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自分でもバカだったと思う。今度赤点取ったら母親の怒りをかうことは間違いなかったのに。
「今度こそ家庭教師つけるからね!」
目の前の、鬼の形相で仁王立ちしている母親に反抗する勇気なんて、とうの昔になくしました。
「聞いてるの!?」
「聞いてます……」
十七の春休みは、灰色決定。
薔薇色モンキー
俺は呼吸することも忘れ視力0.9(コンタクト使用時)の自分の目を疑った。
疑いもする。だって、だってこんな。
母親が連れてくる家庭教師なんてどうせろくでもない野郎だと思ってたのに、部屋のドアが開いて姿を現したのは、どう見ても野郎じゃなくてしかも、しかも、しかも!
「あの、こんにちは。えと、私のこと覚えてるかな。昔はよく一緒に遊んだんだけど」
彼女の言葉に俺は勢いよく首を縦に振る。それこそ首ふり人形のごとく。
「哲哉、塔子ちゃんの言うことよく聞くのよ。じゃ、塔子ちゃん、これから二週間、みっちりよろしくね」
彼女の肩を軽く叩いて部屋から出て行った母親が、一瞬だけ天使のように見えた。随分と太っちょな天使だけど。
お母さん、今まで親不孝な息子でごめんなさい。俺が間違ってました。もうぶーちゃんなんて呼びません。今度肩揉んであげるね。そんでご飯食べ終わったらちゃんと食器を流しに持っていきます。それからそれから。
「……くん、哲哉くん?」
本物の天使の声で我に返る。いつのまにか胸の前で両手を組んで乙女のポーズをしていた俺を、一瞬で凍り付いてしまいそうな冷たい目や、奇人変人に向けるような変な目で見ることもないやさしい人。
「本当に久しぶりだね。何だか照れちゃうな。哲哉くん、びっくりするくらいかっこよくなっちゃって」
いつもは信じてない神様を信じてもいいと思った。と言うかもう泣いちゃってもいいですか?
お世辞でも、かっこいいって。
クラスの女子からは「サル」とか「対象外」(こっちだってお前らなんか対象外だい)とか「なんて言うか、しょせんいい人止まり?」とか虐待されてる俺に向かって。しかも塔子さんが……!
塔子さんは相変わらず食べちゃいたくなるくらい愛しいです。
うっかり口を滑らせそうになって俺は慌ててテーブルをバシバシ叩いた。
「塔子さん、塔子さん、どうぞ、座ってくださいです」
あれ。今微妙に日本語おかしかったかもしれない。いつもだってまともに使えてはいないけど。
塔子さんが俺の部屋に入ってくる。小花柄のロングスカートがよく似合ってるなと、思いながら、変に思われないようにさっと部屋を見回す。塔子さんが来るってわかってたらもっと真剣に片付けたのに。
とりあえず見られて困るようなものは目に付かない。何しろ俺も健全な高校生。親にも塔子さんにも見られたらまずいものの一つや二つや三つは持っているんです。
塔子さんは俺の向かいに腰を下ろす。俺の向かいに。向かい?
「そっちだと、教えにくくないですか」
せっかく開いた英語の参考書。塔子さんのほうからだと逆さになって見にくい。 塔子さんはきょとんって感じの顔で首をかしげて、それからはっと気がついたように移動する。こんなちょっとのことでも顔、赤くなっちゃう可愛い塔子さん。昔と変わってない。
「それじゃあ、今日から二週間、よろしくね」
俺の左斜め前に座って、照れ隠しも込められた天使の微笑みつきで言われて。
舞い上がらないわけがない。
「こちらこそ、よろし」
ごつん、と。妙な音が響いた。痛みとともに。
頭下げながら言って、舞い上がっていたから勢いがついていて。
見事にテーブルに激突したおでこ。
今時こんな古典的なギャグみたいなこと、サルでもやらない。ああ隣のクラスの山田くんならやるかもしれない。
「あう……」
あまりの痛さに目に涙が浮かんだまま顔を上げて、心臓止まっちゃうんじゃないかと思った。
ねえ塔子さん、どうしてそんなに心配そうな顔で俺を見てるの。
「あ、うわ、大丈夫? 痛い、よね。どうしよう。何か冷やすものもってくるね」
こんなところ、クラスの奴らに見られたら散々笑い者にされた挙句卒業式の日まで、もしかしたらそれから先もずっとバカにされ続けるかもしれないのに。
座って落ち着く間もなく再び立ち上がった塔子さんは、部屋から出て行く。俺のために。
「塔子しゃん……」
涙目のまま痛むおでこをおさえながらその後ろ姿を見送った。
塔子さんは、俺の三つ年上のいとこで、そんでもって、実は、初恋の人、でもある。きゃ。
マイダディの似ても似つかない弟(ばあちゃんの不倫を疑うのが妥当)、つまり俺の叔父さんでもある塔子さんのダンディお父様の憎い転勤のおかげで、五年前に無理やり引き裂かれたロミオとジュリエットじゃなくて俺と塔子さん。
それまで徒歩八分だった距離が飛行機なんてものに乗っていかないと会えない距離に。
一週間枕を濡らした十二の冬のことでした。
それから会えたのは四年前のじいちゃんの葬式(じいちゃんごめん、じいちゃんが死んじゃった悲しさと塔子さんに会えた嬉しさがごちゃ混ぜになって混乱して鼻水たらしながら薄ら笑いを浮かべてたのは俺です)のときだけ。
父親経由の情報によると大学生になった塔子さんはどうやら電車でうちから十五分くらいのところに引っ越してきたらしいけど、結局流れ行く時には勝てなかった。疎遠になった俺と塔子さんの関係。薄らいでいった俺の気持ち。
初恋は今ではいい思い出になりました。
数年ぶりの不意打ちの再会にやられてちょっぴり浮かれてしまったけれど。
ごめんなさい。嘘です。とっても嘘です。ずっと好きでした。あほみたいにしつこくずっと塔子さんのことが好きでした。大人の男ってやつになったら押しかけてプロポーズしてやるとかちょっぴり本気で思ってました。
会いに行けなかったのは塔子さんの彼氏とうっかり鉢合わせしちゃったらどうしようとかそもそも俺のこと覚えてなかったらどうしようとか、怖くてたまらなかったから。
いとこ同士は結婚できないのよっていうホラを、純粋な幼い息子をからかうことが趣味だったひどい母親から吹き込まれて泣いた夜があっても、塔子さんのことがずっと好きでした。今でもばっちり好きです。
階段を上ってくる塔子さんの足音。
ハタチの春休み。貴重なはずの時間を二週間も俺のために使ってくれるやさしい人。
十七の春休みは、とりあえず薔薇色決定。
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