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十月三十一日
「お邪魔します」
「どうぞ」
数学で難しい宿題が出て、神くんに一緒にやろうって言われて学校帰りに神くんの家。
「飲みもの何がいい?」
「あ、お、お構いなく」
「じゃあ、先宿題片づけようか」
神くんと二人きりだって、余計なことを考えて現実逃避をしながら問題をひたすら見つめていたら、わたしの手が全然動いてないことに気づいた神くんが笑った。
「難しい?」
頷いて、神くんの手元を見たら綺麗な数式が並んでいた。
「もう、できたの?」
「前にやったことのある問題ばっかだから」
神くんは、問題の解き方を丁寧に教えてくれた。
すぐに理解できない自分の頭に焦ってますますわからなくなったわたしを、神くんに知られたくなかった。
でも神くんは呆れずに、少なくともそういうのは顔に出さずに教えてくれて、問題を全部解き終えたときには思わず息を大きく吐き出した。
「ありがとう」
「ん。お茶、入れてくるね」
「あ、あの」
「ん?」
宿題が難しすぎて忘れかけていたことを思い出して、立ち上がろうとした神くんを呼び止めてしまった。
本当は言えないはずだった言ってみたいこと、言うチャンス。このタイミングが多分一番いい。
「お」
「お?」
「お菓子をくれないと、いたずら、しちゃう、ぞ」
途中から恥ずかしさの限界を超えてそれでも声はどうにか最後まで出た。なんで言おうと思ったんだろう。なんで言っちゃったんだろう。
よく考えたら、お菓子の催促、してるみたい、じゃなくて実際に催促してるんだ。顔が熱い。
「ん」
随分長く感じた沈黙の後、神くんはそれだけ言って席を立った。笑ってもくれなかった。恥ずかしすぎて、スカートの上から太ももに爪を立てた。痛みだけじゃ恥ずかしさは消えなかった。
「はい」
何事もなかったように戻ってきた神くんがわたしの前にミルクティーを置いてくれた。
「ありがとう」
わたしも何事もなかったようにお礼を言った。つもり。
神くんが座るのを待っていただきます。
一口飲んで、ほのかな甘さに幸せを感じて、気づいた。お茶のとき、神くんはいつもお菓子を用意してくれる。でも今日は、それがなかった。たまたまならいい。いつも悪いなって思ってたから。でも。
恐る恐る視線を神くんのほうに向けた。
「いたずら、して」
神くんの楽しそうな笑顔を見られるの、嬉しいのにおなかが痛くなった。
お菓子を貰えないパターンなんて考えてなかった。ちょっと言ってみたくて、それで、神くんがちょっとでも笑ってくれたらいいなって、思っただけなのに。
いたずらって何をするもの?
いたずら、いたずら。
テーブルの端に寄せられたノートに目がいった。ノートに落書きは、多分いたずら。シャーペンで書けばすぐに消せる。よし。
ノートに伸ばした手を、掴まれた。神くんに。
「落書きするなら俺にして」
右手に神くんから借りたサインペン。テーブルに置いた左手には神くんの右手。
神くんのてのひらに、落書き。
神くんに触れているところが熱い。神くんの手、本当はずっと触っていたかったし見ていたかったけどそのままだと火傷してしまいそうで、何より神くんの手がわたしの手の汗でべたべたになってしまう前に離さないといけない。
急いで小さい子が描くみたいな花の絵を描いた。
描き終わったらすぐに神くんの手を離した。急いだつもりだけどそれでもわたしのてのひらはすでに汗で湿っていた。
神くんはわたしの描いた下手な花を楽しそうに見ていたからよかった。いたずらされるの好きなのかな。
「神くんだったら、どんないたずら、する?」
思わず訊いたら。
「知りたい?」
頷いたら、いけない気がした。そういう笑顔だった。だから我慢した。
「今は、いい」
「じゃあ、今度ね」
神くんはやっぱり楽しそうで、わたしは嬉しかったけどおなかが痛かった。
帰るとき、神くんがおみやげにってかぼちゃのタルトをくれた。
その夜、宗太郎さんが突然うちに来た。
「お菓子をくれないといたずらする」
「え」
お菓子。神くんにもらったかぼちゃのタルトはもう食べてしまった。おいしかった。
そうだ、おせんべいがあった。台所に向かう途中、昨日最後の一枚を食べたことを思い出した。神くんがお菓子をたくさんくれるから、甘いものは自分では買わないようにしていた。だから、あげられるお菓子がない。
それでもどこかに何かあるかもしれないと思って台所でお菓子を探していたら、いつの間にか宗太郎さんが後ろに立っていて叫びそうになった。
「な、何」
「お菓子」
「今から何か買ってく――」
「ないならいたずらする」
宗太郎さんが両手をわたしのほうに伸ばした。逃げようと後ろに下がったら流しにぶつかった。
「や、やめ」
宗太郎さんの攻撃を防ごうとしたわたしの両手は、宗太郎さんの両手に掴まった。
掴まれた手首は痛くないけど熱かった。
二人に触れられるところはいつも、火傷しないのがおかしいくらい熱くなる。
「あんたは」
宗太郎さんがわたしの左耳に口を寄せた。
「こういうイベントごとが好きなの」
耳に息がかかって、宗太郎さんの声が直に鼓膜に響いて思わず肩を竦めた。
「好きとか、嫌いとか、考えたことない、けど。宗太郎さん、は?」
「好き」
息をのんだ。
違うってわかってるのに、わたしのことを言ってるわけじゃなくて、わたしがおかしくなっちゃうの宗太郎さんは知ってていたずらでわざとそういうふうに言ってるって、わかってるのにわたしの体は勝手に宗太郎さんに言葉に反応する。
「孝太郎が」
宗太郎さんがやっと少しだけ離れて、わたしは宗太郎さんを見上げた。
「謝っといてだって」
「何、を?」
神くんに謝られるようなこと、何かあったっけ。
「今日のこと」
思い当たるのは一つだけ。あったのに、出てこなかったお菓子。
「あ、あれは、わたしが変なこと、言ったからで」
言われて、神くんのほうが困ったのかもしれない。
「気にしてないならいい」
「……うん。あの、わたしもごめん。神くんのこと、困らせて」
「俺に謝るな。そもそもあれで孝太郎が困るわけねえだろ」
不機嫌そうに宗太郎さんが言った。
(あれ)
そこでやっと気づいた。宗太郎さんは、わたしが神くんに言ったことを知ってるって。
気づいたら宗太郎さんのせいで熱い顔がもっと熱くなっていった。
「ハロウィンとか、今まで全然気にしたことなくて、でも、今年は神くんと宗太郎さんがいて、だから、浮かれて」
ごめん。
馬鹿女って、動いた宗太郎さんの口が近づいてくるのを見た。目をぎゅっと閉じて口も閉じて息を止めた。宗太郎さんに掴まっているのは両手だけで、顔は動かせるから背けるだけで逃げられるのに、そうしようとしなかった自分がどうしようもなく恥ずかしくて、宗太郎さんにそのことを気づかれているかもしれないのも唇が一瞬触れ合ったのも何もかも恥ずかしかった。
熱すぎてじんじんする顔を押さえたかったのに宗太郎さんはまだ手を離してくれなくてできなかったから、無意識のうちに額を宗太郎さんの肩に押しつけていた。気づいて慌てて離した。
宗太郎さんのほうは見られなくて、俯いて目を閉じた。
「ごめん」
「帰る」
手首から宗太郎さんの熱がなくなる。目を開けて、宗太郎さんの足が向きを変えて視界から消えていくのを見た。
見送らないと。
玄関に向かった宗太郎さんを追いかけようと、踏み出した右足にうまく力が入らなくてそのまま床に座り込んでしまった。
宗太郎さんが帰っていく音を遠くで聞きながら、あのまま、宗太郎さんから離れなかったどうなってたかなって考えた。すぐに離されてやっぱり帰っちゃったかな。それとも、まだ一緒にいてくれたかな。
宗太郎さんの体温を思い出しながらくっついたままでいるところを想像して、その勢いで唇に触れた熱も思い出して、それで心臓は大変なことになったけど寂しさは少し紛れた。
神くんがいたずらされるのが好きならどんないたずらがいいか一生懸命考える。宗太郎さんがお菓子が欲しいなら食べきれないくらいいっぱい用意する。神くんと宗太郎さんにどんないたずらをされてもいい。
だから、来年のハロウィンも一緒にいられますように。
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