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矛盾と誘惑
今日は朝から雨だった。
雨は嫌いじゃないけど、ちょっと大変で蒸し暑いのも困る。
神くんに会うとき汗をいっぱいかいてるのは恥ずかしい。雨と汗をしっかり拭けるようにスカートのポケットとリュックのポケットに一枚ずつハンドタオルを入れた。
教室はいつも一番乗り。神くんは一緒だったりちょっと遅れてきたり。
今日は駅でも下駄箱のところでも一緒にならなかった。だから誰もいない教室で神くんが来るのをどきどきしながら待った。
待ったけど神くんは来なかった。神くんが来る前にいつも三番目に来る人が来てしまった。
一時間目が終わっても来なかった。
二時間目が終わっても来なかった。
三時間目と四時間目が終わっても来なくて、昼休みが終わっても来なかったら待つのはやめようって思った。
神くんが来ないと怖い。胸にぽっかり空いた穴が塞がらない。
お弁当、食べ終わってリュックを枕にして、顔を伏せて周りを全部見えなくする。
(神くん)
心の中で神くんの名前を何回も呼んだ。寂しいとか、余計なことを考えないようにいっぱい呼んだ。
呼んでいたらどさって、すぐ後ろで。多分鞄を机に置いた音。それからがたがた椅子を引く音がして、すぐ後ろは神くんの席。
(神くん)
「神くん、おはよー。今日は休みかと思った」
「はよ、何か目が覚めたのが昼近くで焦った」
神くんだ。神くん。
話しているのは多分、神くんの右隣の席の遠藤くん。
寝坊、したんだ。わたしもしたことある。風邪じゃなくてよかった。
「マジ? 俺だったら諦めてそのまま二度寝するなー。今日雨だし」
「去年休みすぎたせいでちょっと休むだけで先生がうるさいから」
「先生って溝口? そんなうるさいの? 何かあの先生緩いイメージしかないけど」
「意外と厳しいよ。そのことで反省文も書かされたし。始業式の日に提出しろって言われてたんだけどすっかり忘れてて慌てて書いたよ」
「へえ」
溝口先生。穏やかで、いつも温かくて厳しい感じはしないからちょっとびっくりした。
始業式の日に神くんがかりかり何か書いてたの、もしかして反省文だったのかな。
神くんを初めて知った日。思い出してどきどきして、勢いよく顔を上げてそのまま後ろを向いてしまった。神くんの目とぶつかってからどうしようって思った。後ろ、見るつもりなかった。二人きりの教室じゃないから後ろは向かないようにしようって思ってたのに。
顔、前に戻そうとしたら神くんの口が「はよ」って動くのが見えて、声はなかったけどわたしに言ってくれたのがわかって嬉しかった。
「おはよう」
小さく言ってから前を向いた。
神くんがいる。
嬉しい。
朝から降っていた雨は学校が終わって家に帰って来た頃には止んでいた。
制服を着替えて少し休んでから掃除機をかけて英語の予習をして、夜は肉野菜炒めを作った。
お風呂にも入ってあとは宗太郎さんからの電話を待つだけ。
当たり前のように過ごしている毎日はとても脆くて簡単に壊れてしまう。
こんなに幸せを感じてしまう今はきっともっと脆い。
十時ぴったりの宗太郎さんからの電話が今日は十時よりちょっと前にかかってきた。
『もしもし』
あれって思って出たら神くんだった。
「神くん」
『……今、坂口さんの家の前にいる。宗太郎の電話が終わるまで待ってるから』
ぷつりと電話が切れて、どうしようって思っているうちにまた鳴った。十時ぴったり。宗太郎さんからの電話。
「も、もしもし」
声が変なふうになってしまったのを、宗太郎さんは気づいてくれた。
『何かあったの』
「あ、今、電話、あって、神くんから。家の前にいるって」
『やっぱそっちに行ったのか。俺も今から行くから、孝太郎を家に上げるなら鍵は絶対開けとけ』
「え、あの」
もう一度電話がぷつりと切れた。
持っていた電話の子機は枕元に置いた。
宗太郎さんがうちに来る。神くんはもう来ているらしい。
お風呂上がりでパジャマだし髪、濡れたまま。どうしよう。肩にかけていたタオルで頭を押さえる。
とにかく神くんが本当にいるのかだけ確認しに行こうと思ってベッドから降りた。
ドアを開けたら本当に神くんがいた。制服姿だった。
「来ちゃった」
なんで、と思う前に嬉しいと思った。昼休みまで神くんが学校に来なくて怖かったのが嘘みたいだった。
「こんばんは」
「こんばんは。風呂上がり?」
「あ、うん。さっき入った」
濡れた頭を触って答えた。パジャマ、やっぱり恥ずかしい。
「そっか。上がってもいい?」
神くんが来てくれたのが嬉しかったから何も考えないで頷いた。
リビングの灰色のソファ。
左の端に神くんが座って、わたしは右の端に座った。
お茶とか、出したほうがいいのかな。
神くんはさっきからずっと前を見ていて何も言わない。神くんがうちにいるのって、やっぱり変な感じ。
変な感じで、気になっていたことを思い出した。
神くんは宗太郎さんにわたしのことを話す。遠足の班決めのこと、宗太郎さんは神くんから聞いたって言っていた。
話、兄弟でするのは普通で、でも今までほとんど意識したこと、なかった。神くんと宗太郎さんがわたしの知らないところでわたしの話をしているなんて。
どんな話をしているんだろうって考えてしまった。二人でわたしのことを笑っているかもしれないって、考えてしまった。
怖くなって神くんを見たら目が合った。
神くんはわたしを見ていた。
(神くんがわたしを)
顔が一気に熱くなる。心臓はもっとどきどきして息も苦しくなって、何故か目に涙が溜まる。
「坂口さん」
目を逸らした瞬間名前を呼ばれて、びっくりしてそのまま反対側を向いてしまった。
「な、何……?」
「今何か変なこと考えてる?」
「なん、で」
「そんな顔するから。坂口さん」
もう一度、今度は少し強く名前を呼ばれて恐る恐る神くんのほうを向いた。心臓、おかしい。神くんにも宗太郎さんにも、少しも慣れてくれない。
心臓のどきどきでいっぱいになっていたら神くんがわたしのほうにずれてきた。
「え」
神くんとわたしの間にあった空間がなくなった。ソファと神くんの間で動けない。立ち上がって逃げる前に顔を神くんの両手に挟まれた。
「何考えてるのか言って」
「や……っ」
目を閉じて逃げた。つもりだった。
「言ってよ」
目を閉じただけじゃ逃げられない。神くんの声が耳から入って奥を揺らす。
「神くんと、宗太郎さんが」
「ん、俺たちが?」
「わたしのこと、どんなふうに話すのかなって、わたしのこと、笑ってたらどうしようって」
神くんに触れられているのと恥ずかしいのとで、顔が熱くておかしくなりそう。
「坂口さん」
手が離れて、神くんがため息をつくようにわたしの名前を呼んだ。
「なんでそういう方向に考えちゃうかな」
目を開けたら、やさしく微笑んでくれている神くんがわたしを見ていた。
「好き」
真っ直ぐ見て、おはようを言うみたいに言って、神くんが言って、今。いま。
「好きだからいつも坂口さんのことを考えてる。宗太郎とも坂口さんのことを話すけど、坂口さんのことを笑ったりなんかしない。もっと自惚れてよ」
目を見てしまった。逃げたいのに逃げられない。いつも見られている。こんな目で。こんな目で?
「神く……っ」
離れたはずの手がまた戻ってきた。右手、わたしの耳に触れて、神くんの顔が近い。
怖い。
「や、いや」
神くんが何をしようとしているのかわかったから怖かった。だって、わたしなのに。行為自体も怖いけど、わたし相手にそんなことしようと思える神くんがもっと怖かった。
「やめ――」
「ごめん」
神くんの声と一緒におでこ、こつんと当たって、それだけだった。手が離れて、神くんが離れてほっとした。
(わたしは最低です)
誰かに言われる前に誰かに向かって言った。
ごめんって言わなきゃいけないのは本当はわたしのほう。
神くんはこんなにやさしいのに。好きって、言ってもらえて凄く嬉しいのに。わたしも好きなのに。
ほっとしたのは少しの間だけで、すぐに消えた。
離れてしまった神くん。ソファの肘掛けに頬杖をついて前を向いている。右手は膝の上。
あの目がさっきまでわたしを見ていた。
あの手が、わたしに触れていた。
好きな人。
もっと見てほしい。
もっと触れてほしい。
ずっと夢見ていたこと、いつも叶いそうになったら怖くなって逃げるなんて、わたし何やってるんだろう。
「神、くん」
「ん?」
最低なことをしたばかりなのに名前、呼んだら神くんは当たり前のように答えてくれた。
「今日、なんで」
まだ訊いていなかったこと。
何か用事があるからわざわざ家にまで来たはずで、電話じゃなくて直接会わないといけない用事って何だろう。
「会いたかったから、は理由にならない?」
パジャマのズボンを握り締めた。耳の奥が痺れる。
嬉しくてくすぐったい。
「本当はもっと、大人になりたい」
嬉しいのに何て返せばいいのかわからなくて何も答えられないうちに神くんが呟くように言った。
「いつまでもガキのまんまで、いい男になろうとか思っても何も変われてないし、何か坂口さんにはかっこ悪いとこばっか見せてる気がする」
「神くんをかっこ悪いと思ったことなんてないよ」
すっと言葉が出てきてた。視界の端で神くんがわたしのほうを向いたのが見えた。
「いや、色々……ん、というかこんなことを言ってる時点で駄目なんだよな」
神くんはまた前を向いた。
びっくりした。
神くんもそんなことを考えるんだ。
神くんもわたしみたいに、不安になったり悩んだりするんだ。
当たり前のことなのに、神くんが泣いたところだって見たことがあるのにわたしは自分のことでいっぱいでそういうのちゃんと考えようとしなかった。
神くんも宗太郎さんも、いつもわたしを助けてくれたのにわたしは何もしていない。いつも神くんと宗太郎さんに寄りかかって二人が何かしてくれるのを待つだけ。
今神くんは何だか元気がなくて、ここはわたしの家で、誰も見てなくて、神くんはやさしいから多分ちょっとくらい変なことをしたり言ったりしても忘れてくれる。
五秒前からカウントダウンしてゼロになったら何も考えずに勢いに任せてソファの真ん中にずれた。神くんとの距離が一気に近くなる。思ったよりソファが沈んで心臓が痛くなった。
「坂口さん?」
体ごと神くんのほうを向く。顔も上げて。目は、見られなかったから横に逸らしてしまった。
「神くんは今のままでも十分す、素敵だと、思う。それでももっとって、思えることも凄くて」
やっぱりうまく言えなくて途中で何も出てこなくなってしまった。
頭、撫でたりするのは失礼かなって思ったけど、出てこなかった言葉の代わりに右手を伸ばした。
震える右手で神くんの頭に触れて、何度か撫でて引っ込めた。神くんはわたしのほうを向いたまま動かなかった。どんな顔をしているのかは怖くて見られない。
「ごめん」
沈黙に耐えられなくてそれだけ言って、元の場所に戻ろうとしたら神くんの声に止められた。
「なんで、そういうことするの」
静かな声だったから余計に泣きたくなった。
「ごめん」
余計なこと、するんじゃなかった。わたしがされて嬉しいことを神くんも嬉しいと思うかなんてわからないのに。
「せっかく我慢できたのにこれじゃあ意味ない。坂口さん、わざとやってない?」
「わざとって」
何を。
自分の膝を見て考える。
我慢できたっていうのは多分、おでここつんのこと。何をしようとしたのか、もしかしたら勘違いかもしれないけど神くんはわたしが怖がったから、やめてくれた。
「だから、そういう可愛いことされると我慢できなくなるから嬉しいけど困る」
考えている途中で神くんがちゃんと説明してくれて、顔に血が上った。
神くんが言っていることと自分が結び付かない。
凄く変なこと、してしまったのに神くんは可愛いことって言ってくれた。嬉しいはずなのに頭がいっぱいでうまく考えられない。
「我慢できなくてごめん」
両肩を神くんに掴まれる。神くんの力に流されるまま神くんのほうを向いて神くんの顔が近づいてくるのがわかった。思わず顔を背けようとしたら目の前を何かが過った。
「我慢しとけ」
宗太郎さんの声。目の前にあるのは宗太郎さんの左手。
ソファの後ろに宗太郎さんが立っていて左手を神くんとわたしの間に伸ばしていた。
来るって、言ってたけどいつ来たのか全然気づかなくてびっくりして、神くんの手も離れたからソファの右端に寄って肘掛けを両手で握り締めた。
「もう少しくらい待てないの」
「待てるか」
宗太郎さん、いつからいたんだろう。もしかして神くんの頭を撫でたところも見てたのかな。
恥ずかしいとは別の感情が浮かんでくる。
罪悪感とか、そういうのは押し込めて見ないふりをしようとしてもどこかがちくちく痛くなる。
でも二人とも何でもないふうにしているからわたしもそうしないと二人はきっと困る。
ぐるぐる考えていたら後ろから頭を宗太郎さんに両手でがっしり掴まれた。
「な、何」
下を向いていた顔を上に向けさせられる。
「あんたも、嫌なら紛らわしいことすんな」
宗太郎さんの手の力が少し緩んだ。でも離れるわけじゃなくて嫌な予感。
「わ、待って、やめて」
慌てて止めようとしたけど遅かった。
宗太郎さんが両手を動かして髪がぐちゃぐちゃになる。濡れた髪が顔に当たってとっさに目を閉じた。
「何やってんだよお前」
神くんが止めてくれて、やっと宗太郎さんの手が止まった。ぐちゃぐちゃになった髪を慌てて手で直す。
「大丈夫?」
「うん、大丈夫、ありがとう」
神くんに答えて首にかけていたタオルを外して膝の上で握り締めた。
宗太郎さんは多分神くんを迎えに来た。だからもう帰る時間。お別れの時間。
「あの、もう、帰るんだよね」
「帰る」
神くんに訊いたら宗太郎さんに即答された。その後に神くんもうんって頷いた。
怖がっておきながらもっと一緒にいたいって思うのは、やっぱり都合がよすぎるのかもしれない。
玄関まで二人を見送る。
宗太郎さんにも会えて嬉しかった。
二人に会えた。それだけで十分。
怖いけど二人の体温を感じたいなんて、わがまますぎる。
心が凄く寄りかかってるから体も寄りかかるのが怖い。わたしを見られるのも怖い。でももっと欲しい。
「坂口さん」
靴を履き終わった神くんに名前を呼ばれていつの間にか下を向いていた顔を持ち上げた。
「今日はいきなりごめん。また明日」
「わたし」
バイバイってちゃんと言うつもりだったのに出てきたのは違う言葉だった。
「もっと、二人と一緒にいたい」
自分の声が音になって響いてから自分が何を言ったか知って、それからこんな言い方じゃ帰らないでって言ってるみたいに聞こえるって気づいた。
「あ、違う、あの、今ってわけじゃなくて、いつもそう思ってるってことで、あの、ごめん」
焦って言わなくてもいいことを言ってもっと恥ずかしくなった。空気が凍りついた気がした。どうしよう。
「ごめ」
もう一度ごめんって言おうとしたら左の頬を引っ張られた。神くんに。
全然痛くなくて本当に軽くつままれただけだけど、びっくりして思い切り神くんを見てしまった。少しだけ、怒ってる顔だった。宗太郎さんも、舌打ちされたから見なくても怒ってるのはわかった。でも怖くなかった。神くんの手はやさしかった。
「だから、そういうこと言われると坂口さんを離したくなくなる」
離さないで。ずっと、ずっと離さないで。
声には出せなかった。
好きな人がわたしのことを見てくれている。体の中がぞわぞわする。
この感覚に慣れちゃいけない。神くんの手が離れたら今度こそちゃんとバイバイを言おう。
「そのうち本当に泣かせるよ」
やさしい声で、神くんが。わたしはいつも泣いてる。神くんが何かしても何もしなくても勝手に泣く。二人がいなくなったらもっと泣く。それだけ。
神くんはわたしの頬をつまんだまま。
神くんの顔が近づいてくるのがわかっても逃げられなかった。目を閉じて奥歯を噛み締めて息を止めた。
唇の感触は一瞬だった。
「おやすみ」
声と一緒に神くんの手が離れて、ドアが開いて閉まる音を聞いてから息を吐き出して目を開けた。神くんがいたところに宗太郎さんが立っていた。
宗太郎さんの左手が伸びてきて手の甲がわたしの口を軽く擦った。
そのまま宗太郎さんに両手でまた頭をがっちり押さえられた。緩んだ握り拳をもう一度握り直して目もきつく閉じた。
「馬鹿女」
息を止めた瞬間、今度も一瞬やさしく触れていった。
目を開けたときには閉まったドアだけがあった。そこにわたしの駄目なところが全部映った気がして目を逸らした。
ドアを開けて神くんと宗太郎さんを追いかけたくなった自分が怖かった。
幸せな気分だけすくってどろどろの感情は必死に見ないようにして鍵とチェーンをかけた。
神くんと宗太郎さんはまだ傍にいてくれている。今はそれだけ。何も見ない。
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