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溺れる赤
手を伸ばした。身を竦められた。構わず抱き締めた。震えていた。
目が覚めた。
手探りで携帯を掴んで時間を見る。三時九分。夜中の。外はまだ暗い。なんでこんな時間に目が覚めたのかわからなくて起き上がった。
夢。あれが出てくるのは初めてじゃない。夢だったことに苛立つよりも夢でもこの手に抱けるのならそれでもいいと思うくらいには渇いている。
左を向けば孝太郎がベッドで寝ている。同じ顔。鼻をつまみたくなったけどやめた。どうせ孝太郎も目を覚ます。
携帯を開く。眩しさに目を細めてリダイヤル画面を出した。一番上は坂口伊織。名前を見るだけで妙な感傷を覚える。
「電話すんの？ こんな時間に」
「する」
やっぱり目を覚ました孝太郎が、横になったままうつ伏せになってベッドから身を乗り出してくる。
「出たら俺にも代わって」
「嫌だ」
「ケチ」
明日もあれに会えるくせに。
通話ボタンに添えた親指に力をこめた。少し遅れてからコール音が鳴り始める。
『……もし、もし』
十回鳴る前に震える声が聞こえた。普通電話がかかってくるような時間じゃない。しかも向こうはどこからの電話かもわからない。多分怖がらせた。
「俺」
安心させるような言葉なんて出てこなかったから諦めて一言。それでも効果はあったらしい。
『あ、う、宗太郎、さん』
「寝てたの」
『う、うん。宗太郎さんは』
「寝てた」
当たり前のことを確認し合って会話は途切れた。と思ったらすぐに。
『……あの、何か、あったの……？』
「こんな時間に電話したこと、あんたは怒んないの」
『え、あ、いや、びっくりした、けど、わたしも電話しちゃったことあるし、あの、ごめん』
質問には答えないで訊いたら謝られた。電話されるのは孝太郎で俺じゃない。けど。言わないでおく。
「夢にあんたが出てきた」
『あ……りが、とう』
ありがとうとごめんが多いのはいつものこと。いいのか悪いのかは知らないけど孝太郎がさっきから笑いをこらえている。
「会いに行く。今日」
『う、ん』
電話を切った。
「今日っていつ？」
「朝」
孝太郎に答えながら横になった。本当は今すぐ会いに行きたい。
「会いに来た」
家の前で電話した。朝の七時前。慌てた声が今から着替えるから待っててと言って電話は切れた。
十分待った。家の中から足音が近づいてきてドアが開いた。
「おは、おはよう」
嬉しそうだと、思うのは自惚れすぎか。
中に入って靴を脱ごうとしたら視線を感じて顔を上げた。
少しはねた髪の毛の先が濡れている。意味もなく左手を伸ばした。逃げられるかと思ったけど右足が一歩後ろに下がっただけでそれ以上は逃げなかった。
髪に触れる。
指先が溶ける。水彩絵の具を水に溶かす瞬間に似ていると思った。透明な水が濁る瞬間。
「口」
髪に触れて、耳に触れて、惚けたように俺を見ている目を見た。視線はどこかでずれて交わらない。
「ついてる。歯磨き粉」
口の端に僅かに残った白いもの。今キスしたら歯磨き粉の味になるのかとか、くだらないことを考えた。
顔が赤くなっていく。俯いて右手を上げようとしたのを途中で止めて左手で口をこする。ごめんと聞こえるか聞こえないかくらいの声が聞こえた。
口をこすっているあれの左手を右手でどかした。こんなに簡単に触ることのできる現実は夢よりもおかしい。
「な、何？」
両手でワイシャツの襟を掴んだ。第一ボタンは留めていない。襟が何か変だと思ったらやっぱりボタンが一つずれていた。
制服の黒いベストのボタンに手をかけた。指定のベストを着ている女子は俺のときもあまりいなかったし、今もそんなにいないはずなのに律儀に着ているのがらしくて笑える。笑わないけど。
濡れた髪の毛も口についた歯磨き粉もこれも、俺を迎えるために慌てたせい。
あんな時間に電話してこんな時間に押しかける自分がうっとうしい。それを許してあっさり受け入れる馬鹿女にも腹が立つ。のはただの八つ当たり。
抵抗される前にベストのボタンはさっさと全部外してワイシャツの裾を引っ張り出した。
ワイシャツのボタンに手をかけたところで止まっていた両手がやっと動いて俺の上着の袖を掴んだ。Ｔシャツ一枚で来てれば、腕に触れたのか。
「宗太郎さん！ 何、何、して」
「ボタン、掛け違えてる」
非力な抵抗は無意味。袖を引っ張られたままボタンを外していく。ワイシャツの下に灰色のタンクトップらしきものを着込んでいて舌打ちしそうになった。変な気をこれ以上起こさなくて済むのはいい。ことにした。ボタンを外すときに触れた胸の感触も、とりあえず今は忘れる。余計なものを着てはいてもいつもよりはっきり見える胸の形も、普段は隠れている肌の色も見えないことにする。今は。
目の前の馬鹿女は泣きそうな顔を真っ赤にして袖を引っ張って俺の動きを止めようとしている。本当に無意味。その間にボタンを全部留め直した。ワイシャツの裾はそのままにした。引っ張り出すのは簡単だけど戻すのは面倒くさい。
「終わり」
「……あり、がとう」
泣きそうな顔になりながらこんなときでも。口癖なのか、他に言うことが思いつかないのか、どっちでもいい。もぞもぞとワイシャツの裾をスカートの中に押し込むのを見ていたら上着のポケットの中の携帯が震えた。
時間を見たかったからポケットから出した。携帯を開く。七時七分。孝太郎からのメールは無視した。
「何時に家出んの」
「七時半、くらい」
携帯を開いたついでにカメラを起動した。絵なら死ぬほど描いてるけど写真は、四月に撮ったらしいクラスの集合写真を孝太郎が一枚持っているだけで俺は持ってない。携帯で撮ったのでも一枚くらいは持っているのも悪くない。
背中をドアにつける。今ならカメラを向けられていることに気づいていない。携帯の画面に映る、ずっと欲しかったもの。俺の目が携帯に向いているから油断しているのか、じっと俺を見つめる。俺を見ている。俺を。あの目が。
ボタンを押した。カシャリと作り物のシャッター音が響いた。すぐに保存して、無視したメールの返信代わりに孝太郎にも送ってやる。
突然響いた音に驚いたのか変な顔をしているあれに、撮ったばかりのものを見せてみる。
「今撮った」
携帯にカメラがついていることを知ってはいても実際に持っているわけじゃないからすぐには状況を把握できなかったのかもしれない。しばらく携帯の中の自分の姿を見つめてから、両手で俺の携帯を掴もうとした。けど俺が簡単に取らせるわけもない。両手が触れる前に高く持ち上げる。
「消して」
「写真、撮られるの嫌なの」
訊くとこくりと頷いた。確かに写真を撮られるのが好きそうには見えない。
「なんで」
「だって、写真だと変な顔がずっと残っちゃう」
「俺の絵もずっと残るけど」
「そ、宗太郎さんの絵は、だって、宗太郎さんの絵だから」
説明になってない。
「これも俺が撮ったけど」
「そういうことじゃなくて、宗太郎さんの絵は宗太郎さんが描いてくれて、きれいで、宝物で、写真はそのままだったりもっと酷く写っちゃったりするから」
あちこちに動く視線を追いかける。
相変わらず人に何かを説明するのが下手だ。言いたいことはわかるし俺も人のことは言えないけど。
「あんたも俺の写真持ってるだろ。消してほしいならそれ返せ」
啓太郎が勝手に作って渡したアルバム。
「……やだ。あれも宝物、だから」
めちゃくちゃにしたいと思うのはこういうとき。携帯を左のポケットに突っ込んで握り締めて衝動をやり過ごす。
どんな写真を選んだのか知らないけど、喜んでいたというのは本当らしい。
「なら、これも俺の宝物だから消したくない」
それでもう何も言い返してこなかった。
靴を脱いで勝手に上がる。俯いたまま固まったあれの横を通って階段かリビングか。
「……ま、待って、わたしの部屋は」
リビングに行きかけた足を階段に向ける。
「待って、駄目……！」
あれが俺の上着を掴んだのは階段を上りきってドアのノブに手をかけた後だった。遅い。
ドアを開けた。何度か入った部屋。今まで通りの、ものが多くて雑然としたあれの気配が満ちている部屋。
今まで見たのと違うのはベッドの上の乱れた布団と脱ぎっ放しになっているパジャマくらいだ。と思っている間に部屋に入ってきたあれが、慌てたように布団を直して拾い上げたパジャマを布団の中に押し込んだ。見られたくなかったのはそれか。
「今日は、何か用が」
教科書やノートが乱雑に重なっている机を背にして、俺とは全然関係ない方向を見ながら言う。
「ない」
用なんてない。会いたい以外の理由はない。
会いたかった。
欲しかった。
離れているときはずっと渇いている。
（伊織）
名前を呼ぼうとしてやめた。また泣かれたら困る。というのはただのいいわけで、呼んだら俺がどうにかなるかもしれないから。あれの匂いのする部屋で二人きり。邪魔者はいない。
開けたボタンは留めたくなかった。さっき見たばかりのいつもは隠れている肌の白さを思い出す。あの白を赤く染めたい。赤く。赤は血の色。赤は警告。赤は止まれ。赤は熱。頭の一部を占領し始めた赤を瞼の裏に見ても赤信号を見て止まるみたいには止まれない。
居心地が悪そうに動く頭を見ながら、懲りずに湧き上がってきた衝動をどこにやるか考えようとしたら夢と目の前の光景が重なった。
手を伸ばした。身を竦められた。構わず抱き締めた。震えていた。
目は覚めない。
衝動も消えるどころか膨れ上がる。腕の中で震える柔らかい体がそれを助長する。
俺を引き止めたのは上着のポケットの中で震え出した携帯。邪魔者はいた。
孝太郎からの電話なのは見なくてもわかる。しばらく震え続けて、その間に赤が静かに沈んでいく。
「宗太郎、さん」
か細い声は頭の奥まで揺らす。過剰反応する体はどうにもできない。
髪の匂いに酔いながら耳元に口を寄せる。
「時間まで、このまま」
抱き締めるだけで、今は我慢するから。
両手が俺の体を押し返そうとしたけどやっぱり無意味だった。本気の抵抗じゃないから離さなかった。本気の抵抗をされても離せない。
渇きは癒えて今度は溺れる。
服越しでも熱すぎる体温を感じて、こんな感情は異常だと溺れながら思った。
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