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はじめまして
「孝くーん!」
いきなり飛び込んできた声が休み時間の教室のざわざわしていた空気を壊した。あと十分で終わる昼休み。一瞬で静まり返った教室中の視線が、前の入口に向かうのを感じてわたしも少しだけ顔を上げた。
上履きの色は青で、三年生だった。
こうくんって、孝くん?
その人は、入口のところで教室をぐるりと見回しているみたいだった。
「あ! そこか! 孝くん、助けて!」
教室に入って来る。つんつん頭もそうだけど、なんで違う学年の教室に平気で入れるの。わたしは隣のクラスでも入れない。友達とか、いたら平気なのかな。
教室に入って来た三年生はわたしの席の右側の、少し後ろで立ち止まった。知らない人がすぐそこにいる。落ち着かなくて机の下でスカートを握り締めた。そこで止まるということは、こうくんは孝くんで神くん。この人はわたしの知らない人で神くんの友達。
「一生のお願い!」
ぱん、って頭の上のほうで聞こえて、びっくりして机の上の筆箱だけ見た。
「数学教えて! 小テストでマイナス五点取ったら俺だけ変なプリント渡されてさー。それ今日の昼休みまでに出せって言われてたんだけど全然できてなくて」
マイナス?
「何したらマイナスになんの」
いつもとちょっと違う感じの神くんの声が気になったことを訊いてくれた。
「元々零点で名前書き忘れたらマイナスにされちった。で、お願いします!」
名前、書き忘れないようにしよう。
「……他の奴に頼めよ」
「三年の教室全部回ってきたけど駄目だった。俺にはもう孝くんしかいないんだー」
「……なんでこんなぎりぎりに」
「だって四時間目の数学のときにしのぶちゃんに言われるまで忘れてたんだもん」
しのぶちゃん。穂高しのぶ。穂高先生、三年生の授業もやってるんだ。
「……どれ」
「おお、さすが孝くん! やっぱり頼りになるう」
「いいから早く出せ馬鹿久米」
いつもとちょっと違う感じの神くんは不思議な感じ。こんなふうに友達と話す神くんはあまり知らないから、聞けて嬉しい。
「ちょっと待って、今出す……あああ! 教室に置いてきちゃった! どうしよう孝くん、取りに戻ったら間に合わないー」
声、大きくて心臓によくない。
「先生に土下座でもして明日まで待ってもらうとかすれば」
「おお、さすが孝くん! その手があったか!」
ありがとうって何度も言って、その人はくるりと向きを変えて教室を出て行った。教室はしんとしたままで、わたしはスカートから手を離して机の上に置いた。
「って、ちょっと待った」
今出て行ったばかりの三年生が何故かまた戻ってきて、筆箱を手前に引き寄せて両手で握り締めた。見慣れない色の上履きがこっちに来る。こっちに来て、わたしの机の横で止まった。
「ねえ」
声、わたしにかけられたのかと思って心臓が跳ねたけど、そんなことあるわけない。深呼吸して落ち着こうと思って、息を吸う。吸ったのを吐き出そうとしたら手が。
わたしのじゃない手がわたしの机の右端に。なんで、なんで。
「ねえ、どっかで会ったことない?」
目が合った。わたしはずっと下のほうを見ていて、目なんて合うわけないのに目が合った。声かけられたの、わたしだった。
その人がしゃがんだから目が合ったんだって、遅れて気づいて目を逸らしておでこを見た。それからちょんまげが見えた。その人は赤いゴムで、茶色い前髪をちょんまげみたいに結んでいた。
「絶対どっかで会ってる思うんだけど」
この人に会ったことがあったら絶対覚えているはずだけどどんなに考えても会った記憶はなかった。どうしよう。
「名前は?」
「なま、えは、坂口」
答えられることを訊かれたから答えた。三年生で先輩なのに敬語を使えなかった。
「坂口……? やっぱどっかで……ああ! 思い出した! 坂口いお――」
「久米」
神くんの声が。
「時間」
「え、あ、やっべ!」
ちょんまげの人は黒板の上の時計を見上げて、もう一度わたしを見た。わたしはちょんまげが揺れるのを見た。
「ごめん、またね」
ちょんまげが視界から消えた。肌色が透けている白いワイシャツから目を逸らして筆箱に戻る。視界の端でちょんまげの人が教室から出て行くのが見えて、もう戻って来なかった。
またね。多分、わたしに言った。わたしは知らない人なのにあの人は何故かわたしのことを知っているみたいで、つんつん頭に初めて会ったときのことを思い出した。あのときもこんな感じだった。でも、ちょっと怖かったけどまたねって言ってもらえたの、嬉しい。
顔は、あまり見られなかったけど目が大きかった気がする。可愛い感じ。台風みたいな人。神くんの友達。
『今日、久米に会ったの』
夜十時の宗太郎さんからの電話。もしもしって言う前に訊かれた。
くめ。何のことかすぐにわからなくて、神くんの声がそう呼んでいたのを思い出して、やっとわかった。ちょんまげの人。
「あ、うん。神くんのところに来て、わたし、知らないのに、あの人、わたしのこと知ってて」
『俺が描いた絵、見たから』
宗太郎さんの絵。一番好きなものにわたしを描いてくれた絵。今はわたしが持ってる。一生の宝物。あの人も、宗太郎さんの絵を見たんだ。神くんの友達で宗太郎さんの友達。
目とちょんまげを思い出す。近くて、少しどきどきした。
『坂口さん?』
急に神くんの声がして、びっくりして丸くなっていた背中が伸びた。
「神くん」
『今日はごめん。久米が来るとは思わなくて』
「何か、凄い人だった」
『坂口さんもやっぱそう思う?』
「うん」
わたしのこと、真っ直ぐ見て、多分笑顔で、またねって言ってくれて、きっと宗太郎さんの絵のおかげだけど、嬉しかった。
「いい人、だね」
『……ん、いい奴だよ。うるさいけど』
あんな友達がいていいな。
『また会いたい?』
会ってみたいけど会うのは怖い。会ってもわたしはうまく話せない。あんな明るい人に困った顔をさせてしまうかもしれない。
「神くんと話してるところ、見てみたい」
それならあの人は笑顔のままでいられて、わたしも知らない神くんと台風みたいなあの人を見られる。
『そっか……あ、ごめん宗太郎に代わる』
『俺は』
いきなり言われて、やっぱり何のことかすぐにわからなかった。
「あ、の、何が」
『見たいの、孝太郎だけなの』
神くんとしていた話。
今、神くんと宗太郎さんは一緒にいて、電話だから話すのは一人ずつだけど聞くのは二人一緒でもできる。神くんと宗太郎さんが耳をくっつけているところを想像した。
「じゃ、じゃあ、宗太郎さんも」
『じゃあ?』
宗太郎さんは、こういうの結構気にする。神くんだけに何かあるのが嫌なのかもしれない。
「三人で話してるところ、見たい」
今度は何も言われなかった。三人で話すとどんなふうになるんだろう。考えようとしたのを宗太郎さんの声に止められた。
『久米と二人きりで会ったりするな』
「二人きりで会うことなんて、ないよ」
あの人はわたしの友達じゃない。神くんと宗太郎さんの友達。
『会うなら俺か孝太郎がいるときにしてあんたはあんま話すな』
言われなくても、神くんか宗太郎さんがいなかったら会うことなんてない。話すことだってない。
宗太郎さんがそういうこと言うの、やきもちをやいているからだったりしたら嬉しい。
宗太郎さんがやきもち。うまく想像できなかった。そんなことを考えてしまった自分が恥ずかしくなって宗太郎さんに変に思われないように慌てて頷いた。
「うん」
今日の電話はそれで終わり。宗太郎さんにおやすみを言って神くんにもおやすみ。
今日も一日幸せだった。
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