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 揺れる記憶

 メトロノームの振り子が揺れる。
 黒のメトロノーム。ピアノの教室で少しだけ触ったときの感覚が忘れられなくて練習のためという口実で、昔母親にねだって買ってもらった。練習で使ったことは一度もないけど。
 ネジを回す感触と、カチカチ鳴りながら揺れる振り子をもっと感じたかった。
 振り子の速さが心拍と近ければ近いほど心地よかった。
 しばらくなかった感覚を思い出して目を閉じる。

 俺と孝太郎の七歳の誕生日に父親が電子ピアノを買った。息子の誕生日プレゼントという名目で自分が欲しかったものを買ったのは誰の目にも明らかだった。
 買った本人はもちろん、家族も誰もピアノを弾けなかったのに電子ピアノを衝動買いした父親は、数度めちゃくちゃな曲とも言えない曲を弾いて満足したらしくそれっきり電子ピアノに触らなくなった。
 電子ピアノは安い買い物じゃない。そんなものを衝動買いした挙句少し触っただけで放置した父親に母親は何も言わなかった。ただ埃をかぶるのはもったいないと思ったのか俺と孝太郎にピアノを習わないかと勧めた。
 手を動かすことは嫌いじゃなかったからピアノを習うのも悪くはないと思った。
 電子ピアノが気になって時々隠れて触っていた孝太郎も母親の提案を喜んで受け入れた。
 孝太郎は大抵のことは器用にこなすし練習を嫌がらなかったから上達が早かったけど飽きるもの早かった。それでも小学校を卒業するまでは続けた。俺は孝太郎より三年長く続けた。ピアノの教室では本物のグランドピアノを弾けたから。
 俺たちより遅れてピアノを習い始めた啓太郎は、消し去りたい過去となった初めての発表会が原因で一年でやめた。

 ピアノを習うようになってから始めた遊びがある。
 最初に八十八の鍵盤の一つ一つに三十六色の色鉛筆の色を当てはめていく。どうやっても色が足りないから重複するけど鍵盤自体全部使うわけじゃないし重なったら重なったでいい。当てはめる色はそのときの気分で適当に決めた。
 色を決めたら曲を弾きながら押した鍵盤の色を頭の中に浮かべた画用紙に走らせる。
 色が駆けて混じって新しい色が生まれる。色の洪水で頭の一部が満ちる。
 弾き終わったらそれを三十六色の色鉛筆で実際の画用紙に一音一音写していく。
 それなりに難しい曲や長い曲を弾けるようになったら一曲の音数が数千とかそれ以上になるから習い始めた頃ほど頻繁にはやらなくなった。画用紙で窮屈に感じるときは模造紙に写したりした。
 
 自分の手が見えないものを紡いで一瞬で消えていく感覚も面白かったけどこうすると刹那のものが形になって残る。残したかった。全部。

 電子ピアノは高校に入る前に壊れて今はもうない。
 メトロノームも見えるところに置いてはいたけど最後に動かしたのは一年以上前。
 久しぶりに動かしたのに理由なんてない。参考書を眺めるのに飽きたとか、そんな感じのただの気まぐれ。一年以上動かさなかったことにも別に理由はない。たまたまその機会がなかっただけ。
 メトロノームの音が響く。
 多色の記憶の後に溜まったまま出せないでいた苛立ちが泡のように浮き上がってくるのを感じる。
 苛立ちの原因ははっきりしている。
 我慢して手を出さないようにしている欲しいものが目の前にぶらさがっている。
 あれが泣くのはわかっているからこっちは我慢してるのに、あれは何もわかってないみたいな顔してその気がないのに誘うような真似をする。
 わざとなのか無意識なのか、孝太郎は悩んでたけどやってることに変わりはないからもうどっちでもいい。
 欲に任せて見たこともないあれの裸でクロッキー帳を一冊埋めたら余計に虚しくなったからそれ以上描くのはやめた。本物を見たい。
 遠くから見ているだけだった一年前のことを思えば少なくとも気持ちだけは通じ合ったはずの今はずっとましだけどそれとこれとは別で、むしろ中途半端に手が届く今のほうがつらい。
 あれがあれじゃなくてもっと普通の付き合い方をしていたらこんなに欲しくなることは、少なくともこんなに苛々することはなかったのか。考えるだけ無駄。
 中途半端に触れ合って熱だけ上がっていく。

 振り子と鼓動が重なって泡が弾けた。

 目を開けて左手で机の上のメトロノームを止める。音が止まる。
 同時に心臓も止まるところを想像して視界が歪んだ。
 メトロノームは本棚の上に戻してベッドに座った。枕の上に置いていた携帯を開く。二十一時五十九分。リダイヤル画面を開いて、時計が二十二時に変わったのに少し遅れて通話ボタンを押した。

『もしもし』

 声が耳の奥で火花みたいに散って渇きを忘れたのはほんの一瞬。
 毎日会えない代わりに声だけでも聞きたかったから僅かな時間の電話に縋った。
 声を聞くともっと欲しくなる。耳だけじゃ足りない。体全部であれを感じたい。
「今日は何かあった」
『あのね』
 孝太郎相手ならまだしも俺が相手で会話が盛り上がることはないし、あれが話すのも馬鹿みたいに些細なことだけど毎日本当に小さなどうでもいいことを、嬉しそうに話されるのは悪くない。あれが見ている世界を知って少しは近づけたような錯覚に陥るのもいい。
「あんたの体を見たい」
 会話が途切れて電話も切ろうとしたら募り募った願望が勝手に出てきた。
『え』
「裸、見たのを描きたい」
『あ、の』
「見せろ」
『む、無理! 絶対無理!』
 珍しく大きな声が返ってきた。
『人に、見せられるようなものじゃないし』
 別に本当に見られると思ったわけじゃないけど反応が面白かったからもう少し続けることにした。
「それでもいい」
『わたしは、よくない』
「なんで」
『だって、恥ずかしいし、嫌われたく、ないし』
 途切れ途切れの言葉は最後はほとんど聞こえないくらい小さくなった。
 想像の中のあれの裸は確かに実際よりも美化されてるかもしれない。けど。それとかけ離れていても欲しくなるに決まっている。本当に欲しいのは綺麗な体じゃなくてあれの体。
『だから、ヌードモデルなら、もっと、綺麗な人とかに』
 いつの間にかヌードモデルの話をしていることになっていた。今は、そう受け取られたほうが都合がいいのか。孝太郎みたいなことを考えて、終わり。
「おやすみ」
『あ、うん、おやすみ』
 無理やり打ち切った会話に戸惑うよりもほっとしたような声が返ってきて、終わり。
 あれと繋がらなくなった携帯と目を閉じて今日のやりとりを反芻する。
「馬鹿女」
 届かない言葉を吐き出して、纏わりついてきた寂しさを無理やり払った。

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