血が上るのを感じながら、膝を抱えていた腕に力を入れた。
「そういうのじゃ」
「デートなんだろ」
 こうなることはわかっていたはずなのにどうして大助に相談なんかしようと思ったのか。わらにもすがりたい気分だった数分前の自分に心の中で八つ当たりをする。
「そう、です」
 大助のほうはとてもじゃないけれど見られない。大助は面倒くさそうに特大のため息をついた。
「男子的、っつーか俺的にはまずそのメガネはありえない。彼女が初めてのデートにんなのかけてきたら帰る」
 そういえば大助は特にわたしのメガネをいやがっていた。
「メガネはだって、ずっとかけてるから向こうもわかってるし」
 そもそも一ノ瀬くんがわたしのメガネのことをそんなふうに気にしているとは思えない。「何かすごいの」とは言われたけれど。
「それでも初デートのときくらいはいつもと違うとこ見せるのもいいんじゃねえの。コンタクト、前買ったの残ってるだろ。あれしてけば」
 大助にそそのかされて今年の初めにお年玉で買ってみた使い捨てのコンタクトレンズ。つけるのにも外すのにも時間がかかり、休みの日に数度使ってその視界に感動したきり埃をかぶっていた。わたしにとってはコンタクトレンズのいくつかのメリットよりもメガネの楽さが勝ったのだった。
 でも確かにこの機会にしていくのはいいかもしれない。
「服は適当に肌見せる感じにしとけ。露出はしすぎると引くけどしなさすぎてもがっちりガードされてるみたいでいやだ」
 大助は彼女がいないと言っていたけれど、これは経験に基づくアドバイスなのだろうか。
「参考にします」
 余計なことを考えつつ頷いた。
 その後も男子的なのか大助的なのかよくわからないアドバイスを受け、結局大助のほうは一度もまともに見られないままわたしは部屋を出た。
 だめだ。顔が熱い。大助は平気なようだったからわたしもできるだけ平静でいようと努めていたけれど、大助に初めてのデートの相談をしたという事実は転げ回りたいほど恥ずかしくて、自分の部屋に戻ったわたしは布団を頭からかぶり意味のない声を上げた。
 ひとしきりそうした後は明日の格好を考えることにした。
 残念なことにデートにはいていけるようなスカートを持っていなかったから下はジーンズ、上は、わたしが持っている服の中では比較的明るい色でふんわりした感じのキャミソールとカーディガンを選んだ。
 普段は後ろで一つに結んでいる髪も、下ろしたほうがいいという大助の言葉に従うことにした。
 化粧はしたくてもそもそも道具がなくてわたしにできるのはリップクリームを塗ることくらいだから考える必要はない。
 用意した服に着替えてみる。おかしくないか大助に訊きにいきたかったけれど、そこまでの勇気は出ずにすぐに服を脱いでたたんだ。
 明日持っていくものの準備も終え一息ついたところで、急に緊張してきた。一ノ瀬くんと、学校帰りの延長ではなくそれが目的で一緒に出かけるのだ。
 一度意識してしまうとそのままずるずると沈んでいく。わたしがしそうなありとあらゆる失敗が頭をよぎり、一ノ瀬くんに呆れられるところを想像した。
 胃のあたりがきりきりと痛み、吐き気を覚えてとうとう涙まで込み上げてくる。小学生の頃、学芸会で緊張のあまりたった一言しかないセリフを忘れた挙句舞台袖に引っ込んだ途端戻してしまった記憶がよみがえる。こんなときに思い出してしまった消したい過去を振り払おうと唇を噛み締めた瞬間ドアを乱暴にノックされ、目に溜まっていた涙がこぼれた。
「直、電子辞書貸して」
 ドアの向こうから声がしてわたしが答える前に部屋のドアが開いた。わたしは涙を拭くのも忘れてドアを開けたところで動きを止めた大助を見つめた。どうしてこのタイミングで入ってくるのだろう。
「……なんで、泣いてんの?」
「緊張、しすぎて」
 声を出したら涙腺がさらに緩んだ。
「あ、明日、行きたくない」
「は?」
「行きたくないよお」
 情けない声と一緒に涙が溢れてくるのを止められなかった。
「ば、ばかかお前!」
 涙で視界は完全にぼやけていた。大助は焦った声を上げながらも逃げることなくその場に留まってくれている。
「とにかく泣き止め! まぶたが腫れる!」
 大助に言われても涙はすぐには止まってくれない。メガネを外してできるだけ擦らないようにしながらティッシュを目の下に当てて涙を吸い取らせる。
 部屋に入ってきた大助は、布団に包まっているわたしの前にしゃがんだ。
「デートって、普通はもっと浮かれて楽しみにするものだろ」
「そう、だけど、でも、いっぱい失敗して、嫌われちゃうかもしれないって、思ったら」
 普段だったら大助にはとても言えないようなことが口から勝手に出てくる。
「たかだかデートの失敗で嫌いになるような奴なら、失敗なんかしなくてもすぐに別れることになるんだから一々気にすんな。つーか直が好きになった奴はそんな心の狭い奴なの」
 わたしは反射的に首を横に振った。一ノ瀬くんがそんな人だったら、そもそもわたしとなんて付き合ってくれなかった。
「だったら泣くほど心配することなんてないだろ」
 大助の言葉がすとんと胸に落ちてきて、あれだけ沈んでいた気持ちが少し楽になったような気がした。
「うん、そうだ、ね」
「じゃあ、さっさと風呂入って寝ろ。俺はもう行くからな」
「うん、ありがとう」
「ん、別に」
 大助のやさしさが身にしみて涙腺がまた緩みそうになった。
 立ち上がった大助は、机の上にあった電子辞書を取って出ていった。
 生意気なだけの弟だと思っていたけれど大助のほうがわたしよりずっと大人だ。もし逆の立場だったら、わたしは間違いなく逃げて話も聞かなかった。
 そこまで考えてまた落ち込みそうになったから慌てて頭を横に振った。

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