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 水面の月01

 渡り廊下の窓から何となく見上げた青い空がきれいだった。
 思わず足を止めて、落ちてしまいそうな錯覚に陥りながらぼんやり眺めていたら右肩を叩かれて現実に引き戻される。
「何」
 肩を叩いてきたのは同じクラスの岩崎だった。気がつけばすっかりクラスのはみ出し者になっていた私にもずっと変わらずに話しかけてくるほとんど唯一の友達。
 たまたま一緒になった図書委員でいきなり「目つき悪いね」と失礼なことを言ってきて第一印象は最悪だったけど、いつの間にか付き合いも三年目に突入していた。
「いや、何してんのかと思ったから」
「空、見てただけ」
「ふーん」
 それで行ってしまうものだと思っていた岩崎は私の横に並んで同じように空を見上げて大きなため息を一つ。
「お疲れですか、岩崎クン」
「お疲れですよ、高見沢サン」
 久しぶりに正しく苗字を呼ばれて驚いた。いつもタカミタカミと勝手に略して呼ぶから、岩崎の中ではすでに沢はないものになっていると思っていた。
 岩崎はまた大袈裟にため息をついた。
 ちょっと愚痴ってもいい? そう言われたら断れるわけがない。
「できるだけ短くね」
 いくらでも愚痴っていいよという本音は奥の奥まで押し込めて、わざと面倒くさそうに答えてみる。
「もうさあ、あの馬鹿兄弟の面倒は見きれんよ」
「馬鹿兄弟って、ああ、あれ? 神?」
 岩崎の幼馴染らしい双子を思い出す。岩崎とは一年のときはクラスが違ったけれど双子の一人、神宗太郎とは一、二年と同じクラスだった。いつもぴりぴりした空気をまとっていたから数人の友達以外からは無駄に怖がられていた。私も最初はあまり近づかないほうがいいのかとか思っていたけれどあの人は仏頂面をしているだけで、普段はえらく静かな人だった。怖いと言うのならむしろもう一人の神のほうが私は怖かった。岩崎といるところを何度か見たことがあるだけで言葉を交わしたこともないその人の、例えば笑顔とか。どうとでも受け取れる、見る人によって受ける印象が全然違うような笑い方だった。それくらい何もない笑顔を作る人だった。そう思う私が捻くれているだけなのか。
「あの人、いないと思ったら学校やめちゃったんだってね」
「あいつ、妙なところで思い切りがよすぎるから。諦めるの早いっつうか」
「眼鏡じゃないほうもやめたんだっけ?」
「そっちは留年。兄弟揃ってホント、何やってんだか」
 随分親泣かせな兄弟だ。
「で、その馬鹿兄弟がどうかした?」
「んー、あいつら、二人とも同じ子を好きになりやがって。最近それで色々あってさ」
「あー……それは大変そうだね」
 その一言で何となく状況はわかってひとまず同情。
「あ、もしかして、前に神宗太郎が美術で一番好きなものに描いたっていう女の子?」
「そう、それ」
 やけに後ろのほうの席がうるさかった美術の時間。勝手に耳に入ってくる会話を聞いて、興味がないふりをしつつ私も密かに驚いていた。実際にその絵をちゃんと見たことはないけれど、提出するときに神宗太郎が私の席の横を通って青い色が一瞬見えた。一瞬なのに今も覚えている。知っている色なのに初めて見たような、不思議な青だった。写真みたいな絵を描く人というイメージがあったから、あんな雰囲気の絵を描くことにも少し驚いた。
「あの二人が揃って好きになっちゃうってことは、やっぱりすっごい美人だったり」
「いや、何つうか、タカミと似たタイプで」
 とりあえず私は美人ではない。
「いや、でもやっぱ違うな。むしろ正反対か」
 一人で納得したらしい岩崎はそれでその話題を打ち切ったから私は気になったままで。
「そう言えばさあ」
 窓から入ってくる風に揺れた前髪を直しながら、思い切って口を開いた。
 一緒に空を見上げてる今なら、何でもないふうに訊けるかもしれない。
「もう新しい彼女できたの?」
 自分の声がやけに大きく響いて聞こえた。岩崎はないないと手を振って笑った。
「そんな次から次にできるわけないでしょうが。できたらタカミに言うし。今はひとりよ」
 いつも次から次にできるくせに。いつも一々報告してきて、私がどんな気持ちでいるか何も知らないくせに。
 よかった。なんて、口にはできないけど。苦しいことに変わりはないけど。
「そう、なんだ。この間、岩崎が女の子とひと気のないほうに行くの見たから、てっきり。凄く真面目そうな子だったし、今までと全然タイプが違ったから意外だな、と。二年だよね、あれ」
 岩崎は一瞬ぎょっとしたような表情を浮かべて私を見た。
「多分、それが馬鹿兄弟の好きな子」
 あれが。
「……それはそれで、びっくり」
 境界線がはっきりわかるくらい岩崎や神兄弟とは違う雰囲気で岩崎と一緒にいるところを見ても接点が想像できなかった。だからもしあの子と岩崎が本当に付き合っているのだとしたら、今までみたいに簡単に別れることはないのだろうと思って私は無駄な覚悟をしていたのだ。無駄な。無駄に、終わってよかった。
「だろ? ホント、あれのどこがいいんだか」
 そろそろ岩崎から離れないといけない。緩んできた涙腺を感じて息を吐き出す。
 こんなに近くにいても、岩崎はいつもとても遠い。
「私、行くね」
「昼飯は?」
「もう食べた」
「なんだ。久しぶりに一緒に食おうと思ってたのに」
 ああ、最悪だ。
「また、今度ね」


 岩崎と別れて五分後、私は何故か体育館裏にいた。一年の女の子三人に囲まれて。後ろは壁。あまり愉快な空気じゃない。三対一だしいざとなったら逃げる心の準備だけはしておこう。
「用って、何?」
「岩崎先輩と別れてください」
 いつまでもびびっていても仕方ないから開き直って問うと真ん中の、大きな丸い目が印象的な可愛い子が前置きも何もなく言った。私の知り合いに岩崎は一人しかいないからあの岩崎のことなのだろう。こんな嘘みたい状況、実際にあるんだなと他人事みたいに思った。とりあえず私と岩崎はただの友達だと誤解を解こうとする前に真ん中の子が続けた。
「一匹狼気取ってるうざい奴なんて言われてる人に、岩崎先輩は合わないです」
 どこからつっこんでいいのかわからなくてすぐに言葉が出てこなかった。
 一匹狼を気取っているつもりはないけれど協調性に欠けるのは自覚している。他人の輪をわざわざ乱すようなことはしないし必要なときは私もその輪の中に入るようにしていても、クラスメートからあまり好かれていないのはその空気から何となく感じ取っていた。岩崎にももっとうまくやらないとこの先苦労するぞと冗談交じりによく言われるけれど初対面の一年の耳にも入るくらい、私の知らないところで私の悪口を言われているとは正直思っていなかった。
 それよりも。
「なんでそんなこと言われなきゃなんないの」
 付き合っているいないは関係なく、私が嫌われ者でも岩崎がどう思っているかなんて岩崎にしかわからないのだから他人にとやかく言われる筋合いはない。
「どうせあんたが無理やり先輩につきまとってるんでしょ!」
 私がやっと返した言葉が何かに触れてしまったのか、内容はともかくさっきまで落ち着いて凛としていた声が急に荒らげられた。
 どうやらこの子は岩崎のことが好きらしい。そして何故か私を岩崎の彼女と勘違いしてる。それだけならまだ可愛いと思えるけど、わざわざ別れろと言ってくるなんて馬鹿じゃないだろうか。じわじわと苛立ってきた私は大きく息を吐いた。
「岩崎に彼女がいなくても、あんたみたいな馬鹿女と付き合うわけないでしょ」
 私は間違っても気が長いほうじゃない。加えて性格のきつさと口の悪さには定評がある。さすがに言い過ぎたかなと思った直後に左頬に衝撃を受けた。
「ふざけないでよ!」
 完全に頭に血が上った彼女が私の頬を叩いたのだと遅れて気づいた。他の二人はまさかそこまでするとは思っていたなかったらしく呆然と彼女を見ている。
 やられたらやり返せが信条の私は、とりあえず叩き返した。
「な、何す……!」
「ふざけてんのはそっちだろうが」
 頬を抑えながら大きな目を更に大きく見開いたその子には、それ以上何も言わせなかった。



 数日後、私はクラスで今まで以上に浮いていた。
「タカミが一年を引っ叩いたって噂、流れてるみたいよ」
 この間みたいに渡り廊下の窓から、今日は曇った空を見上げていた私の隣に並んで岩崎がわざわざ教えてくれた。
「あっそ」
 どうせ向こうが先に手を出したことは噂になっていないのだろう。先に口を出したのは私だけど。
「何かね、俺に近づくなって言ったとか」
「へえ」
「ちょっとは否定しろよ」
「くだらない」
「実際のところはどうなのよ」
 説明するのは面倒だし本当にくだらないけど。
「岩崎の彼女だと勘違いされて別れろって言われた」
「……それで?」
 私は一度岩崎を見やり、また空を見上げた。
「岩崎はあんたみたいな馬鹿女とは付き合わないよって言ったらいきなりびんたされたから、やり返した」
「あー、相変わらず。つうかやっぱ俺のせい?」
「そうかもね」
「……相手、一年なんだよな」
「そう、目がおっきくて可愛い。知ってる子?」
「もしかしたら、ちょっと前に告白してきた子かもしれない」
 声をかけてきたタイミング的に、私が岩崎と渡り廊下で話しているところを偶然見てしまったのだろう。普通に考えれば恋人同士には見えそうにないけれど、あの子にはそう見えた。それで、あんな馬鹿なことを。ふられても諦めきれずに。
「断ったんだ。意外。来るもの拒まずだと思ってた」
「まあ、そのときは彼女いたし」
「いなかったら付き合ってたんだ」
「俺だって別に誰とでも付き合うわけじゃねえからな」
「へえ」
「何かやたらと刺を感じるのは気のせい?」
「そりゃあ、ね。関係ないのに怒鳴られたりびんたされたりすれば」
「ごめん」
「謝んなくていい。岩崎が悪いわけじゃないのはわかってるよ」
 話しているうちに怒りが再びこみ上げてきたせいで、岩崎に対しても怒ったような言い方になってしまって自己嫌悪。自己嫌悪ついでに、これも言ってしまおう。
「私、やっぱり岩崎のこと嫌いだわ」
「え、何その流れ」
 嫌いだからもう近づかないで。
 そこまで言えなかった私はやっぱり卑怯だ。
 今思えば一目惚れだったのかもしれない。いきなり目つき悪いなんて言われてむっとしたのと同時に、岩崎の笑顔に目を奪われていた。
 幸か不幸か友達になれて、岩崎といる時間もそれなりに多かった。下手に仲が良くなったおかげで、馬鹿な私は岩崎と友達以上になれるんじゃないかと勘違いしていた。でもすぐに、岩崎に彼女ができたと嬉しそうな顔で報告されて私は岩崎の大勢いる友達の一人に過ぎないのだと思い知った。思い知ったから私も精一杯岩崎に彼女ができたことを喜ぶふりをした。
 岩崎と友達でいられることは幸せであり同時に苦痛でもある。いっそのこと何の関わりもないほうがよかったのかもしれないと思うこともあるけれど、結局今の関係をなくす勇気はなくてどうしようもない。
 もう、彼女の惚気話を聞くのは嫌。別れたと聞いて喜ぶ自分も、新しい彼女ができたと聞いて泣きたくなる自分も嫌。
 もし私が本当に岩崎の彼女だったら、きっとあの子にも酷いことは言わないでいられた。友達という立場にしがみついて岩崎の近くにいるから、あの子の気持ちと言葉に耐えられなかったんだ。
「機嫌直してよ」
「無理」
「タカミの言うこと何でも聞くからさ」
 何でも。
「本当?」
「本当。今わりとリッチだからそんなに高いものじゃなければ」
 そんなものはいらない。私が欲しいのは。
「じゃあ」
「おう」
 言ったら、何かが崩れてしまう。でも。
「もう、彼女作らないで」

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