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 帰り道は学校近くの川沿いの道を十分ほど歩き、途中の橋で黒岩双葉は右に曲がり私はそのままさらに真っ直ぐ川沿いを行く。
 確実に十分は黒岩双葉と一緒に歩かないといけない事実に肩に何かがずっしりとのしかかるのを感じた。


  02.試練の帰り道


 下校のピークはとっくに過ぎていて昇降口付近にはひと気がないのがせめてもの救いだった。
 外に出るとあと数日で衣替えなのがうそのような、秋とはとても認められない太陽と風に出迎えられた。それでも一ヶ月前よりは確実に秋寄りになったはずの空気を吸い込んで、大きく吐き出した。今の私にはギラギラ輝く青い空と太陽が私にケンカを売ってきているように見える。
「家、途中まで方向同じだよな」
 私の右側に並んだ黒岩双葉が歩き出す。仕方なく私も足を動かした。
「薫子って志望校どこ?」
 歩き始めてすぐ、会話のない気まずさを感じる前に黒岩双葉が口を開いた。
「一応、北高」
 名前を呼ばれて鳥肌をぞわぞわ立てながら私は答えた。家から通いやすいことと、それから私でも少し背伸びすれば届くレベルの学校だからという単純でこれ以上ない志望理由だった。
「うそ、俺も北高」
 特技は平均点を取ることらしい、私と似たり寄ったりの成績の黒岩双葉が同じ高校を志望するのは想定内のことで驚くようなことではない。通いやすさもうちからと大して変わらないだろうし。
「約束。しよ」
 突然黒岩双葉が立ち止まった。そして何故か立てた右手の小指を私に差し出した。
「絶対一緒の高校に行くって約束」
 何かを考える前に首を横に振っていた。
「一緒に勉強すれば絶対大丈夫だって。はい」
 黒岩双葉は筋違いな解釈をすると私の手をつかんで無理やり小指を絡ませた。名前を呼ばれたときの比ではないくらい全身の毛穴が開いた気がした。
「指切りげんまんうそついたら針千本のーます、指切った!」
 一方的に指切りをした黒岩双葉は満足そうに笑った。私は小指と黒岩双葉に触られたところを、見えないように制服で拭いた。
 自分で選んでしまった道の険しさを痛感する。こんな偽善者で勘違い男で強引な奴とつきあわないといけないなんて。
「へへ、薫子の手、ちっちゃい」
 自分の手を握ったり開いたりしていた黒岩双葉が嬉しそうに気持ち悪いことを口走った。
 黒岩双葉といる間鳥肌が治まることはないかもしれない。名前を呼ばれるだけでもぞくぞくするのに。
「く、黒岩くん、男の子だし」
 男女で差があるのは当たり前なのだからいちいち気持ち悪い言い方をしないでほしい。
「違う」
「へ?」
 まさか実は女だとかそんな衝撃的な展開が。
「名前。双葉。ふ・た・ば」
 あるわけなかった。
「いや、私は別に」
 黒岩双葉は期待に満ちた笑顔で私を見ている。私が名前を呼ぶまで動かないつもりなのだろう。無視して歩き出そうとしてもすぐにつかまえられて、呼ぶまで離さないとか気持ちの悪いことを言い出すのがありありと想像できる。
 私は観念して下の名前を呼ぶことにした。一時のことだ。黒岩双葉を不幸のどん底に突き落としてやるために必要なこと。そう自分に言い聞かせて口を開いた。
「ふ、ふ」
 それでも体が名前を呼ぶことを拒否しようとする。
「ふ、ふ、ふ、ふた、ばうひゃっ」
 やっと最後まで言い切った直後にチリンチリンと自転車のベルを鳴らされて私は変な声を上げながら道の端に飛び退いた。すぐ横を自転車に乗ったおばさんとはあはあ言っているゴールデンレトリバーが通っていった。
 人通りは少ないとは言え全くないわけではなかった。散歩コースにもちょうどいいから、川を挟んで向こう側の道には制服姿の人は見えないけど犬の散歩やウォーキングやらジョギングやらをしている人が普通にいる。こっち側の道にだっていてもおかしくない。
「大丈夫?」
 やけに近くで黒岩双葉の声がしたと思った。顔を上げたら何故かすぐそこに黒岩双葉の顔があった。
「え」
 視線を落とすと私の両手が何故か黒岩双葉のワイシャツを鷲づかみにしていた。
 とりあえず両手を開いた。
「ごめん」
 努めて冷静に謝って黒岩双葉から距離をとった。
 今のは悪いのは私だから、気持ち悪いと思ったり手を拭いたりするのはやめておこう。さっきの自転車のせいで心臓が痛いくらい速く動いている。
「もっかい呼んで。名前」
「もう呼んだ」
「もっとちゃんと呼んで」
 しつこい黒岩双葉はへらへら笑いながら無言の圧力をかけてきた。私は今すぐ黒岩双葉を突き飛ばして逃げたい衝動と闘いながら、仕方なくもう一度呼んだ。
「ふた、ば」
「くー、俺幸せだー」
 これから不幸になるとも知らずに、本当に幸せそうに黒岩双葉は笑った。

「あーあ、携帯持ってたらメールとか電話とかいつでもできんのにな。親に頼んでも高校受かるまでだめって言うし」 
 いつもの何倍も長く感じる帰り道、やっと黒岩双葉と別れられる橋まで来た。
 いかにも携帯を持っていますという雰囲気を醸し出している黒岩双葉が、本当は持っていないことくらいとっくに知っている。
「薫子は? 持ってる? 携帯」
 これからしばらくは名前を呼ばれる度にこのぞわぞわした気分を味わわないといけないのか。
「持ってるけど、学校には持ってきてない」
「おお、真面目」
「別に、必要ないし」
「俺もまた頼んでみようかなあ。薫子とメールしたい! メール!」
 一人で盛り上がった黒岩双葉はしつこく振り返って手を振りながら去っていった。つられてうっかり手を振り返していた自分に気づいて、私は慌てて手を下ろして家路を急いだ。



 ガラスが割れるような音で目が覚めた。すぐにののしり合う不快な金切り声と怒鳴り声が聞こえてきた。
 黒岩双葉のせいで眠りがいつもより浅かったのかもしれない。普段なら眠気が勝つのに今夜は眠気なんて始めからなかったように消え去ってしまった。
 枕元に置いていた携帯を手探りでつかんで時間を確認する。夜中の二時を過ぎたところだった。こんな時間に近所迷惑な人たち。
 携帯を戻して、布団を頭までかぶって自分の心臓の音を聞く。私の情けない心臓はこんなくだらないことにも大げさに反応していた。
 しばらくして心臓の音にかき消されていた声が完全に聞こえなくなったことに気づいて起き上った。何度か深呼吸してから息をひそめると今度は時計の針の音が大きく響き出した。
 耳障りな声が私の部屋まで届いていないのをもう一度耳を澄ませて確認して私は布団から出た。暗闇に慣れた目に明かりは必要ない。床に散らばっているマンガや空のペットボトルを踏まないようにしながらたどり着いた部屋のドアを、音を立てないように慎重に開けた。
 ぼそぼそとした話し声が聞こえる。
 今から私はスパイだ。
 ドアの隙間から、少しも寒くはないけどひんやりとした空気の漂う廊下に出て、壁伝いに少しずつ進む。つま先立ちで壁にぴったりと張りつきながら、居間のドアにはめ込まれたすりガラスからの光に入らないようにしてぎりぎりの距離まで近づいた。
 息を殺して話し声を聞き取ることに集中する。話の内容は前にスパイになったときとあまり変わっていなかった。進展も後退もない、不毛なやり取り。
 私は来たときと同じ道を来たときと同じようにそろりそろりと戻り、開けっ放しになっていたドアの隙間に身を滑り込ませた。開けたとき以上に気をつけながら部屋のドアを閉めてやっと大きく息を吐き出した。やっぱり私はスパイには向かない。
 暗闇に浮かぶ、部屋を囲むように床や机や棚の上に並んでいるぬいぐるみたちを見回して少しでも癒されようと思ったのに、あろうことか黒岩双葉の顔を思い出してしまって最悪な気分で布団にもぐり込んだ。


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