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 雪がはらはらと降りしきる聖なる夜。
 あたしは罪を犯す。


 雪の降る夜


 今年のクリスマスはどうしようかと、いつもの二人の朝食のとき、和輝が言った。
「また二人で寂しくクリスマスパーティーやる?」
 あははと、あたしは笑って返す。
「彼女と二人で過ごせばいいじゃない」
「そしたら姉さんが一人になっちゃうでしょうが」
「あたしだって相手がいないわけじゃないのよ」
 トーストを頬張りながら、とりとめもない会話。それすらも痛い。棘だらけの薔薇を掴むみたいに。
「ただクリスマスは家で過ごしたいの」
「一人でも?」
「一人でも」
 家にいれば少なくとも和輝を感じられる。染み付いてしまった匂い。
 だから、一人でもかまわないの。


 あたしは弟を愛している。弟という存在以上に。一人の男性として。
 これが罪だと言うならば、あたしはきっといつか罰を受けるのだろう。
 血の繋がった実の弟に、それ以上の感情を抱いてしまったという罪。


「ねえ和輝」
 クリスマスイブの前日。
 和輝と近所の商店街まで買い物。この時期はどこを見てもキラキラしてる。意味もなく、それだけで幸せな気分になる。
「何?」
 隣を歩いていた和輝があたしのほうに顔を向ける気配がした。
 彼女の存在は否定しなかったくせに、それでもクリスマスはあたしと過ごそうと言う、酷い弟。
「やっぱり、クリスマスは彼女と過ごしたら?」
「何言ってんの。こんなに買い物した後で」
 和輝は両手にぶら下げた買い物袋を持ち上げる。中身はクリスマス用の料理の材料。
「女の子にとって、こういうイベントは結構重要だったりするのよ」
「でも姉さんという実例があるしね」
 静かに笑いながら、言う。
「みんながみんな、特別な日だと思っているわけではないでしょ」
「あたしだって、クリスマスは特別な日だと思ってるわ」
「プレゼントが貰えるから?」
「和輝」
「はいはい。とにかく俺のことは気にしなくていいの。二人きりの姉弟なんだから仲良くしましょうよ」
「あたしは二十五、あなたももう二十四でしょ。いい加減仲よくとかそういう年でも」
「おじいちゃんおばあちゃんになっても仲がいい姉弟でいたいものです」
 言葉は棘となってあたしの体に突き刺さる。
 刺さった棘は抜けないまま、どんどん奥深くに沈み込んでいく。
 それでも、和輝と一緒にいられる心地好さは僅かな痛みなど覆い隠してしまう。
 なんて甘い媚薬。
「ねえ、和輝」
「ん?」
「寒いね」
「そりゃあ冬ですもん」
 荷物は、残酷なまでに優しすぎる和輝が全部持ってくれているから、あたしの両手は空いている。手袋をしていない両手は氷のように冷たくなっていた。少しだけ擦り合わせてみるけれど、あまり効果はない。
「姉さんって手袋嫌いだよね。してるの見たことない」
 そう言う和輝も手袋をしていない。重い袋を提げた指先が痛そう。
「別に嫌いなわけじゃないけど。ねえ、荷物、半分持つよ?」
「平気」
 和輝は荷物を持たせてはくれない。
 和輝の両手はふさがったまま。
 手袋をしないのは、和輝と手を繋ぎたいから。どんなに冷たくても、その体温を直接感じたいから。
 小さい頃はあたしの手が冷たくなれば、和輝の手が温めてくれた。
 手を繋いで一緒に歩いた。
 あの頃に戻れないのはわかっているけれど、いつもそれを期待しているの。
 きっともう、手を繋いで歩くことなんてないのだろうけれど、それでも。
 夢を見るだけなら、許して。


「お帰りなさい」
 あたしはエプロンをしたままドアを開けて和輝を出迎える。
「ただいま」
 和輝がコートを脱ぎながら言う。
 スーツ姿で髪も整えている和輝は、いつも知らない人に見える。あたしの知らない和輝。
 玄関の段差があっても少し見上げなければならない。いつの間にこんな大きくなったのだろう。
 こんなとき、和輝はもう子供ではないのだと思う。
「雪」
「え?」
 少しだけ、小さい頃の面影を残した笑顔で。
「雪降ってる」
「天気予報、当たったのね」
「うん。ホワイトクリスマスだね」
 それから和輝は鼻をひくつかせる。
「いい匂い」
「一日かけて頑張ったんだから。ケーキもうまく焼けたのよ」
「それは楽しみ」
「先にお風呂に入る? 寒かったでしょ」
「うん、そうする」
 まるで夫婦みたいな会話だなと、思ってみたりした。


 いつもより遅めの夕食。
 キャンドルなんか立ててみたりして。クリスマス用の特別なキャンドル。その隣には赤い薔薇を一本飾った。
 今夜のメインディッシュは和輝が大好きなビーフシチュー。
 料理はいつもは使わない食器に盛り付けた。
 ケーキは生クリームたっぷりのイチゴのケーキ。
 普段はお酒なんて飲まないけど、特別な夜だからシャンパンも用意した。
 和輝がお風呂から上がる頃合いを見計らって、温めたビーフシチューをつぐ。
 今夜は、特別。
 特別な夜。
「乾杯」
 シャンパンを注いだグラスが綺麗な音を奏でる。
 二人だけの夜。 
 正面に座った和輝があたしの作った料理を口に運ぶ。
「おいしい」
 和輝はいつもあたしに笑顔を向ける。ここ何年も怒ったり泣いたりする和輝を見たことがない。
 もともとあまり感情を表に出さないタイプだし、もう大人だから。
 近頃昔のことを思い出すことが多くなった。
 何も知らないで幸せだった頃のこととか。
「和輝」
 名前を、呼ぶ。
「ん?」
 スプーンを口に入れたまま和輝が顔を上げてあたしを見た。
 名前を呼べば、好きな人はちゃんと答えてくれる。
 これ以上のわがままは、望んでいはいけないのだろうか。
「好きよ」
 和輝の綺麗な瞳を見つめて、あたしは告げる。
「あたしは、和輝のことをずっと愛しているから」
「何、急に」
 笑顔は崩さないまま。それが今は憎い。
「結婚するの」
「誰が」
「あたしが」
 さすがの和輝も少しだけ驚いたように目を見開いて、でもすぐに笑顔に戻った。
「それはまた随分と唐突だね。相手は? 恋人なんて紹介されたことなかったけど」
「駅前の、お花屋さんの」
「花屋のクマさん?」
 あたしは頷く。クマさんというのはもちろんあだ名で、本当は笹井さんと言う。あたしと和輝がよく行くお花屋さんで働いている。
 大柄で髭も生やしているから、見た目は怖そうだけれど、すごく優しい人。
「年、結構離れてない?」
「二十八だって」
 意外と若かったんだと、和輝は呟きスプーンを口に運ぶ。
「そうか。あのクマさんとね。付き合ってたなんて全然気づかなかった。とりあえずおめでとう」
 笑顔という仮面をはりつけたまま、当たり前のように祝福の言葉。
「ありがとう」
 だからあたしも笑顔で返す。綺麗に笑えていたらそれでいい。
「お父さんたちにはもう言ったの?」
「まだ」
「……俺から言っておこうか?」
「え?」
「姉さんってそういうの苦手でしょ。俺から言っておけば、クマさんを紹介しやすいと思うけど」
 あくまでも、姉を心配する弟。
 別に何かを期待していたわけじゃない。
 和輝にとってあたしが姉でしかないのは当たり前。でも、もっと驚くとか、反応を見せてほしいと思う。
 あたしは最近和輝がわからなくなってきている。それが怖い。
「すごく、いい人なの」
「クマさん?」
「うん。和輝の次に好きな人なの」
「それじゃあクマさんがかわいそうでしょ。せめてクマさんの次に俺が好きだとか」
「笹井さんは、あたしを愛しているの」
「だろうね。クマさんはいつも姉さんを見てたから。まさか付き合ってたなんて知らなかったけど」
「あたしは、和輝を愛しているの」
 冷めてしまったシチュー。
 揺れるキャンドルの炎。
「はいはい、もうベタベタ仲良くする年じゃないって言ってたのは姉さんなのに」
 どうしたらその笑顔を歪められるの。
「笹井さんは、あたしが和輝を愛していてもいいって言ってくれたの」
「だって俺弟だもん。クマさんもそんな心の狭い人じゃないでしょ」
 あたしにとっては弟じゃないわ。
 言ったらあなたはどんな顔をする?
 少しは動揺してくれる?
 それともやっぱり何事もなかったように笑顔でかわしてしまうの?
 いつの間にか、和輝のお皿もあたしのお皿も空になっていた。
「おなかいっぱい。ケーキはもうちょっとしてから食べようよ」
「そうね」
 和輝は、手を伸ばせば触れられるところにいつもいるのに、あたしはそれができない。
「和輝」
「ん?」
「今までありがとう」
「……うん。クマさんならきっと姉さんのこと幸せにしてくれるよ」
「あたしは、今もすごく幸せよ」
 だって、愛した人と一緒にいられたのだから。
「和輝にはいろいろと迷惑をかけたかもしれないけれど」
「そんなことないって」
「和輝に頼りきってたもの。経済的にも、精神的にも」
「姉さんだって家のこと全部してくれたじゃない。俺のほうが姉さんに頼りっぱなしだったよ」
 和輝はあたしの知らない静かな笑顔で、言う。
 引き止めてくれるなんて、思ってない。


 雪が降る。
 しんしんと、音もなく。


 薄暗がりの中、あたしは目を開けた。
 日付はもう変わったのだろうか。
 身を起こして、パジャマの上にカーディガンを羽織り、ベッドから下りた。
 音を立てないように静かに部屋のドアを開ける。向かいにあるのが、和輝の部屋のドア。
 開けてはいけない。
 警告。
 和輝の部屋に足を踏み入れることは、あたしの中の禁忌。 
 でも、今夜だけは。
 ドアノブに手をかける。
「和輝」
 掠れた声だけが漏れる。
 愛しているだけであたしは満たされていた。そう思っていた。
「和輝」
 もう一度その名を呟いて、静かにドアノブを回した。
 暗闇に慣れた目は、窓からのカーテン越しの僅かな明かりで、はっきりと和輝の姿を捉える。
 何も知らずにベッドで眠っている和輝のもとに、そっと歩み寄る。
 綺麗な寝顔。
 床に膝をついて覗き込む。
 和輝が好きだと言ったから伸ばした髪が、肩から滑り落ちた。
「和輝」
 何度名前を呼んでも手に入らないことくらいわかっている。
 でも、今夜だけは。
 聖なる夜。
 サンタクロースなんて信じたことはなかったけれど、今夜だけは。
「愛してる」
 言葉に出しただけでは足りない。愛してる。そんな言葉だけでは表しきれない。
 何も知らずに穏やかな寝息をたてている和輝の髪に、そっと触れてみる。
「姉さん」
 不意に、閉じられていたはずの和輝の瞳とぶつかった。
「……起きてたの?」
「寝てると思った?」
 いつもの笑顔を貼り付けて、和輝は身を起こした。膝をついていたあたしは和輝を見上げる。
「こんな時間に何の用? 愛の告白をしに来ただけ?」
「和、輝」
 いつもの笑顔ではないと気づいた。
 何かを覆い隠している笑顔。
 和輝の左手があたしの頬に添えられた。
「クマさんがいるのに、他の男の部屋に夜這いかけにきていいの?」
「だって、和輝は弟よ」
「姉さんにとって、俺は弟ではないでしょ」
 あっさりと、口に出す。
「何も知らないふり、しててもよかったんだけど、せっかく姉さんが初めて俺の部屋に来てくれたわけだしね」
 これはあたしの知らない人だと思った。
 和輝の手が触れている頬だけが、熱い。
「それで、俺のことが好きで好きでたまらない姉さんはどうしたいの? 最後にキスくらいしようと思った? それともそれ以上のことも?」
「何、言ってるの」
「俺はかまわないよ。血の繋がった姉が相手でも」
「かずき」
 あたしの知らない、凄艶な微笑みを浮かべて、和輝があたしを見ている。
「違う。あたしはただ」
 震える声が、空に散る。
「和輝の傍に、いたかったの」
 頬に触れている和輝の手があたしの髪を撫でた。
「何で、笑ってるの」
「姉さんが可愛いから」
「あたしは和輝のこと、軽い気持ちとかじゃなくて、本気よ」
「わかってる。軽い気持ちじゃ弟を異性として好きにはならないでしょ」
「ずっと、知っていたの?」
「知ってたよ」
 あたしの髪に触れながら、とても残酷な一言。
「知ってたからどうだって言うの。俺は姉さんの気持ちに応える義務はないし、むしろそれが普通だよね。姉さんが異常なんだよ」
 そんなことわかってる。
 言おうとしたけれど、声が出せない。
 わかりきっていたこと。
 和輝もあたしを想ってくれているなんて、そんな都合がいいことあるわけがない。それは異常。
 わかっていたことなのに。
「たった一人の大切な姉さんだから、ちょっと相手をするくらいならよかったんだけど、あいにく姉さんは体の関係まで求めてなかったみたいだし、俺にはどうしようもなかったんだけどね」
「やめて」
 何も言わないで。
「わかったなら出て行って。もう用はないでしょ」
 作り物の微笑みを浮かべた和輝に腕を取られ、そのままあたしは立ち上がった。
「今夜だけ、傍にいるのも駄目なの?」
「姉さんもバカだね。まだ俺と一緒にいたいと思うの?」
「だって、好きなの」
「救いようがないよ」
「それでも、愛しているの」
「姉さんって酷いよね」
「酷いのは和輝のほうよ」
 不意に、強い力に引っ張られた。
 何が起こったのか理解する前に、背中から柔らかい何かに沈み込んだ。
「本当に酷いのは姉さんだよ」
 気がつけばベッドに押し付けられ、和輝があたしの上に覆いかぶさるようにして、あたしを見下ろしていた。
 薄暗がりの中に浮かぶ、和輝の笑顔が、綺麗すぎて怖い。
 背筋が引きつる。
「和輝」
「姉さんは幸せになれる道を見つけたくせにどうして今更俺に構うの」
「あたしは」
「俺はあなたしか愛せないのに」
 和輝があたしの耳元に唇を寄せて、刻み込むように囁いた。
「え……?」
「俺を愛してるって言いながら、その目で何を見てたの。俺がどれだけ我慢したと思ってるの。知らなかったなら教えてあげるよ。俺も異常なんだって。実の姉を女として見てるんだよ」
 耳元で吐き出される和輝の言葉に、鳥肌が立った。
 あたしが求めていたもの。
 絶対に手に入らないと思っていた。
「彼女がいるのに、そんなこと言っていいの?」
「そんなものいないよ。残念ながら」
 あたしを見下ろす和輝は相変わらず笑顔だったけれど、あたしには今にも泣き出しそうに見えた。
 小さい頃、泣き虫だった和輝がよくしていた顔。
 両腕を持ち上げて、和輝の頭に触れた。
「嘘なの」
 頭を撫でながら言う。
「何が」
「笹井さんと結婚するって」
 和輝が、今度は本気で驚いたみたいだったから、あたしは思わず笑ってしまった。
「結婚してくれって言われたのは本当。あたしが和輝を愛していてもいいって言ってくれたのも本当。でも、返事はまだ待ってもらってる」
「断ってよ」
 もう、笑顔ではなくて、小さい子みたいに泣きそうな顔して。
「そんなもの断って。ずっと俺の傍にいて」
 うんって答える代わりに、和輝の唇に触れた。
「さや……沙夜……」
 和輝が、あたしの名を呼ぶ。
「あたしたち、天国には行けないわね」
「沙夜と一緒なら、地獄に堕ちてもいい」
 和輝の体温を感じて、あたしは幸せだった。


 雪が降る。
 もっと降って。
 あたしたちの罪を、覆い隠して。


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