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冷たい夜と温かい手
「何やってんだバカネ」
最近帰ってくると真っ先に人の部屋のドアを開けるようになったクソ兄貴は、今夜も当然のように何のためらいもなく年頃の妹の部屋のドアを開けて言い放った。
「おか、えり」
わかっていたはずなのに油断していたあたしもあたしだけど。
いつもならとりあえず勉強をしているふりをするのだけれど部屋中に広げていた服を一瞬で片づけることは不可能で、あたしは部屋の真ん中に立ち尽くすしかなかった。
「明日、着て行く服を選んでるだけ。です」
クソ兄貴の視線が痛くてつい正直に答えてしまった。
明日は土曜日。
クソ兄貴と出かける約束をした日。何の気まぐれなのかちょっと恐ろしいけどちゃんと約束した。
まるでそれをとても楽しみにしていると言っているようなものじゃないか。この状況は。
「明日、五時に改札前。遅れるなよ」
あたしの動揺に気づいているのか、いつもならねちねちつっこんできそうなクソ兄貴は、今夜は実にあっさりしていた。
「え、なんで? 一緒に家を出るんじゃないの?」
「昼間は仕事。家までいちいち戻るの面倒」
相変わらず仕事が忙しいのか。
「うん、わかった。お風呂沸いてるから早く入ってきなよ」
何とかクソ兄貴を追い出した後、散らばった服を見つめて考える。
仕事帰りのクソ兄貴はつまりスーツで、あたしも少しは大人っぽい格好をしたほうがいいのかもしれない。
そんなに持っていないスカートとワンピースをかき集めてベッドの上に並べてみて、これで大人っぽい格好は無理だと早々に悟った。とりあえずスカートかワンピースで行くのはいいとして、下手に背伸びするのはやめて普通にいつも通りな感じにしよう。
こっちのデニムのスカートはこの間履いたとき微妙にきつくなっていたしこっちは可愛いけどひらひらしすぎてあたしには似合わないとクソ兄貴に鼻で笑われそうだ。
「あ、そうだ!」
引越しの前に容子さんに買ってもらったワンピースの存在を思い出した。とても自分のお小遣いでは買えないような値段で、もったいなくてしまい込んだままだった。クローゼットの中をあさって奥から白い袋を引っ張り出した。
「あった……!」
黒のワンピース。容子さんにいつもより女の子らしく見えると言われたから少なくとも子供っぽくなることはないはず。
下にタートルネックのTシャツでも着てあとはタイツとブーツにカーディガン、それからお気に入りのダウンジャケットを着て行こう。
「よし。楽しみだなー」
って違う。クソ兄貴と出かけるのが楽しみなんじゃない。映画と食事が楽しみなんだ。
思わずこぼしてしまった言葉に言い訳して、あたしはつい鼻歌を歌いながら散らかした服を片づけた。
遅い。
携帯の時計を見つめながらあたしは白い息を吐き出した。
約束の五時はとっくに過ぎていて空はすっかり暗くなっている。電車が到着する度に改札を通る人の中にクソ兄貴の姿を探すのにも疲れた。
何度か送ったメールは当たり前のように無視されて、ためしにかけてみた電話ももちろん繋がらなかった。
まさか、と嫌な想像をしてしまう。クソ兄貴は映画と食事という約束をしてあたしを期待させてすっぽかすつもりなんじゃないか。知らないところに置き去りを心配したけど、よく考えたらもう何もできない子供ではないのだからすっぽかしのほうが嫌がらせとしては効果がある。
昔と比べたら今のクソ兄貴はまだましだから油断していたけどクソ兄貴はクソ兄貴だ。散々痛い目にあっておきながらまた甘い言葉に騙されるなんて。
あと一時間待っても来なかったら帰ろう。それから一週間は油ぎとぎとのこってり料理を出してやる。
手袋をしてくればよかった。携帯を握り締めている両手が痛い。
クソ兄貴が、本当に来なかったらどうしよう。
「茜」
低い声に名前を呼ばれて顔を上げた。いつの間にか目の前に黒いコートに身を包んだクソ兄貴が立っていた。
「遅い!」
うっかり涙が込み上げてきたのを誤魔化すために大きな声を出したら、さっきから横でいちゃいちゃしていたカップルが驚いたようにこっちを見たのがわかった。
「待ち合わせ、五時って言ったのに!」
「悪かったな」
口では謝ってるけど顔が謝ってない。なんでそんな薄ら笑いを浮かべてるんだ。
それなのにクソ兄貴に腹が立つよりも、クソ兄貴がちゃんと来てくれた嬉しさのほうが大きい自分に戸惑う。
「あれー茜?」
とにかく思い切り文句を言ってやろうとしたらクソ兄貴とは正反対の甘ったるい声に名前を呼ばれた。
「やっぱりー! 声したから探しちゃった」
クソ兄貴の後ろからひょっこり顔を出したのは鈴ちゃんだった。真っ白なコートがよく似合っていて眩しい。
「鈴ちゃん! どうしてこんなところに」
「買い物ー。臨時収入があって嬉しくて」
鈴ちゃんは右手に持っていた大きな紙袋を少し持ち上げた。
「それにしても茜、なんで言ってくれなかったの?」
「え、何を?」
「とぼけちゃだめー。えっと、はじめまして。茜の彼氏さん、ですよね?」
クソ兄貴に向き直ってぺこりと頭を下げた鈴ちゃんはさらりと恐ろしいことを言って、声以上に甘い笑顔であたしとクソ兄貴を交互に見た。
「ち、違う! これはお」
「わたし、茜の友達の鈴岡文江です」
内緒にしていた兄という存在をうっかり口にしそうになったのを鈴ちゃんが遮ってくれた。クリスマスイブにクソ兄貴と鉢合わせしてしまったらしい莉緒には誤魔化しきれなかったけど絶対に内緒にしてって頼んだし、これ以上は知られるわけにはいかない。かと言って彼氏と誤解されるのも困る。
「ああ、どうも」
あたしが言い訳を考えている間に、外面だけはいいクソ兄貴が鈴ちゃんに無駄に爽やかな笑顔で返していた。クソ兄貴じゃないみたいで気持ち悪い。
「それでいつから付き合ってるの? 結構年上だよね。あーん、知ってたら茜と彼氏のこともっと色々話したのにー」
鈴ちゃんが高一のときから付き合っているという彼氏は鈴ちゃんの元家庭教師で今は社会人二年目らしい。その話を聞いたときは大人の彼氏羨ましいとか家庭教師なんて何だか危険なにおいがするとかみんなで盛り上がったものだった。鈴ちゃんは普段は時々惚気話をするくらいだけど、相手が社会人だと色々心配や苦労もあるのだろう。って今はとにかく言い訳を考えないと。
「彼氏さん、背高くてかっこいいですねー。茜が羨ましい−」
ここは親戚のお兄さんってことにすべきか。
「これからデートですか?」
「ええ、映画を見て食事にでもと」
「わーいいなーいいなー」
クソ兄貴と鈴ちゃんの恐ろしい会話が耳に入ってきて、あたしはとっさに二人の会話を止めた。
「だから違ーう! デートじゃないし、この人も彼氏じゃなくて、ええと、た、ただの知り合いだから!」
我ながら苦しすぎる言い訳だった。
「やだー、そんなに照れなくてもいいのに」
「本当に」
くすくす笑う鈴ちゃんにクソ兄貴まで乗っかりやがった。クソ兄貴はあたしの彼氏だと誤解される弊害よりも誤解されて困るあたしを見る楽しさをとったようだ。
「あ、電車来ちゃう。じゃあ、わたしもう行くから。邪魔してごめんね。今度絶対話そうね!」
手を振りながら改札の向こうに消えていった鈴ちゃんを、あたしも手を振りながら見送った。今度鈴ちゃんに会うときまでにちゃんとうまい言い訳を考えておかないと。
「お兄ちゃんのバカ」
「あ?」
あたしの呟きに地獄耳のクソ兄貴は即座に反応する。あたしはとりあえず話題を変える。
「映画、時間平気なの? というか何見るの?」
「ああ、そろそろ時間だな。行くぞ」
クソ兄貴は腕時計に目をやって歩き出し、あたしも慌てて追いかけた。
てっきり駅前のわりと大きめの映画館で見るのかと思っていたのにクソ兄貴は反対方向に向かっていた。
「どこ行くの? 映画館あっちだよ」
何とかクソ兄貴の隣に並んで尋ねる。
「もうちょっと行ったところにつぶれかけのがあるからそっちで見る」
「え」
「そっちでしかやってない」
「え、ちょっと、本当に何見るのさ」
クソ兄貴はどんどんひと気のない道を進んでいく。ビルとビルの間の狭い路地を通ったら駅前の明るさがあっという間に遠くなってあたしは思わずクソ兄貴のコートの袖をつかんだ。
嫌な予感がする。
嫌な予感は的中した。
つぶれかけというか実際に近々閉館するらしいその映画館は見た目のボロさのわりには広くて、ど真ん中の席、大スクリーンと大音量で見せられたのはいわゆるホラー映画の類だった。
お客さんはあたしたちの他にカップル一組とサラリーマンと大学生っぽい男性二人組だけでみんな端の席に座っていたからほとんど貸し切りのような気分を味わえた。他の映画だったら嬉しかったかもしれないけど、ホラー映画で周りにいるのがクソ兄貴だけという状況は恐怖が増すだけでちっとも嬉しくない。
楽しみにしていたポップコーンとジュースは、クソ兄貴がわざわざ上映時間ぎりぎりを狙って入館したせいで買う時間なんてなかった。というかそもそも売っているのかすらもわからなかった。
聞いたことのないタイトルの映画は内容がわかった時点で席を立とうとしたけどクソ兄貴に腕をつかまれた挙句逃げたら家から追い出すと脅された。鬼。悪魔。
目を閉じて耳をふさぐという最終手段もクソ兄貴に右手をがっちり握られて阻止されたから、あたしは半泣き状態で不覚にもクソ兄貴にしがみつきながら拷問のような時間を乗り切ったのだった。
やっと映画館を出られても女の人の絶叫がまだ耳から離れないしちらっと見てしまったスクリーンいっぱいに映っていた恐ろしい顔が目に焼き付いている。
同じ映画を見ていたはずのカップルやサラリーマンたちの姿はもうどこにもなかった。映画館の前の歩道も向こう側の歩道も人通りは全くなくて、その間の道路も時々通る車があるかないか。周辺のお店はすでに閉店しているのかシャッターが閉まっていたり真っ暗だったりで、冷たい空気と人の気配をほとんど感じない空間に思わずぶるっと震えた。
「うう、こんなの見るなんて知ってたら絶対来なかったのに」
クソ兄貴の左腕にしがみついたままなのは、二時間弱恐怖と闘ってずっと体に力を入れていた反動でそうしないと立っていられないからだ。クソ兄貴も珍しくあたしを振り払おうとしたりしなかった。
「飯、何か食いたいのあるか?」
夕食の意見を訊くんだったら映画の意見も訊いてほしかった。
「もううち帰りたい」
「なら一人で先に帰れ」
あんな映画を見た後で一人で夜道を歩いて一人でクソ兄貴が帰ってくるのを待てと言うのか。
クソ兄貴を見上げたら勝ち誇ったような顔であたしを見下ろしていた。
服なんて、適当に選べばよかった。楽しみにするんじゃなかった。クソ兄貴はあたしに嫌がらせをしたかっただけなんだ。
「……何泣いてんだ」
眉をひそめたクソ兄貴に言われて初めて、自分が泣いていることに気づいた。慌ててしがみついていたクソ兄貴の腕に顔を押し付ける。
「泣いてない」
泣いていることを自覚したら涙がますます出てきてしまう。悔しいのか悲しいのか。多分両方だ。
あたしはクソ兄貴に何を期待してたんだろう。
上からクソ兄貴のため息が聞こえて、怖くなった。クソ兄貴は本当はもうあたしのお兄ちゃんじゃない。赤の他人。家族としての繋がりなんて、クソ兄貴が切ろうと思えば簡単に切れてしまう。
クソ兄貴に振り払われる前に自分から離れようと思ったけど泣くのをなかなかやめられなくてクソ兄貴にくっついたままでいたら、クソ兄貴はあたしを振り払わずに歩き出した。
歩きにくいし駅前に出て人に見られたらと思うと恥ずかしいけど周りが見えないから恥ずかしさも見なかったことにする。腕に女の子一人くっつけて歩いているクソ兄貴だけ恥ずかしい思いをすればいい。
歩いている間、クソ兄貴の存在だけを感じていた。
「茜」
しばらく歩いてからクソ兄貴が立ち止まってあたしの名前を呼んだ。
「ん……」
あたしはおそるおそるクソ兄貴の腕から顔を離した。
目の前にあったのは頼りない灯りに照らされたベンチだった。周りを見回す。
いつの間にか住宅街に入っていたようだった。あたしたちがいたのは、滑り台にブランコ、あとは砂場があるくらいのどこにでもあるような小さな公園。
クソ兄貴に促されてあたしはベンチに座った。クソ兄貴もあたしのすぐ隣に腰を下ろす。
あたしはクソ兄貴の腕にしがみついたまま。振り払われるまで離したくないと、思ってしまう。遠くて遠くて、ずっと遠かったクソ兄貴。一緒に住んで、変なことを言われたり、キス、されたり、クソ兄貴が一体何を考えているのかよくわからないけど、そういうことがあってもクソ兄貴は何だか遠い。何を考えているのかわからないから余計に遠い。どんなにひどいことをされても、昔はもっと近くに感じたのに。
「俺といるのはそんなに嫌か」
頭の上からクソ兄貴の声が落ちてくる。何を言ってるんだろうこの人は。
「嫌なのは、お兄ちゃんでしょ」
「嫌だったら、誘わない」
「あたしだって、最初は楽しみにしてたよ」
夜のどこにでもありそうだけど知らない公園。周りには誰もいない。隣にはいつもこんなに近くないクソ兄貴。だから現実じゃないみたいで、お互い変なことを言ってる。それにしがみついているからクソ兄貴の顔は見えないしクソ兄貴にもあたしの顔を見られない。
「お兄ちゃんは、あたしに嫌がらせするために誘ったんじゃなかったの?」
「んなことに時間を使えるかバカネ」
「じゃあ、なんであんな映画」
「好きなんだよ。悪いか」
「あたしは好きじゃないもん」
もっと大人になりたいのに、クソ兄貴に甘えたくて大人になれない。何だか悔しくて腕を解いてクソ兄貴から体を離したら、右手を握られた。
クソ兄貴の手は、いつも温かい。
「離してよ」
昔は手を繋いでくれなかったクソ兄貴。
時々わからなくなる。クソ兄貴はあたしのお兄ちゃんで、家族で、他人。
「お兄ちゃんのバカ!」
込み上げてきた怒りに任せて振り上げた左手は、案の定クソ兄貴にぶつかる前にクソ兄貴につかまれて動かせなくなる。
涙の向こうでクソ兄貴があたしを見ている。怒っているのか呆れているのか、ただあたしを見ていた。
「楽しみに、してたのに……っ」
目に溜まった涙がまた落ちていく。
「外に出られるのを?」
あたしは首を横に振る。クソ兄貴をつけ上がらせるだけだってわかってたけど溢れてくる感情を抑えられなかった。
「お兄ちゃんと、出かけるの!」
本当に嬉しかったのは、外に出られることじゃなくてクソ兄貴と一緒に出かけられること。認めたくなんてないけど、嬉しいと思ってしまった。
「茜」
涙でクソ兄貴がどんな顔をしているのか見えない。でもいつもよりやさしい声に聞こえた。
左手は離されて、でも右手は握られたままクソ兄貴にハンカチで涙を拭われる。あたしはしゃくり上げながらクソ兄貴にされるままになっていた。
ずっとクソ兄貴に甘えたかった。やさしくしてもらいたかった。
――だったら、もう少しだけ、お兄ちゃんでいて。
あの日、今と同じように手を繋いだクソ兄貴に言ったことは言い訳のしようもないくらいの本心だった。
昔は大好きだった。大嫌いになった今もあたしはクソ兄貴にお兄ちゃんでいてほしくて、でもクソ兄貴はうっとうしい妹なんていらないんだろう。
あたしの涙を拭き終わったクソ兄貴に、頭を撫でられた。
眼鏡のレンズの向こうのクソ兄貴の目は笑ってなかったけど、あたしにはやさしく見えてしまった。
「帰ったら何か作れ」
声がやっぱりやさしく聞こえたからあたしはうっかり頷いて、それから何となく、クソ兄貴とあたしは似ているのかもしれないと思った。
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