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 ある日の攻防

「ところで古谷さんってSとMどっち?」
 一ノ瀬くんの部屋で一ノ瀬くんおすすめの官能小説を紹介されそうになったのをどうにかかわしてほっと一息ついた水曜日の夕方。
 やっと諦めて本を本棚に戻した一ノ瀬くんがわたしの正面に腰を下ろして言った。
「え?」
 聞こえなかったふりをするべきだったと、思わず訊き返した後で気づいた。
「だからサドかマゾかって話」
 わたしは自分の顔が再びひきつるのを感じた。
「俺、自分はどっちかって言うとMだと思ってたんだけど古谷さんといるとSかもって思うようになった」
 真顔でそんなことを言われてもどう返せばいいのかわからない。
「それで古谷さんは?」
「わ、わたしはどっち、かな」
「Mっぽいけど古谷さんがSだったらそれはそれでおもしろいかな。いや、でもやっぱり古谷さんはMのほうが……」
 あらぬ方向を見つめ真剣に考えて始めた一ノ瀬くんを、わたしは後ずさりたい衝動を抑えながら見つめた。一ノ瀬くんにわたしのことを真剣に考えてもらえるのは嬉しい。ものすごく嬉しいけれど、でももっと別のことで考えてほしいとも思ってしまう。
「一ノ瀬くん」
 話の流れを変える話題を思いついてわたしは考え込んでいる一ノ瀬くんに思い切って声をかけた。
「一ノ瀬くんおすすめのミステリー、教えてほしいな」
「ミステリー? んー、色々あるけどこの間読んだシリーズが結構おもしろかったよ。何かエロいし」
 話を逸らしたはずなのに逸らせていない。
「読むなら貸すけど」
「あ、うん、読みたい」
 わたしから振った話題だからやっぱりいいとは言えずに頷いた。あくまでもミステリーなのだから官能小説ほど刺激的なものではないはずだ。
「じゃあとりあえず一作目」
 立ち上がって机の上から駅前の本屋さんのカバーがかかった文庫本を一冊取ってきてくれた。
「返すのはいつでもいいから」
「ありがとう」
 一ノ瀬くんから本を受け取る。一ノ瀬くんの持ち物を今手にしているのだと意識したら手が震えそうになって慌てて鞄にしまった。
「やっぱMだ」
「はい?」
「古谷さんにいじめられるより古谷さんをいじめるほうが絶対楽しい」
「い、一ノ瀬くんは、そういうのが好き、なの?」
 何を訊いているのだろうわたしは。
「んー、さすがにあんまハードなのはちょっと。古谷さんがハードなのがいいなら勉強するけど」
「ハードなのは、わたしも無理、です」
 何を言っているのだろうわたしは。
「あ、そうだ」
 一ノ瀬くんが何かを思いついたように声を上げ、わたしは反射的に身構える。
「握手しよう」
「は、い?」
「本当はいちゃいちゃとかしてみたいんだけど、古谷さんまだだめっぽいからとりあえず握手から始めてみようと思って。慣れたら手を繋いで歩けるようになるかもしれないし」
 あの一ノ瀬くんと付き合えることになって、妄想でしかなかったことを実現できる関係になっても全てがバラ色になってくれるほど現実は甘くなかった。一ノ瀬くんのわたしに対する気持ちの問題ももちろんあるけれど、今差し迫って問題となっているのはわたし気持ちのほうで、わたしにとって好きな人との触れ合いは想像を絶する刺激の強さで簡単には慣れることのできないものだった。だからと言っていつまでも逃げるわけにもいかない。わたしから好きだと告白したのにそんなことばかりしていたら、一ノ瀬くんも快くは思わない。一ノ瀬くんにわたしのことを少しでも好きになってもらうためにも、これは乗り越えなければならない壁なのだ。
 わたしはおそるおそる一ノ瀬くんの提案に頷く。
「じゃあ」
 一ノ瀬くんが右手をわたしの前に差し出す。
 わたしもつばを飲み込み震えそうになる右手を持ち上げた。
「はい握手」
 一ノ瀬くんは何のためらいも見せずにわたしの手を握った。
 一ノ瀬くんの手がわたしの手を。
 目の前の現実に、顔に急激に血が上るのを感じる。
 一ノ瀬くんに握られたわたしの手を見る。その向こうの一ノ瀬くんはできるだけ見ないようにした。
 わたしの心臓が右手に移動して、それを一ノ瀬くんに握られているような気がして息をするのが苦しくなる。
「このまま抱き締めたりとかしたら怒る?」
「……はい?」
 右手に気を取られていたせいで、一ノ瀬くんが何を言ったのかよくわからなくて聞き返した。
「何か右手だけだともったいない。古谷さんの緊張具合を感じるの。だからぎゅーっとしてみたい」
 これなら一ノ瀬くんと変な会話をしているほうがずっと心臓にやさしい。こんな、こんなのはわたしには無理だ。妄想は妄想だからいいのだ。というか一ノ瀬くんの言動は妄想以上だから本当に無理だ。
 そんなことを考えていたら一ノ瀬くんの手が離れて、いつの間にか落としていた視線を上げたら目の前に一ノ瀬くんの顔があった。
 うっかり見惚れるくらいさわやかな笑顔だった。少なくともわたしにはさわやかに見えた。
「ちょっと失礼」
 衣擦れの音が、やけに大きく聞こえて目を閉じて思わず息も止めた。
 肩に重さを感じる。一ノ瀬くんの重さだ。
 多分それはほんの数秒のことで、わたしが限界を迎えるより先に重さが消えた。
「これ、何て言うんだっけ。ハグ?」
 目を開けて息を吐き出しても目の前にいる一ノ瀬くんの顔は見られなかった。声の調子はさっきから少しも変わっていない。
「何か結構……って、古谷さん、大丈夫?」
 わたしは首を横に振ることしかできなかった。
「んーなんでそんなふうになっちゃうのかな。相手俺だよ? そんな緊張するような相手じゃないよ」
 そう、こんなふうになってしまうのは相手が一ノ瀬くんだからです。
「ほら」
 一ノ瀬くんは爆弾だ。
 一ノ瀬くんが両手でわたしの顔を挟んだ。わたしは抵抗する間もなく顔を上げさせられ、一ノ瀬くんの顔を近くで真正面から見てしまった。
 顔が、燃える。
「よく見たらわかるよ。俺そんなかっこよくないし、どこにでもいる普通の高校生なわけだし」
 よく見てもどちらにも賛同はできない。
 一ノ瀬くんの手でやけどしそうだ。こんなに近くに一ノ瀬くんの顔があるということは一ノ瀬くんからもわたしの顔がよく見えるということ。昨日できたばかりのニキビもはっきり見えてしまっているはずで。
「わかった?」
「わかりま、せん」
「やっぱちょっとずつ慣れるしかないか。たこ」
 どうしてその流れになったのか。一ノ瀬くんが何の前触れもなくわたしの顔を挟んでいる手に力を込めた。つまりつい最近この部屋で一ノ瀬くんの口をふさごうとしてわたしがしてしまったことを、一ノ瀬くんは真顔で再現してくれた。なすすべもなくたこのように唇を突き出しているわたしの顔を一ノ瀬くんがじっと見ている。一ノ瀬くんに見られている。こんな顔を。
 一ノ瀬くんの手が離れるのがあと数秒遅かったらわたしはたこ唇のまま一ノ瀬くんの目の前で泣くところだった。
 わたしのひどい顔を見ても平然としている一ノ瀬くん。一ノ瀬くんは何を考えているのだろう。わたしを交際相手に選んだことを後悔していたら、どうしよう。
「古谷さん」
 不安がどんどん膨れ上がっていく途中で、大きく伸びをしていた一ノ瀬くんに名前を呼ばれた。
「な、何?」
「明日のことなんだけど」
 暴れ回っていた心臓がひときわ大きく跳ねて、胃のあたりが苦しくなった。
 明日も放課後一ノ瀬くんと会う約束をしていた。もし一ノ瀬くんに約束の取り消しを求められたら。
「俺、明日も今日みたいなのがいい」
 今日みたいなの。
 会うのをやめようとは言われなくてほっとしたかったけれど今度は別の不安がやってくる。
 確かに明日はどこに行くかとか何をするかといったことは何も決めていなかった。
 今日みたいなのとはつまり一ノ瀬くんの部屋で官能小説をすすめられそうになったり変な会話をしたり握手したり抱き締められたり変な顔を見られたりということで、こんなことを明日も。
「古谷さんとこうしてるの、楽しい。古谷さんはいや?」
 一ノ瀬くんにそんなふうに言われたら、いやだなんて言えるわけがなかった。
「いやじゃないけど、明日は、普通に話をしたい、かな」
 話すだけなら一ノ瀬くん相手でも何とかなる。今もこうして普通に話せている。一ノ瀬くんと初めて話したときのことを鮮明に思い出しかけて慌てて振り払った。
「ん? 今日も普通に話してるじゃん」
 一ノ瀬くんにとってはこれが普通で、そして楽しいことなのか。わたしにとっては喜ぶべきことで実際に楽しいと言われて嬉しいけれど、こんなことが続いたらわたしの身がもたない。慣れるものなら早く慣れたい。
「まあいいや。それじゃあ続きしよ」
 再びわたしの前に差し出された一ノ瀬くんの右手が見つめたままでいたら一ノ瀬くんが続けて言った。
「握手がいやならハグでも」
「はい、握手!」
 やけになって勢いに任せて握った一ノ瀬くんの右手の感触にやっぱり心臓が跳ねて、自分の顔の赤さを想像したらますます一ノ瀬くんのほうを見られなくなった。


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