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三男の突撃観察記録
こんにちは、神啓太郎です。
今日は母が漬けた漬け物を届けに下の兄のアパートまでやって来ました。雨が降っていたので自転車はやめて電車にしました。学校から帰ってすぐ母に頼まれ、着替えるのが面倒だったので制服のままです。
ドアをノックをしましたが誰も出てくる気配はありません。母から下の兄がいなかったときのためにと持たされた合鍵を使う前にためしにノブを回してみたらあっさり開いてしまいました。不用心です。
「お邪魔します」
小声で言いながら靴を脱ぎます。玄関にあった黒い靴が、明らかに下の兄の靴とはサイズが違うことにこのとき気づくべきでした。
玄関横の台所の隅の、小さめの冷蔵庫に袋から取り出した容器をすぐにしまいます。この時期食べものの扱いにはよく気をつけなければいけません。
これでとりあえず僕の用は終わりです。漬け物の存在は後でメールで知らせれば済みます。
靴を履こうとしたところで、ふすまの向こうから微かな物音が聞こえました。
「孝兄?」
もしかしたら寝ているだけかもしれないと思いふすまを開けました。クーラーで冷えた空気を肌に感じて開けなければよかったと、見慣れない後ろ姿が驚いたように揺れたのが視界に入った瞬間思いました。
しばらく時間が止まったように僕もその人も動けませんでした。
「……こんにちは」
沈黙が永遠に続きそうだったので思い切って声をかけました。
「こんにち、は。お、お邪魔、してます」
その人は僕に背を向けたまま頭を下げました。彼女越しにテーブルの上にホールケーキらしきものが見えます。これから切り分けて食べるところなのでしょうか。
「あの、兄は」
「じ、神くん、神くんは、宗太郎さん、電話あって、傘持ってないって、迎えに」
しどろもどろの説明で、下の兄だけでなく上の兄もこの場に向かっているという恐ろしい状況を把握しました。まずいです。こんなところを見られでもしたら。
「ただいまー」
遅かったようです。
「あれ、啓太郎?」
「お母さんに、漬け物届けてくれって頼まれて。冷蔵庫にしまったから」
下の兄の声に、変な誤解がないように今ここにいる理由を慌てて告げてから僕は恐る恐る振り返りました。
「ああ、そっか。後で電話しとかないとな。宗太郎は今日どうすんの?」
それで納得してくれたらしい下の兄が後ろにいた上の兄に訊きました。
「一応帰るつもり。お母さんにも言ってある」
上の兄も下の兄も、昔から両親のことは僕と同じように普通に「お父さん」「お母さん」と呼んでいて、普段は何とも思いませんが特に上の兄がそう呼ぶのを聞くと、最近ふとした瞬間に少し不思議な気持ちになります。兄たちが荒れていた時期があるから余計にそう思うのですが、よく考えれば荒れていた時期も、怖い雰囲気だけはどうにもならなかったものの兄たちがお互い以外に暴言を吐いたり暴力を振るうことは決してありませんでした。喧嘩の巻き添えにすることはありましたが。
「あの、じゃあ僕、帰るね」
「昨日焼いたケーキ、これから食べるんだけど啓太郎も、食べてく?」
目は「さっさと帰れ」と口とは正反対のことを言っています。坂口さんの前だから一応誘ってやっているという心の声がだだ洩れです。普段なら迷わず帰るという選択肢を選ぶところですが、今日の僕は迷っています。兄たちと坂口さんが普段はどんな感じでいるのか、とても気になっていたことをこの目で見ることのできる、恐らくこの先滅多に巡ってこないチャンスです。
「うん、食べたい」
迷った末に僕は頷きました。
二人分の殺気を感じたのは多分気のせいです。
カチャカチャという食器の音だけがやけに大きく響きます。会話が全くありません。僕は坂口さんの正面に、僕から見て右側に下の兄、左側に上の兄が座ってそれぞれケーキを口に運んでいます。
下の兄が作ったケーキは、周りは生クリームで覆われて真っ白で、中にはイチゴやキウイなどの果物が色々入っていました。とてもおいしいです。上の兄もそうですが下の兄も器用な人だと思います。
僕はケーキを食べながらちらちらと三人を観察していました。
正面の彼女はケーキだけを見つめていました。食べ終わった後手持無沙汰になることを恐れてか、時々コーヒーに口をつけながらかなりゆっくり食べています。ケーキを口に入れる度に顔が緩んでいるのが何だか、いえ、これ以上はやめておきます。
兄たちは二人とも、文字通り僕のことは視界にも入れていませんでした。坂口さんが顔を上げないのをいいことに、僕のようにちらちらとではなくはっきりと彼女を見つめていました。兄たちの視線を一身に浴びている彼女が羨ましいような、そうでないような複雑な気持ちです。僕は兄たちに見られるよりも兄たちを見ていたいのかもしれません。でもたまには僕のことも見てほしいと思うのはわがままな弟心というやつです。
「ごちそうさまでした」
最後にフォークを置いたのは坂口さんでした。コーヒーを一口飲んで顔を上げ、そこでやっと二人分の視線に気づいたようでした。
「坂口さん」
戸惑うように再び俯こうとしたのを下の兄の声が止めました。
「おいしかった?」
彼女がとてもおいしそうに食べているところを見ていた下の兄は、わかりきっているはずのことを尋ねました。
「あ、う、うん! 凄くおいしかった」
「そう? よかった」
表情を和らげながら頷いた彼女に、下の兄は嬉しそうに言いました。
「こんなケーキ、自分で作れるの凄いね。あ、前に貰ったバナナケーキ、あの、お母さん、の。あれも本当においしくて、わたしが作ったのと全然違って」
僕が渡したバナナケーキの話題が彼女の口から出てきて、嬉しいようなくすぐったいような妙な気持ちになり温いコーヒーをのどに流し込みました。
「あんたも作んの」
上の兄が訊いたことに彼女は頭を曖昧に動かしながら答えました。
「バナナケーキは作ったこと、なかったけどプレゼントにって思」
坂口さんの言葉が不自然に途切れました。右手を口元にやって、明らかに口が滑ったというような顔をしていました。
「プレゼント、って?」
恐らく彼女が一番食いつかれたくないであろうことに下の兄はしっかりと食いつきました。声が心なしかいつもより低く感じます。怖いです。
「あ、の、誕生日、の」
下の兄の前で隠し事はそうそうできません。坂口さんもあっさりと口を割りました。兄たちの誕生日は少し前に過ぎました。兄たちの様子からするとそのときに彼女が作ったバナナケーキは貰っていないということなのでしょうか。
「誰の?」
「誰のって、だから、あの」
坂口さんは俯いてしまいました。声が震えています。何だかかわいそうです。もしかしていつもこんな感じなのでしょうか。そうだとしたら心配です。
「……神くんと、宗太郎さんの」
「そんなの貰ってない」
消え入るような声に、上の兄の声が被さりました。
「だから、渡そうと思ったけど、渡せなくて」
「なんで」
坂口さんは上の兄の問いに何かを言いかけましたが黙り込んでしまいました。うまく説明できそうにないので諦めたのでしょう。僕もよくそういうことがあります。
上の兄は苛立ちを隠そうとせず思い切り顔に出していました。いつもとあまり変わりませんが。下の兄は上の兄とは対照的に表情は特に変えずただ坂口さんを見つめていました。
「また、作ってよ」
しばらく続いた沈黙の後に下の兄が静かに言いました。
「でも、おいしくないかも、しれないし」
「それでもいい」
上の兄の言葉に坂口さんが小さく頷いてその話題は終わりました。そしてまた沈黙が戻ってきました。会話がないのは僕がいるせいなのか、それともいつもこんな感じなのか、どちらもあるのかもしれません。
「あっ」
坂口さんが不意に出した声に、僕はクリームがついたお皿に落としていた視線を持ち上げました。
「な、何……?」
下の兄が右手を坂口さんに伸ばして、髪の毛を触っていました。
「何か、触りたくなったから」
下の兄に対抗するように上の兄も左手を伸ばしました。二人に髪を弄られている坂口さんは、顔を赤くしながら困ったように視線を彷徨わせてから俯いてしまいました。僕は見てはいけないものを見てしまったような気持ちになり目を逸らしました。
両手に花という言葉が思い浮かびましたが、この状況はそれとはまた違うような気がします。兄たちは間違っても花とかそんな可愛いらしいものではありません。もっと禍々しいもののようなイメージです。
それにしても自分から望んだこととは言え、全くの部外者の僕の居心地の悪さは言葉では表せません。僕相手に緊張できる坂口さんが周りに気を配れる程器用な人ではないことはわかっていますし、この状況ではますますそんな余裕はないのでしょう。兄たちは二人ともそもそも僕のことなんか眼中にありません。
そろそろ僕は帰ったほうがいいのかもしれません。クラスメートに空気が読めないと馬鹿にされる僕でも、さすがに今の自分がお邪魔虫だということはよくわかります。言い出すタイミングを窺っているうちにいつの間にか兄たちから解放されていた坂口さんに先を越されてしまいました。
「あの、わたし、もう帰らないと」
困りました。これでは僕が始終三人の時間を邪魔したことになってしまいます。しかし何と言って引き止めればいいのかわかりません。
口を開いたものの声を出せず、坂口さんはゆっくりと立ち上がり目が合いました。
「さようなら」
それが僕に向けられた言葉だと少し遅れて気づき、僕も慌てて「さようなら」と彼女に返しました。
兄たちにも向けられた彼女のぎこちない笑みが、何だか悲しそうで、でもとても幸せそうに見えました。
玄関まで見送りに行った下の兄が戻ってきて、息苦しさを感じます。
「啓太郎」
「な、に?」
下の兄が元の場所に座りながら僕の名前を呼びました。
「そんなに気になる?」
「何、が?」
下の兄はいつもと変わらない口調と表情です。それでも僕はどうしても身構えてしまいます。
「坂口さん」
これには何と答えるのが一番いいのでしょう。もちろん気になるに決まっています。でもそれを正直に言うのは少し怖いです。
「孝兄たちの、好きな人だから気になると言えば気になる、けど」
「坂口さんってさ、あんな感じだから余程の物好きでもない限り対象外のはずだけど」
仮にも好きな人のことなのに随分な言いようです。
「でも、血は争えないって言うから」
つまり、物好きな兄たちの弟である僕も物好きの可能性があるということなのでしょうか。母から父は物好きだという惚気話のようなよくわからない話をされたことを思い出しました。
「だからあれに近づくな」
上の兄はオブラートに包むということを知っているのか時々心配になります。
「もし」
僕は一度つばを飲み込んでから続けました。
「もし僕があの人のことを好きになったら、どうするの」
好奇心とはつくづく恐ろしいものだと思います。僕の問いに下の兄は特に怒るわけでもなく小さな笑みを作りました。
「どうもしない」
「え?」
「坂口さんが俺たちよりも啓太郎を好きになることはないし、たとえ啓太郎を好きになっても俺たちは坂口さんを離さない。大切な弟に、全く望みのない恋はさせたくないから」
これは、どう受け取ったらいいのでしょう。言葉通りの意味に受け取るべきなのでしょうか。
「でも孝兄も宗兄もあの人を好きじゃなくなる日が来るかもしれない」
別にだから僕にも望みはあるとか、そんなことを言いたかったわけではありません。
確かに兄たちの執着の仕方は異常です。でも、だからこそそれがなくなったときが怖いのです。そこまで兄たちが無責任だとは思いたくありませんが平気で人を切り捨てることくらいするだろうと、兄たちをよく知っている人なら思うでしょう。僕も思います。もし本当にそんなことになったらあの人がどれだけ傷つくか、考えたくありません。
恋はときに周りを見えなくさせます。今はその人しか見えなくてもいつか冷めてしまうときがくるかもしれません。人の気持ちはいずれ変わるものです。兄たちはそれをわかっているのか知りたかったのです。
「心配しなくても、飽きたら捨てるとか、そんなことはしないから」
下の兄が僕の心を読んだように言いました。「飽きたら捨てる」という言葉を下の兄があまりにもさらりと口にして、僕の心臓が大きく跳ねました。
「それに坂口さんのことを嫌いになっても、離せないから」
「え?」
「あれがないと死ぬ」
下の兄に聞き返したら上の兄が言い切りました。意味がわかりません。
何かそれほどまでに兄たちの琴線に触れるものがあったのでしょうか。
僕には、どうして兄たちがあの人にそこまで執着するのか理解できませんし兄たちも他人の理解など必要としていないのでしょう。もしかしたら兄たち自身も理解できていないのかもしれません。
「……でも、それだって今だけの感情かもしれないのに」
兄たちはもう何も答えてくれませんでした。
あの人の顔を思い浮かべました。あの人のことを考えると、少し胸が苦しくなります。兄たちとの関係は排他的で背徳的で、未来が見えません。
それでもあの人は幸せそうに笑うのです。
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