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一方通行
髪を結んでいた。後ろで一つに。ただ暑いとか邪魔だとか多分それだけの理由で。
首回りに黒がない。だけでこんなに変わるのか。
「髪、なんで」
ドアが開いてたっぷり数秒。おはようも返さずに言った。
「暑かった、から」
わかりきっている質問にわかりきっている答えが返ってくるだけの無意味なやりとりだった。それでも俺には必要だった。
「へ、変ならほどくね」
頭の後ろに回されそうになった右の手首を反射的に掴んだ。暑いはずなのに灰色のカーディガンで隠れている手首。白と黒のストライプのTシャツは多分半袖で、カーディガンの襟元が折れているから慌てて羽織ったのかもしれない。俺が来たから。
「駄目。変じゃない」
可愛い、と孝太郎なら言う。
「ありがとう」
俺は言わなかったのにそれでも嬉しそうに、はにかむように笑うから向かい合っているだけで行き場のない熱が溜まっていく。
一人の女に向うには大きすぎる衝動を常に抱えている俺も、ある意味爆弾。
靴を脱いで家に上がった。外と比べると少しは冷えた空気に息を吐き出して、横に並んで立ち止まった。
横にいる。少なくとも体だけは手の届くところにある。
「宗太郎さん?」
見上げてきた顔を見下ろした。視線がずれるのはいつものこと。
「電話だけじゃ全然足りないからどうにかして」
突然家に来た理由を聞かれる前に言った。
声を聞いたら顔を見たくなる。顔を見たら触りたくなる。触ったら抱き締めたくなる。抱き締めたらキスしたくなる。キスしたら体全部欲しくなる。体全部手に入れてももっと欲しくなるに決まっている。
そういう欲を俺も孝太郎も抱いている。あれも同じだったらよかった。いつもこっちが求めてばかり。たまに、不意打ちくらってやられるけど天秤が向こうに傾くことはない。
「どうにか、って」
「キスして」
ずれていた視線があちこちさまよい出した。
「な、何、言って」
「キスしたい」
大分譲歩してやった要求を受け入れられないのはわかっている。用意していたもう一つの要求を告げる。
「できないなら目、見せて」
「目、って、目?」
間抜けな問いに頷いて答えた。
「どっちがいいか選べ」
どっちかを選ばないといけないような訊き方をした。けど本当は選ぶ必要なんてない。どっちも嫌だと言われたらそれで終わる話。でも馬鹿女は馬鹿だから一つしかない選択肢を選ぶ。
「……じゃあ、目……?」
許可を得たから俯きかけていた顔を両手で挟んで俺のほうに向けた。
「わ、あの」
「こっち見ろ」
じゃないと見られない。
「え、ま、待って、やっぱり」
「目を逸らしたり閉じたりしたらキスする」
往生際が悪いから脅した。
それでやっと俺を見た目は一瞬でまた逸れた。脅した通りキスするか迷ったけど伏せられた目がこっちを向くのをもう少し待つことにした。
まつ毛が震える。焦れるくらいゆっくりと、それでも必死に目を合わせようとしているからめちゃくちゃにしたくなる。しないけど。
(伊織)
声にする前にあちこち寄り道していた視線がやっとこっちを向いた。
不安定に揺れて、でも今度はすぐには逸れなかった。
唇を噛み締めて、眉は寄って、俺を映している目には涙も滲んで顔だって馬鹿みたいに熱くて赤い。たかが目を合わせるだけの行為で。
一応見つめ合って、通じ合えた気になったのはただの錯覚。目を逸らさないようにすることだけでいっぱいになっているあれに他のものが入り込む余地なんてないのは明らか。だから俺も勝手に見る。一瞬の瞬きも疎ましい。
「も、もう、いい?」
顔を近づけて、今までちゃんと見られなかった虹彩を目に焼き付けようとしたら、震えた声が言って耐えられなくなったように瞼が下りた。
見たいものを隠された苛立ちはすぐに沈んだ。目を閉じたらどうなるか、ちゃんと言った。
開く気配のない目と同じようにきつく閉じていた唇に歯を立てて軽く噛んだ。驚いて声を上げようとしたのか開いた口をそのままふさいで舌を押し込んだ。
粘膜が触れ合って舌先から痺れていく。
キスの仕方なんて知らないけど、体が勝手に動く。欲しいものを求めるのに理屈はいらない。本能。これが。
「ん、ん……っ」
合わさっているところから苦しそうな声が洩れて拳に腕を何度か叩かれた。本気の抵抗には程遠いから無視した。
そのうち、息を止めていた馬鹿女の拳は余程苦しいのか本気の抵抗に近くなったけど、やっと鼻で息をすることに気づいて叩く代わりにTシャツの袖を握り締めてきた。俺だけが必死に求めていることに変わりはないけどそんなことが馬鹿みたいに嬉しくて腹が立つ。馬鹿女に感化されすぎ。
冷静なふりをしようとしている頭はとっくに役に立たなくなっていた。触れ合っているところがどろどろに融けて混ざってそうやって一つになるのもいいと思うくらい。
一方的に求めるだけでこれ。求められたら。
(死ぬ)
死ねないけど。死んだら全部なくなる。なくしてたまるか。
まだ全然足りないけど、離したくなんてなかったけど、これ以上体が勝手に動く前に離した。口だけ。顔を挟んでいる両手は離してやらなかった。さっきから変わらず赤くて泣きそうな顔を間近で見つめる。
「う、や……」
濡れた唇から意味のない声が零れる。
つつけば溢れそうな涙を溜めた目に俺が映る。
「そ、たろ……さん」
その目で俺を見るな。その声で俺の名前を呼ぶな。俺のことが欲しいわけじゃないくせに。
「まだ全然足りない。どうすればいいの」
「わか、わかん、ない」
溢れた涙を唇ですくった。ただの八つ当たりだから答えはいらない。
手を離したらすぐに俯いて全部遠くなる。それが惜しくて未練たらしく俺のじゃない熱を感じていたてのひらを、熱源から無理やり剥がした。ずっと俺を仰いでいた顔はやっぱりすぐに下を向いた。
「帰る」
帰らないともっと泣かせたくなる。孝太郎がいないのに。
引き止められたら帰れない口実ができるけどそんなことをする余裕があれにないのはわかっているから諦めた。
「バイバイ」
聞きたい声は返ってこなかった。
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