トップ | 小説一覧 | お礼企画 | ひかりのひと
あなたがいるから、私は幸せなのです。
ひかりのひと
綺麗に身支度を整え、ベッドに腰かけて近づいてくる足音に耳を澄ませる。
情報を伝えなくなった目の代わりにやたらと鋭くなった聴覚は、遠くからでも確実にあの人の足音を聞き分ける。そもそも朝の早い時間に私の部屋にやって来るのは母親か姉かあの人のうちの誰かしかいなくて、ゆっくりとした足音はあの人のもの。
「おはようございます」
ドアの開く音がした後少し遅れて、ノックすることを失念してるその人に言う。
「おはよう」
きっとこの人はいつも私に笑顔を向けて挨拶しているのだろう。目を細めて、唇の端を持ち上げて。私もそうしていたいけれど、うまく笑顔を作れているか不安だからあまりしない。
いつの頃からだったか、毎朝この人と二人で散歩をするのが習慣になっていた。 この人が仕事へ行く前の、ほんの短い時間。今日は休みの日だからいつもよりもゆっくりできる。
「髪、とかしてあげるね」
ベッドがきしんだ。私は体を横に向ける。さっきとかしたばかりの髪はもうそうする必要はないけれど、この人に髪を触ってもらうのは好きだからそれでいい。このためにわざわざ髪を伸ばしたなんて、言わなくてもきっとわかってしまっているのだろうし。
「今日はどうしようか。せっかくの休みだし少し遠くまで行ってみる?」
少しずつ髪をとかしながら、彼は相変わらずの柔らかい声で訊いてくる。
「いつもの公園でいいです」
言ってから後悔した。今の言い方、少し嫌な感じがしたかもしれない。謝ろうか考えていたら彼が少し笑った気配がした。
「なんで、笑うんですか」
「ふふ、ごめんね。かわいいなあと思って」
顔が熱い。きっと真っ赤になってしまっているに違いない。
そういう恥ずかしいこと、さらっと言ってしまえるなんて一体どういう神経をしているんだろう。
「後ろ姿だけでも何考えてるかわかるんだもん」
まだ笑いを含んでいる声。今度はさっきとは違う恥ずかしさで顔が熱くなった。
「髪、もういいです」
「怒った?」
そう言いながら、後ろから抱き締めてくるのは卑怯だ。
「別に、怒ってません」
「よかった」
耳元にかかる吐息。くすぐったくて少しだけ身をよじる。
いつもの洗い立てのシャツの匂い。背中に感じる彼の体温が心地好すぎて泣きたくなった。
「触っても、いいですか」
彼はしばらくしてから離れていいよと言った。
二人の間の、儀式のような行為。私が時々そうしないと不安でたまらないことを知っているからこの人はいつも黙って受け入れてくれる。
体ごと彼のほうを向く。彼がシャツを脱いだ気配がした。
「横になったほうがいい?」
「このままで、いい」
両腕を伸ばす。指先が彼の髪に触れた。柔らかい髪。そのまま両手で彼の頬に挟む。温かい。親指が彼のまつ毛に、鼻筋に、唇に触れる。
唇から、首へ肩へ手を下ろしていく。記憶にある、彼の姿を確かめたくて。
彼の裸の胸に手を置いて私はそこに自分の唇を寄せた。それから耳を当てて心臓の音を感じる。彼は私の頭をそっと撫でてくれた。
そこにあるものさえ見えなくなってから、実際に見えはしない大切なものまで消えてしまいそうで、前よりも不安になった。
手を伸ばせば届くところにあるものもこうやって確かめないと、いつか忘れてしまいそうで怖い。彼の笑顔も。少し怒ったような顔も。困った顔も。意外と筋肉質な体も、大きな手も。熱いくらいの体温も。
いつか全部私の前から消えてしまいそうで怖い。
「ずっと傍にいてください」
頭を撫でていてくれた手が急に止まって、自分が声に出してしまっていたことに気づいた。
一気に血の気が引く。
それは、私の一番の願い。
でも決して口に出してはいけなかったこと。この人は優しい人だから、そんなことを言ったら困るに決まってる。
「あ、ごめ、ごめんなさい、今のは」
「今のは、プロポーズと受け取っていいのかな?」
いつまでも一緒にいられるわけではないことくらい、わかってる。
誰よりも大切な人だから縛り付けるようなことはしたくなかった。
私はこの人と一緒にいられるだけでとても幸せで、ずっと一緒にいたくて。でもこの人は私といたらきっと幸せになれない。だから。
「違う。違います。今のはなしです」
慌てて体を離そうとした瞬間、息もできないくらいに強く、抱き締められた。
「ごめん、なさい」
我慢できずに涙が溢れてしまう。
かつて垣間見た、死にたくなるほどの絶望の底から私を救ってくれたのはこの人で、それ以上は望んではいけなかった。
「ごめ」
「ばか」
裸の胸に押し付けるようになってしまっている頬は、相変わらず熱くて。
「僕から言おうと思ってたのに」
私が彼の言葉を理解する前に、肩を掴まれ引き離され、唇に何かを押し付けられた。温かいもの。多分彼の唇。
ずっと一緒に生きていこう。
また抱き締められて、鼓膜に、優しい声が響く。
それが、この人の本心からの言葉だとわかって涙がさらに零れた。
私にとってこの人は何よりも大切なもので。
この人といるときだけは、光が見える気がする。
「ずっと一緒に、いてください」
光を失って死すら望んだこともあるけれど、それがこの人と出会えた代償だと言うなら、今では小さなことだとさえ思えるんです。
だから神様、どうかこの人だけは私から奪わないで。
トップ | 小説一覧 | お礼企画