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目覚めたときに愛した人が隣にいる喜びが、同時にこんなにも苦しいものだとは思わなかった。
雨の降る朝
しとしとと降る雨音で目が覚める。
朝起きて最初にすることは、隣の温もりを確認すること。
まだ開けきらない目で、薄茶色の長い髪を視界に捉え、そっと撫でる。
今朝も沙夜が隣にいる。安堵とともに覚える鈍い痛みは、温かい体を抱き締めて誤魔化す。
「沙夜……」
何よりも大切なその人の名を呼び、髪に顔を埋めて体温を感じる。
「ん……」
小さく洩れた声を耳にして、少しだけ体を離して顔を覗き込んだ。
閉じられていた瞼がゆっくりと持ち上げられる。
「おはよう」
少し掠れ気味の声。誰よりも綺麗に笑んで。
この笑顔が自分だけに向けられたらどんなにいいだろうと、何度も思った。
いっそのこと閉じ込めてしまえたらいいのに。
沙夜が呼ぶ名前が俺のものだけだといい。俺も沙夜の名前しか呼ばないから。
沙夜以外は何もいらないから。
小さい頃、泣き虫でどうしようもなかった俺を守ってくれた優しく強い姉。
嵐の夜は震える俺を一晩中抱き締めてくれた。度の過ぎたいたずらをすれば、誰よりも真剣に叱ってくれた。
いつも、とても温かくて。
高校に上がるか上がらないかの頃、ふざけて幼いときと同じように甘えるように抱きついた体が、驚くほど細くて頼りなくて、記憶にあったものとあまりにも違ったから。
小さな肩を抱き締めながら泣きそうになるのを必死に堪えてた。
守られていた頃は知らなかった。沙夜の弱さも儚さも。
そして姉を姉以上の存在として思っている自分を知った。
一度自覚してしまった狂った感情をなかったことにはできなくて、それでもひた隠しにして。
あくまで姉思いの弟を演じていたのに気づいてしまった。狂った感情を抱いているのが俺だけではないことに。
それは、とても残酷でとても幸せな必然。
「どうして」
白く細い指先が、俺の目元に触れてくる。
「泣いてるの?」
触れられたところから流れ込む、その温かさがさらに涙を溢れさせることをこの人は知らない。
「……あたしの、せい?」
「うん。沙夜のせい」
額を合わせて、わかっているようで何もわかっていない沙夜に囁く。
こうして沙夜の体温を感じていられることが、嬉しくて苦しくて、どうしようもない涙になって溢れてくる。
「ごめんなさい」
沙夜まで泣き出しそうな顔をして言うから、思わず笑ってしまった。
「なんで沙夜が謝るの」
「だって、あたしのせいだって」
苦しいのは沙夜のせいだけれど、沙夜が謝る必要はないんだよ。
ゆっくり言ってあげると、沙夜はそれでもまだ悲しそうな顔をして。
「ごめんなさい」
沙夜を手に入れられたということは同時に沙夜を失うかもしれない不安がいつでも伴うということ。
沙夜がもし他の人を愛してしまったら。もし俺の前から消えてしまったら。考えれば考えるほどどこまで落ちていく思考。
「ごめんね」
小さな声で。
沙夜が流す涙はどんな宝石よりも綺麗。俺のために流してくれる涙だから。
「血なんか、繋がってなければいいのに」
「沙夜、聞いて」
俺の涙の原因を勘違いしてる可愛い沙夜。そういうところも愛しいけれど。
腕を沙夜の背中に回して軽く抱き締める。今この瞬間だけは確かに幸せなのだと実感する。
「俺はね、沙夜の弟として生まれてよかったと思ってる」
それが苦しみの一部であることは否定のしようがないけれど、それ以上に。
「生まれたときから俺はずっと沙夜の傍にいることができた。誰よりも長い時間を沙夜と過ごせた。それに俺たちは、誰にも壊せない繋がりを持っているんだよ」
今なら、そう思えるんだ。あなたが隣にいるから。
周りから祝福されることは決してない。結婚することもできず、家族を作ることもできない。
何も言わないけれど沙夜のほうがその苦しみは大きいに決まっている。いくら望んだって俺が沙夜の苦しみをなくすなんて簡単にできるわけじゃない。
でも。それでも。
「ずっと愛してるから。今までもこれからも」
どんなときだって俺は沙夜の隣で一緒に笑って泣いて、たとえほんの少しの幸せでも掴まえてみせるから。
だから沙夜もずっと俺の傍にいて。どこにも行かないで。
沙夜の細い腕が俺の背中に回された。昔も今も変わらず俺を温かく抱き締めてくれる腕。
「和輝」
愛してる。陳腐で、それでいて最も的確な言葉を、あなたのためだけなら吐き出し続けてもいい。
雨音が祝福の音に聞こえるおめでたい耳を持っていることを、今だけは感謝した。
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