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 君追いし

 坂口さんがいる。学校沿いの歩道、数メートル後方。
 坂口さんは学校が終わったら掃除でもなければ時々図書室に寄るとき以外はすぐに帰る。
 虚しくなるからそんなに頻繁にはやらないけれど、たまに坂口さんに気づかれないように少し離れて歩いて一緒に帰る気分を味わっていた。今日もこっそりついていこうとして教室を出たところで久米の馬鹿に引き止められたから、坂口さんはとっくに帰ってしまったと思っていたのにどうやら今日は図書室に寄る日だったらしい。靴を履き替えていたら視界の端にいた。
 でも顔を向けたときに見えたのは逃げるようにトイレに入っていった後ろ姿だけで、学校ではやっぱり避けられるのだと痛感する。
 わかってはいても少しへこんで歩き始めた俺が後ろの坂口さんに気づくのに時間はかからなかった。
 下校時間、歩道は前も後ろも同じ制服や違う制服で埋まっている。何となく振り返ってそれに交じって一瞬見えた坂口さん。俺が坂口さんを見間違えるはずがない。
 俺を避けるつもりにしては近い距離。さりげなく数度確認した限りではその距離は縮まることがない代わりに広がることもなかった。
 坂口さんに尾行されているみたいだ。
 馬鹿なことを考えた途端勝手に緩んだ顔をどうにか引き締める。
 とにかく俺に用があるのかもしれない。ためしに横断歩道を渡ってすぐ、商店街の入口にあるコンビニに入ってみる。
 雑誌のコーナーを眺めながら外を見ると走って横断歩道を渡ってきた坂口さんが、コンビニの前で立ち止まってしばらく辺りを見回してから斜向かいの文房具店に入っていった。
 俺がコンビニに入るところは見えたはずだからそこで待つつもりなのか。
 逃げられたと思ったのは気のせいで全部ただの勘違いで俺に気づいてさえいなかったら本当に馬鹿みたいだと思ったけれど、コンビニを出て少し歩いたところにある雑貨屋で外に並んでいる商品を見るふりをして、慌てたように立ち止まってきょきょろして物陰に隠れようとしている坂口さんを確認した。とりあえず俺の存在には気づいていて、なおかつ俺には気づかれたくないらしい。
 俺を避けているのならもっと時間をずらして学校を出ればいいし、さっき俺がコンビニに入ったときに追い抜く時間は十分にあった。
 ああ駄目だ。やっぱり顔が勝手に笑ってしまう。
 右手で口元を覆って笑いをやり過ごす。
 何か用があってどこかで声をかけようとついてきているのか、それともどういう理由でかはわからないけれど本当に尾行しているつもりなのか。
 参考書を見るために入った駅前の本屋にも坂口さんはついてきた。目的の場所にはすぐには向かわず店内をうろうろする。わりと広くて姿を隠す場所がたくさんあるからばれないと思ったのか坂口さんがかなり近くにいたりして、でも隠れているつもりのようだったから逆にこっちがひやひやして気づかないふりをするのが大変だった。
 いっそのこと俺から声をかけようかとも思ったけれどタイミングを間違えると逃げられそうだからやめた。
 中学生用の参考書を手にとって中を見ながら視線を感じる。自意識過剰でもいい。坂口さんが俺を見ているところを想像する。
「あ、あのっ」
 坂口さんじゃない声が右耳に飛び込んできた。
 横を見たらいつの間にかおかっぱ頭にセーラー服の女の子が立っていた。近くの私立中学の制服だ。
 邪魔だったのかとどこうとしたらその中学生が顔を上げた。
「あの、と、時々、み、見かけてて」
 真っ赤な顔で見上げられて、嫌な予感。この感じには覚えがあった。例えば好きだとか、そういう類のことを一方的に告げられるときのような。
「それで、その、ずっと」
 電車で手紙を押しつけられたことはあっても、不特定多数の人が行き交う場所で面と向かって告白されたことはほとんどない。
 しかも今は坂口さんが見ている。声まで聞こえているかはわからないけれどういう状況か察するのは簡単だ。
 どんなに柔らかく断っても張りつめた糸のようなこの中学生を泣かせずに済む自信はない。
 今さら取り繕ったって俺が酷い人間であることに変わりはないけれど、坂口さんにはできるだけこんな場面は見られないほうがいいに決まっている。
「……っ、ご、ごめんなさい、やっぱり何でもないです!」
 突然勢いよく頭を下げた中学生は、俺が言葉を発する間もなく走り去っていった。
 とりあえず最悪の事態は避けられたことを把握して小さく息を吐いた。
 坂口さんは。
 さっきまでいたはずの少し離れた本棚のほうに視線を巡らすと、坂口さんの肩がちらりと覗いていた。

 電車に乗った。坂口さんは違う階段を降りて少し離れた車両に乗ったのが見えた。
 うちまでついてくるかもしれない。うちなら坂口さんが人目を気にすることはない。たくさん話したい。色々訊きたいこともある。それから、たくさん触りたい。
 坂口さんが足りない。
 坂口さんを抱き締めるところを想像する。どんなことを想像しても俺の頭の中の坂口さんはどうやったって本物の坂口さんには敵わなくてもっと足りなくなる。
 電車を降りた。同じように電車を降りた坂口さんと目が合った。
 乗るときにはあった階段がなくて、つまり俺と坂口さんの間に遮るものは何もなくて。
 あたふたと坂口さんがその場で回転している間に乗ってきた電車の扉は閉まり発車してしまう。それに気づいた坂口さんは呆然と電車を見送った。
「坂口さん」
 近づいて声をかける。びくりと肩を竦ませた坂口さんはしばらくしてから観念したように振り向いた。
「ご、ごめん、あの、わたし」
「うん、坂口さんがずっとついてきてたの知ってる」
 坂口さんの顔が見る見る赤くなっていく。
「ごめん」
 消え入りそうな声でもう一度。
「俺に何か用があるならうちに」
「用とか、別にあったわけじゃなくて、神くんがいたから」
 不安定な声で坂口さんが説明しようとする。
「ちょっと離れたところから、神くんのこと見てみたくて」
 坂口さんのことを一年も離れたところから見ているだけだった俺は、わざわざ離れて見たいと思う坂口さんの気持ちがよくわからない。
「離れたところから見ると何か違う?」
 訊くと声と同じように不安定な視線がさらに不安定になりながら、それでも坂口さんは口を開いた。
「神くんのこと、たくさん見られる」
 自分が凄いことを言ってるって、坂口さんは気づいているのだろうか。
「神くん、何してても絵になるね。ずっと見ていたかった」
 坂口さんは時々もの凄くストレートに突っ込んでくる。いつもそれをかわすことができなくて直撃をくらう。他意はなくて坂口さんの心からの言葉だとわかるから余計に、くる。
「ありがとう」
 他に言うべきことが何も浮かばなくてとりあえずお礼を言ってから。
「うち、来る?」
「でも、もうすぐ次の電車が」
「来て」

 断れなかった坂口さんは、ここに来るまでと同じように俺の後方を歩く。でもその距離はさっきよりもずっと近い。
 無理やり手を繋いで並んで歩くところを想像しながら、やっとアパートに着いた。
「お邪魔します」
 小さく言って靴を脱ぐ坂口さんの気配を背中に感じながら部屋のふすまに手をかける。靴を脱いだ坂口さんが俺のすぐ後ろに来る。坂口さんがすぐ後ろにいる。触りたい。少し、抱き締めるくらいなら。
 ふすまを開けずに坂口さんのほうを向いたら、驚いたように少しだけ後ろに下がった。
「な、何?」
 坂口さんを安心させるために笑顔を見せる。
 肩にかけていた鞄を床に置いて両手を伸ばして、坂口さんが逃げる前に捕まえた。
「や……っ」
 坂口さんの肩に腕を回して抱き寄せる。坂口さんが下ろしかけていたリュックが重い音を立てて足のすぐ近くに落ちた。緩い力で抵抗されて坂口さんが腕の中にいることを実感する。体温が熱い。
「やだ、駄目」
 坂口さんが少しでも落ち着くように頭を撫でようとしたら。
「汗臭いから離れて……!」
 その一言は効いた。もの凄く。だからすぐに腕を解いて体を離した。
「ごめん、そんなににおう?」
 思わず自分のにおいを確認しようとしたら坂口さんがぶんぶん頭と手を横に振った。 
「違う! 神くんじゃない! 神くんはいつもいいにおいで、汗臭いのはわたしで、神くんはいいにおいだよ!」
 真っ赤な顔の坂口さんに必死にいいにおいだと言われて、どんな顔をすればいいのかわからなくなった。
「わ、わたし、汗っかきで今も、だから」
 坂口さんが大分汗をかいているのは見ればわかる。顔が赤いのは暑さのせいもあるのだろう。
「別に汗臭くないし汗臭くてもいいよ」
 坂口さんの汗のにおいならむしろ興奮しそうだとは、さすがに言えない。
 スカートのポケットからハンドタオルを出して汗を拭おうとした坂口さんの手が止まる。
 口元をハンドタオルで押さえて、視線は俺から外して。
「神くん、やっぱりやさしいね」
 くぐもった小さな声は、どんなに綺麗な音よりも耳に心地よく響く。
「……本屋さんで」
 坂口さんはハンドタオルを両手で握り締めて、少しだけ顔を上げた。
「本屋さんでセーラー服の女の子が、神くんに話しかけてたの、見て、あ、何話してるのか全然聞こえなくて、それで」
 ふらふらする視線を追いかける。
「も、もしかして」
「告白、するつもりだったのかもね。結局何も言わずに行っちゃったけど」
 坂口さんの視線が足元で止まる。
「気になる?」
「あ、の、そういうの慣れてるのかなって」
 そっちを、気にするのか。あの中学生のことだったら、告白されても断るとはっきり言えたのに。
「慣れてるわけじゃないけど、今までに何度かあったから」
 何度もあった。その度に相手を必要以上に傷つけた。
「俺、全然やさしくないよ」
 坂口さんには言うつもりのなかったことが勝手に口から出てきた。
「全部、酷い断り方した。坂口さんがいなかったら本屋でもあの子に酷いことを言ったかもしれない」
 坂口さんの視線がまた動く。こんなことで嫌われるとは思わないけれど、多少なりとも幻滅されるのは確かで、だから坂口さんの口が笑ったように見えたのは最初見間違いだと思った。
「ごめん、わたし酷いこと、思った」
 声が震える。
「神くん、告白されても全部断ったの、嬉しいって、思っちゃった」
 泣き笑いのような表情を浮かべた坂口さんを、抱き締めたらそのまま何もかも壊してしまいそうだったから両手をきつく握りしめて堪えた。

 好きです。君のことが好きで好きで、世界が変わるくらい大好きです。

 一番伝えたい言葉は声にはならなかった。
「俺も、坂口さんがそう思ってくれて嬉しい」
 掠れそうになる声でかろうじてそれだけ言った。深く息をして、完全に俯いてしまった坂口さんの頭を見つめる。
 俺もこんな感情を抱かれていたのだろうかと今さら思う。もしそうなら、そうでなくても我ながら本当に、どうしようもなく最低な人間だ。
 坂口さんなら最低な俺も俺の中のどろどろした感情も全部、受け入れてくれるかもしれない。許してくれるかもしれない。何度も見る甘い夢。
 受け入れてくれなくても許してくれなくても、離すつもりはないけれど。
 どちらにせよ坂口さんはそこにいてくれる気がしたからいつか全部、知ってもらいたいと初めて思った。
 でも今はまだ坂口さんにはやさしい俺だけを見ていてほしいとも思うからやっぱりどうしようもない。
「坂口さん」
 呼びかけると坂口さんの頭が動いた。右足も僅かに下がった。
 宗太郎だったら、迷わずもう一度抱き締める。俺は迷う。
 迷って結局手は伸ばせなかった。
「冷たい飲み物、用意するから待ってて」
 俺を見上げた坂口さんはどこか安心したように微笑んで頷いた。ありがとうと動いた唇を見て、坂口さんには言えないことを想像して目を逸らした。

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