top - novel - MY GOD
- index -

 こんにちは

 この間見たばかりの、知ってるけど知らなかった顔を見つけた。廊下の向こうから歩いてくる。抱えてる教科書は多分化学ので、方向的にも化学室での授業の帰りっぽい。学年は違えど同じ学校だからすれ違う可能性はあるわけで、今まで気づかなかったのがちょっともったいない。でも今は顔見て、ちょっとだけだけど話したこともあるからもうわかる。名前は、えーと、えーと。
「坂口伊織! ちゃん!」
 呼んだ瞬間足が止まって肩を竦めて、下のほうを向いていた目を俺に向けてくれたのはそれから少し遅れてだった。
 話すには遠い距離だったから話しやすい距離まで駆けていく。廊下の端を歩いていた伊織ちゃんは足を止めて肩を竦めたまま石像みたいに動かなかった。だるまさんが転んだなんて言ってないのに。
 顔も強張ってる原因はよくわからない。この前教室で名前訊いたときもそう言えばこんなんだったっけ。名前。訊いたけど自己紹介してなかったそう言えば。
「俺、孝くん……神孝太郎くんの友達の久米っていうものです! この間会ったの覚えてる?」
 下向きの視線は俺のことを見てくれない。
「あ、の」
 でも大丈夫。この子は今俺でいっぱいなのがわかる。俺のために紡ぐ言葉を必死で考えてくれてる。
「お、覚えてます。こんにち、は」
「こんにちは」
 って、普段あんま使わないから何だか新鮮。ちょっと改まった感じ。
 せっかくまた会えたんだし何か話したい。何話そう。女の子に用もないのに話しかけるって、今までそんなにしたことなかった俺。そう思ったらちょっと緊張してきてやっとわかった。この子も緊張してるんだ。俺は一応先輩だし、男だし、そもそも知り合いでもないんだから緊張するのは当たり前。
 宗くんが描いた絵のこと、伊織ちゃんは知ってるのかな。一番訊きたいことだけど知らなかったら俺が言うべきじゃないことを言っちゃうのと同じことになるからうかつに訊けない。知らないはずの下の名前を知っている理由も説明できない。だからとりあえず。
「伊織ちゃん」
 名前を呼んだら何故か驚いたように顔を上げた。もしかしてなれなれしかった? でもいいや。
 目がしっかり合ったから笑った。笑顔は大切。って誰かに教えてもらった。言葉が少なくても笑顔で仲良くなれる。
 強張っていた伊織ちゃんの顔も笑顔に変わっていく。
 目は、すぐに合わなくなってしまったけど伊織ちゃんは凄く嬉しそうに笑った。
 本当に嬉しそうな笑顔だったから動揺した。
 これ、ちょっとまずいんじゃないの。そんな顔、俺に見せちゃっていいの。だって俺勘違いしちゃうよ。この子俺のこと好きなのかもしれないって勘違いする。
 伊織ちゃんは宗くんの好きな人で、あんな絵描いちゃうくらい好きで、俺の気のせいじゃなかったら孝くんもこの子のこと好きなはずで。俺でも気づいちゃうくらい好きなはずで。
 一人でも敵わないのに二人揃っちゃったらもうどうしようもない。
 だから俺のこと好きになる隙間なんてあるわけないんだって、一瞬の間にぐるっと考えて自分に言い聞かせた。
「えへ」
 どうしようもないこと考えちゃったのを誤魔化すためにもう一度笑顔。伊織ちゃんも笑顔。あ、今ちょっと良心が痛んだ。
 伊織ちゃんは、緊張してたから俺が笑ったのが純粋に嬉しかったんだ。それだけだ。
「何してんの」
 笑顔の伊織ちゃんの視線がはっきりと俺から外れて笑顔から驚いた顔になったすぐ後、声がして右肩がずっしりと重くなった。
 孝くんだって気づいたときには俺の右隣に孝くんがいた。
 爽やか笑顔なのに左手が怖いよ孝くん。
「坂口さん、ごめん、久米と話したいことがあるんだけどいい?」
 伊織ちゃんの目が迷うように動く。お願い、置いて行かないで。
「あ、あの、それじゃあ」
 俺の願いもむなしく頭を下げて逃げるように去っていった伊織ちゃん。
「何、してたの」
 爽やか笑顔は伊織ちゃん用だったのか。ただの、でも凄く綺麗だから迫力満点の作り笑顔が俺に向けられていた。
 手は離れたけど殺気は消えない。
「ちょっと挨拶を」
「しなくていいそんなもの」
 いつも俺に冷たい孝くんだけど、いつもがきんきんに冷えたジュースくらいの冷たさだとすると今はバナナで釘が打てちゃうくらいの冷たさだ。せめて伊織ちゃんがいてくれたら。
「……孝くんの好きな人って、やっぱり伊織ちゃん?」
 何となく訊けないでいたことをやっと訊けてすっきりした。
「なれなれしく名前を呼ぶな馬鹿久米」
 本人じゃなくて孝くんに怒られた。でも孝くんがそう答えるってことは、やっぱりそうなんだ。この間孝くんに助けを求めに行ったときちらっとだけ見た、伊織ちゃんに向けられた孝くんの眼差しを思い出す。目は口ほどにものを言うって本当だ。
「好きな子いるって聞いたときはホントショックだったけどあの子なら、二人が好きになるの、わかるなー」
「なんで」
 あれ、もしかして言わないほうがいいこと言っちゃった?
「えーと、何となく。それよりも伊お……あの子は知ってんの? 宗くんのこととか、孝くんのこととか」
「それを久米が知ってどうするの」
 これも言わないほうがよかったっぽい。って言った後に気づいても遅い。
 孝くんの笑顔は時と場合によっては何よりも怖いけどやっぱりあるほうがいい。笑顔を作る余裕もない今の孝くんはきっと俺の手には負えない。
「だって俺、二人の友達兼ファンだしー」
「だったら坂口さんに関わるな」
 気持ち悪いこと言うなって言われるかと思ったのに違った。
 俺は思わず孝くんの顔を見つめた。見上げないといけないこの身長差が時々ちょっと切なくなる。
「どうしちゃったの孝くん! そういうセリフはさすがの俺もどんびきだよー。そもそも言う相手間違ってるって。俺だよ? 孝くんが心配することなんて何も――」
「じゃあなんであんな楽しそうだったの」
 初めて見た。泣きそうな顔の孝くんなんて。
「な、何話していいかわかんなくて、そういうときは笑顔ってことにしてるから、あの子もそれにつられただけで、それだけだから本当に!」
「それだけで、坂口さんにあんな顔させられるんだ久米は」
「たまたまだってばー」
 どうしよう。孝くん、マジで落ち込んでる。
「坂口さん、久米のこと絶対好きだし、坂口さんには久米みたいなのがいいのわかってるから余計に嫌だ」
 孝くんが何か凄いこと言ってるのだけはすぐにわかった。
 好き。
 伊織ちゃんが俺のこと。
「男女関係ない『好き』だから勘違いするなよ馬鹿久米」
 俺が先走る前に釘を刺された。しかもさっきの孝くんは白昼夢だったのかと思わずにはいられないくらい、いつも通りの孝くんがそこにいた。何か悔しい。だからささやかな反撃。
「俺、宗くんが描いたあの子の絵に恋したよ」
 何度目かの片思いはほんの一瞬。でも、確かにあった。
 絵じゃない伊織ちゃんにも、もしかしたら恋をしていたかもしれない。
 俺だけでいっぱいになって、あんなに嬉しそうに笑って。
「あの子に俺のこと好きになってもらえたら幸せだろうなーって思う」
 俺の反撃なんて孝くんにはあっさりかわされてしまう。
「だから、俺たちは幸せ」
 ああ、孝くんも宗くんも凄いことを本当にさらっと言う。
「孝くんと宗くんが幸せなら俺も幸せ。二人のこと、好きだから」
「ん、宗太郎も俺も、久米のこと嫌いじゃないよ」
 今度こそ絶対気持ち悪いって言われると思ったのに。
 俺の頭をぽんと叩いて孝くんは去っていった。
 友達兼ファンとか言っちゃったけど、普段はうっとうしい絡み方しちゃってるけど、本当に俺にとって二人は神様みたいな存在でもあるから、そんなこと言われてそんなことされたら、震える。
「う、わあ……」
 見えなくなった神くんの背中を目で追いかけたまま、意味のない声を出して立ち尽くしていたら通りすがりの女子二人に何あの人きもいってこそこそ言われた。

- index -

top - novel - MY GOD