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 うつせみ 11

 瞬きをした。
 我慢しようとか、思いもしなくて全然そんなつもりなくて、それが当たり前のことみたいに涙が落ちた。だから落ち着いたままでいられた。神くんも宗太郎さんも何も言わなかった。
 どれくらい経ったのか、宗太郎さんの手が止まった気配がした。もう動いていいんだって思ったからワイシャツの袖で涙を拭こうとしたら、その前に神くんの手が伸びてきた。
 そんなにやさしく拭われたら、余計に涙が出てくるよ神くん。
 ありがとうって、言ったつもりだったけど声がのどで引っかかってうまく出なかった。
 神くんの手が離れて、宗太郎さんがわたしの前にスケッチブックを置いた。
 虹色。最初に目に飛び込んできたのは色で、たくさんの色が混じって線になってわたしになっていた。
「きれ、い」
 十二色の色鉛筆は宗太郎さんが使うと魔法みたいになるんだ。
 宗太郎さん、凄い。
「不公平だって思う。宗太郎だけそんな絵描けるの」
 神くんがテーブルの上に置いた腕に顎を乗せてわたしを見た。
「神くんが描いた絵、見たい」
 目が合って思わず言ったら神くんは笑った。
「坂口さん結構酷い。宗太郎の後で描けとか」
「え、あの」
 酷いこと言ったつもりなかったから慌てて謝ろうとしたけど神くんは身を起こして笑ったまま続けた。
「いいよ。描く。坂口さんを」
 わたしの前にあったスケッチブックは今度は神くんの手の中に。
「描くからこっち向いて」
 わたしが頼んだことだから、体の向きを少しずらして言われた通りにした。表情をうまく作れなくて凄く変な顔になっている気がするのはいつものこと。
 神くんのほうを向いたけど神くんの顔は見られないからスケッチブックを支えている神くんの左腕を見た。
「神くんが描いた絵、見たことなかった、から」
 見たいって言った理由、訊かれてもいないのに言った。美術の時間、神くんはわたしの後ろの席で、どんな絵を描いているのかとか凄く気になるけど後ろを向けなくて今まで一度も見られなかった。
「俺の絵を見たいって言うの、坂口さんくらいだよ」
 そんなことないよ。声には出さないで答えた。神くんのことが気になる人は、きっとたくさんいる。
「坂口さん」
 呼ばれて、いつの間にか膝の上に落ちていた視線を持ち上げた。
「こっち見て」
「ごめん」
 勢い余って神くんの目を見た。
「そのまま動かないで」
 目を、逸らせなくなった。
 神くんの目がスケッチブックからわたしに向く度に、心臓がぎゅうってなって息がうまくできなくなった。
 わたしの絵、描いてもらいたいけどわたしのことは見ないでほしいって凄くわがままなことを思った。
「もういいよ」
 神くんが言ったから目を閉じて下を向いた。
「見る?」
 すぐに顔を上げた。
「うん」
 神くんにスケッチブックを渡される。
 神くんが描いた絵。
 黒一色で描かれたわたしは、間違いなくわたしだった。美化されているわけでもなく、わたしすぎて恥ずかしくなるくらいわたしだった。
「神くん、絵もうまいね」
「ありがと。宗太郎がいたから、絵を褒められたことってほとんどない」
 それから、宗太郎さんがスケッチブックをやぶって二人が描いてくれた絵をわたしにくれた。
「ありがとう」
 テーブルの上に並べて見つめた。神くんは夕飯の準備をするって台所に行った。宗太郎さんは色鉛筆でまた絵を描き始めた。魔法みたいに極彩色の花が紙の上にどんどん咲いていく。
 わたしの後ろのふすまは開いていて、台所の音がそのまま聞こえてくる。
 目を閉じて、音を聞いた。
 画用紙の上を色鉛筆が走る音。水が流れて食器がぶつかる音。包丁がまな板を叩く音。クーラーの風の音も蝉の声も時々外から聞こえてくる子供の声や車の音も、逃げ出したくなるくらい幸せで、幸せすぎて息をひそめて涙を落した。宗太郎さんの手が止まる気配はないからしばらくそうやって泣いた。
「なんでそんなに泣くの」
 宗太郎さんの手が止まっていたことに気づかなかった。慌ててワイシャツの袖で涙を拭った。
「幸せ、だから」
「だったら笑えば」
「ごめん」
 気が緩みすぎている。目の前で何度も泣かれていい気がするわけなかった。
「泣くの我慢されるよりずっといいよ」
 神くんの声が頭の上でした。
「コロッケ、あとは衣をつけて揚げるだけだから」
 神くんの笑顔に懲りずに涙が溢れそうになる。
「ごめん、わたし何も手伝わなくて」
「今日は坂口さんのための日だから。宗太郎なんかそもそも手伝うっていう考え自体がなくてさ」
 泣くの、我慢するなんて無理だよ。
「ごめ」
「そんなに泣きたいなら泣けば」
 そっけない言葉なのに宗太郎さんの声はやさしくて言われた通り二人の前で涙を落とし続けた。
 涙が止まったのは、神くんに頭を撫でられてびっくりしたから。
「泣いてるとこ見てたら笑ってるところも見たくなった」
 顔を上げて笑顔の神くんと目が合って、急には笑えなくてまた下を向いた。
「気分転換に外に出よう。ちょっと待ってて」
 神くんが立ち上がって、部屋から出て水を流す音が聞こえてきた。
「顔上げて」
 すぐに戻ってきた神くんの手には濡らしたタオルがあった。
「あ、ありがとう」
 タオルを受け取ろうとしたら、神くんがわたしの顔を拭き始めて反射的に目を閉じた。
「わ、自分で」
「いいからいいから」
 やさしく何度も目元や頬を拭われて、恥ずかしくてくすぐったくて変な気分。
「はい、終わり。行こう。宗太郎は?」
「行く」
 三人でお出かけ。近くにあるらしいコンビニへ。もしかして神くんがアルバイトしているコンビニなのかな。
 二人の後ろを歩く。神くんと宗太郎さんが並んで歩いているところを見るの初めて。三人でどこかに行くのも。
「坂口さん」
 少し歩いて神くんが急に立ち止まって振り返った。
「後ろを歩かれると宗太郎と二人で歩いてるみたいになって嫌なんだけど」
 神くんに言われてどうすればいいのかわからないでいたら、宗太郎さんがわたしのところまで戻ってきてわたしの右手を掴んだ。
「帰りは俺とね」
 神くんが前を歩いて、宗太郎さんとわたしは手を繋いでその後ろを歩いた。
 傾いてきている太陽にじりじり焼かれる。右手、火傷しそうなくらい熱い。顔は上げられなくてずっと神くんの足を見ながら歩いた。
 多分十分もかからないうちに住宅街を抜けて道路に面したところにあるコンビニに着いた。車通りも人通りも普通にあって、慌てて右手を引いた。宗太郎さんはすぐに離してくれた。
「わたし、外で待ってるね」
 もし神くんが働いているコンビニならつまり神くんの知り合いがいるということ。神くんも宗太郎さんも、わたしと一緒にいて周りからどう見られるかとかそんなこと全然気にしていない。気にしているのはやっぱりわたしだけ。
「……ん、じゃあ、宗太郎と待ってて。飲み物とか適当に買ってくるから」
 ごめんって言えなかった。
「馬鹿女」
 神くんが中に入ってすぐ、ゴミ箱の横に立っていたわたしから少し離れたところで宗太郎さんが言った。
「……わかってる」
 神くんにもそう思われてるかもしれない。でも、一緒にいてくれる。
 あ、駄目だ。鼻の奥がつんとした。
 今日のわたしは嬉しくても悲しくても蛇口をひねるよりも簡単に涙が出てきてしまう。
 下唇を噛んだ。
「お待たせ」
 しばらくして神くんが出てきた。両手は袋でふさがっていた。
「ちょっと買いすぎた」
 飲みものとかお菓子とか、いっぱい詰まった袋の片方を神くんは宗太郎さんに突き出した。面倒くさそうに宗太郎さんがそれを受け取る。
 神くんの開いた右手はわたしの左手に。
 それで、周りは見えなくなった。帰りは宗太郎さんの足を見ながら歩いた。

「夕飯までまだ時間あるし、先に風呂にしようか」
 神くんの部屋に帰ってきたら神くんが言ってお風呂の用意をしにいった。
 お風呂。
 今日はここに泊まることになって、汗もいっぱいかいて、だから別におかしいことじゃない。入れないほうが困る。でも、神くんのうちのお風呂。
「一番風呂は坂口さんね」
 お風呂の準備ができて、神くんがどこからか持ってきたものを渡される。お礼を言って、頭も下げた。ピンクのバスタオルとスポンジに、パジャマ。さらっとした生地。白地に暖色の小花柄で可愛い。間違っても男性用じゃなくて、わたしのために用意してくれたもの。リュックも一緒に持ってお風呂場へ。指輪はなくさないように外してリュックのポケットにしまった。
「シャンプーとかは置いてあるの使って」
「ありがとう」
 神くんが行ってから脱衣場の引き戸を閉める。
 小じんまりした正方形のお風呂場は、ぴかぴかできれいだった。わたしが掃除してもこんなにきれいにならない。神くんは本当になんでもできて羨ましい。
 神くんのうちでしかも神くんと宗太郎さんもすぐそこにいると思うと落ち着かなくて、急いで頭と体を洗った。神くんが使っているシャンプーやボディソープの名前を覚えた。少しずつ知っていることが増えていく。知らないことのほうがずっと多いけど。
 入っていいのかわからなくて迷ったけど思い切って湯船に浸かった。お湯に体を沈めて深く息を吐き出した。ずっと強張っていたのが解けていく感じ。温めのお湯、気持ちいい。
 曇りガラスの窓の外はまだ明るい。
 色々なこと、考えたいのに考えられないままのぼせそうになってお湯から出た。濡れたスポンジは持って出られないから水色のスポンジがかかっているところにかけた。
 タオルで頭と体を拭いて、リュックの中の宗太郎さんにもらった紙袋から、一番上にあった淡いピンクの下着を取り出した。
 お風呂で熱くなった顔がもっと熱くなった気がした。宗太郎さんが買うところを想像した。きっといつも通り平然としている。恥ずかしがる宗太郎さんは想像できなかった。
 サイズは、本当にぴったりだった。少なくとも今までわたしが着けていたのはサイズが合ってなかったんだってわかるくらいぴったりだった。
 サイズ。つまり、宗太郎さんはわたしの、知ってることになる。もしかしたら神くんも?
 洩れそうになった声を堪えてその場にうずくまった。どうしようもない恥ずかしさをそうやってなんとかやり過ごした。
 立ち上がってパジャマのズボンをはいて、タンクトップに手を伸ばしかけてやめた。汗、いっぱいかいたから洗濯しないと着られない。
 伸ばした手でパジャマを広げて気づいた。長袖。わたしがいつも長袖のワイシャツを着ているから、もしかしたら気を遣ってくれたのかもしれない。神くんが用意してくれたものだから多分そうなんだって思った。
 髪をもう一度よく拭いてバスタオルは頭にかけた。脱いだものは制服以外はリュックに押し込んだ。やっぱりシャワーだけにすればよかった。汗が噴き出てくる。タオルで顔を押さえた。
 神くんと宗太郎さんがいる部屋のふすまを開けたら、二人が同じタイミングでわたしのほうを向いた。クーラーの風の涼しさを感じる前に体温が上がった気がした。
「お、お風呂、ありがとう。さっぱりした」
「そっか、よかった。制服貸して。ハンガーにかけとく」
 神くんが立ち上がってわたしが渡したベストとスカートを壁にかけた。
「あと、ワイシャツとか洗濯するよ。すぐに乾くだろうし。明日着て帰るんだよね」
「あ、うん、ありがとう」
 リュックの中からワイシャツと靴下だけ出した。汚れたものを渡すのって、凄く恥ずかしい。
「あの、よろしく、お願いします」
「ん、これだけでいいの?」
 さすがに下着類は洗濯してもらうわけにはいかないし、他に洗濯してもらいたいものはなかったから頷いた。
「次宗太郎入る?」
「後ででいい」
 無地のノートにボールペンで何か描いている宗太郎さんは顔を上げずに神くんに答えた。
 神くんはわかったって言って、それからベッドの向こう側にあるベランダに出て洗濯機を回した。
 神くんがお風呂に行くと宗太郎さんはノートを閉じてしまった。何、描いてたんだろう。
「髪」
 立ち上がった宗太郎さんを見上げた。
「乾かすからこっち来い」
 ベッドの上に座った宗太郎さんの手には、どこに置いてあったのかコンセントに繋がれたドライヤーがあった。
 わたしも立ち上がる。テーブルの横を通ってベッドのところへ。
「ありがとう」
「違う。俺が乾かすから座って」
 ドライヤーを受け取ろうと差し出した右手の行き場がなくなった。
「いいよ、自分で乾か――」
「座れ」
 宗太郎さんの横、少し間をあけて背中を向けるように斜めにベッドに腰かけた。
 最初にタオルで頭を拭かれる。最後に行ったのがいつだったか思い出せないけど、美容院に行ったときみたい。
 なんだか気持ちよくてどきどきするのに落ち着く。
 目を閉じた。
 顔が熱くてたまらないのはお風呂上がりなのとドライヤーの熱風のせい。
 最後はくしで髪をとかしてもらった。宗太郎さんの手はずっとやさしい。凄く丁寧にとかしてもらった髪を右手で撫でてから宗太郎さんのほうを向いた。
「ありがとう」
「見せて」
 唐突過ぎて反応するのが遅れた。
「……何、を?」
「今日俺があげたやつ」
 今日宗太郎さんからもらったものは三つ。指輪と絵と、それから、下着。
 でも宗太郎さんの左手がパジャマの襟元にもぐって肩のストラップに触れたからどれのことを言っているのかわかりたくなくてもわかった。
 左手はすぐに離れた。触れられたところを押さえた。
「や、やだ」
「見たい。上だけでいいから」
「無理、無理、だから」
 首を横に振る。
「なんで。ボタン何個か外すだけで済むだろ」
「な、なんで見たい、の」
「確認」
 もしわたしが宗太郎さんに服をあげたら、サイズは大丈夫かとか、ちゃんと似合うかとか凄く気になるはずだから、多分これはそういうことなんだってやっと気づいた。
 下着を見せるなんて、ありえないけど、でも、今日貰ったばかりで新しくてそもそも宗太郎さんは買うときにもう見てしまっている。下着じゃなくて水着と思えば、平気。かもしれない。
「一瞬でも、いい?」
「いい」
 一番上のボタンを外した。二番目のボタンはすぐに外せなかった。もう一つか二つ外さないと、見せられない。見せる。下着を、宗太郎さんに。震えそうになっていた手が震えた。
 宗太郎さんは何も言わない。わたしのほうを向いているけどわたしを見ているのかはわからない。
 ちぐはぐな動きで二つ目のボタンが外れてそのままの勢いで三つ目のボタンも外してしまった。下にタンクトップは着ていないから前を少し広げるだけで見せられる。パジャマに両手をかけた。一瞬でいいのに、ボタンは外せたのにそこで手がかちこちに固まって本当に動かなくなった。
 宗太郎さん、もういいって言ってくれないかな。やっぱり見せるの無理って言ったらこれで終わりにしてくれるかな。
 ぐるぐる考えていたらパジャマを握り締めていた両手が温かくなった。
「え」
 宗太郎さんの両手に包まれたわたしの手を見た。それから少しだけ顔を上げた。宗太郎さんの口元が、笑ったみたいに見えた。宗太郎さんが何をしようとしているのかわかって、嫌だって言おうとしたけど間に合わなかった。宗太郎さんの両手がわたしの手ごと、途中までボタンを外したパジャマを広げた。思い切り。ボタン、外すのは二つ目まででもよかったかもしれないって、遠いところで思って言葉にならないものが洪水になってつま先から頭まで駆け巡っていく感じがした。

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