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キズ
それじゃあ三人以上の班を作って班長を決めたら班ごとに教卓に置いたプリントに名前を書いて提出してください。
溝口先生が静かに言って教室がざわざわし始めて、おなかが痛くなった。
お弁当を一人で食べるのにはいつの間にか慣れたけど、こういう瞬間は少しも慣れない。
七月の、期末テストの後に遠足がある。去年はバーベキューで七人のグループに何とか声をかけて班に入れてもらえた。
今年は遊園地。バーベキューよりは遊園地のほうが楽でいいけど今年もどこかのグループに声をかけないといけない。
周りがどんどん動き始めるのを感じて、机の下で両手をきつく握り締めた。じっとしていたらわたしだけ残されてしまう。早く動かないと。
焦っておなかがもっと痛くなって、視線だけ横に向ける。左隣の席の周りに四人のグループができている。ばっちりお化粧してるってわけじゃないけどわたしと違ってちゃんと女の子って感じで、四人とも確か同じテニス部とかだったはずで、余計に声をかけにくい。でも後ろのほうを向いて他のグループを確認できない。
後ろは向けない。
だってすぐ後ろに神くんがいる。こんなところ、見られてるかもしれないと思うだけで怖い。お弁当を一人で食べているところも本当は見られたくない。
(神くんが見ていませんように)
必死に念じながら椅子が大きな音を立てないように気をつけながら立ち上がる。
左横にずれて、後ろは見ないように顔も少しだけ左に向けて、声を。
声をちゃんと、聞こえるように。
「あ、あの、辻さん」
隣の席の辻さんが友達と話していた笑顔のままわたしを見上げた。よかった。声は届いた。
「あの、わたしも」
「え」
あ、駄目だ。
最後まで言う前に辻さんの笑顔がなくなったのがわかって、消えたくなった。
「あー、えーと」
のどの奥が痛い。
辻さんは困って周りの友達に視線を向ける。わたしが困らせた。わたしがいたら駄目なんだ。
(わたしは駄目なんだ)
「俺も辻さんたちの班に入れてもらってもいい?」
声。誰の、とか、考えなくても体に響いた声に心臓が勝手に跳ねるからわかる。
(神くん)
一瞬嬉しくなったけどすぐに恥ずかしさで頭がいっぱいになる。全部、神くんは見ていた。わたしが声をかけたところも辻さんたちが困ったところも、全部神くんに見られてしまった。一番見られたくなかった人に。
「えーと、神くんはいいの?」
辻さんは神くんのほうに顔を向ける。
わたしのときとは違う困惑。ここで泣いたらみんなもっと困るから泣いたらいけない。わたしももっと惨めになるだけ。
「ん、坂口さんもいい?」
唇を噛んで涙を堪えていたらいきなり神くんに訊かれた。神くんは自分の席に座ったまま。わたしは少しだけ後ろを向いて、でも神くんのことは見ないで神くんの机を見て、何も考えないで頷いた。
「あ、あ、うん、わたしは、別に」
「じゃあ、うちの班は六人ね。班長はどうしよっか」
「まだ決まってないなら俺やるよ」
「ホント? ありがとー。二人の名前、こっちで書いとくね」
神くんと辻さんの会話を聞きながら、神くんがわたしも辻さんたちの班に入ったことにしてくれたんだって遅れて気づいた。
宗太郎さんからの夜十時の電話は毎日途切れることなくかかってくる。だから、もうかかってこなくなったらどうしようって、不安が一つ増えた。
でも今日は、かかってこないほうがいいなって自分勝手なことを思った。かかってこないほうがいいなって思いながら宗太郎さんに話すことを考えてしまう。
お風呂上がり、ベッドの上で電話の子機を握り締める。いつも十時ぴったりに電話がかかってくる。今日もいつもと同じだった。やっぱり嬉しかったのに、すぐに出られなかった。
「もし、もし」
『今、何してた』
宗太郎さんの声が体中に沁み込んでいくのを感じて、目を閉じる。
「お風呂から上がって、電話が来るの、待ってた」
『今日は何があった』
「日本史の授業、凄く眠くなって大変だった」
話すことはいつも本当にどうでもいいことばかりで、宗太郎さんには全然関係ないことだけど宗太郎さんはそれでもいいって言ってくれた。
「でも居眠りしないでちゃんと先生の話聞いたよ」
『一番前のほうが居眠りしても後ろの席よりは気づかれにくいんじゃないの』
「そう、かな」
会話が途切れる。
迷ってからもう一つの話題。
「あの、神くんに、お礼、ありがとうって、伝えてもらいたくて」
『そんなの本人に直接言え』
「ご、ごめ、ん」
わたしが調子に乗って寄りかかってしまいそうになったのを、宗太郎さんはちょっと押し返しただけ。言い方だって別にいつもと変わらない。怒ってる感じじゃなくて普通の言い方。だから、こんなので泣いたらおかしい。
『お礼って何の』
「え、あ」
宗太郎さんに訊かれてまた順番を間違えていたことに気づいた。
「今日、七月の遠足の班、決めてそのときに、神くんが、助けてくれて」
思い出したら宗太郎さんに押し返されて出てきていた涙がそのまま溢れそうになった。
神くんと宗太郎さんはわたしをとても甘やかしてくれる。
そのままのわたしをあっさり受け入れてくれる。
だからちょっと現実を忘れていただけ。勘違いなんてしてない。
現実。
わたしが人から疎まれるような人間だって、とっくに知られていてもあんなところを見られたくなかった。あの後神くんのことをまともに見られなかった。
恥ずかしくて、怖かった。
『その話なら孝太郎から聞いた』
「……え」
電話、放り投げて布団にもぐってしまいたかった。
神くんは、わたしのこと何て話したの。宗太郎さんはそれを聞いてどう思ったの。
「わ、わた、しのこと、やっぱり」
何を言えばいいのかわからないのに声だけが勝手に出てきて、電話を握り直して天井を見上げた。
『好き』
今度は声にならなかった。
『俺も孝太郎も他の誰があんたのことをどう思っているのかなんてどうでもいい。もし俺が誰からも嫌われてたら、あんたは俺を嫌いになるの』
そんなの、考える必要なんてなかった。
首を横に振ってから、電話じゃ意味がないって気づいて息を吸い込んだ。
「ならない」
わたしの絵を描いてくれたり、酷いことを言ったり時々やさしかったり、たくさんのものをくれたのは、他の誰かじゃなくて宗太郎さん。それに、誰かが宗太郎さんのことを嫌いだと言っても、それで宗太郎さんがわたしにくれたものがなくなるわけじゃない。でも。
「でも、わたしは元からいいところ、全然なくて、何もしてなくて」
辻さんの顔を思い出して、どこまでも舞い上がってしまいそうな気持を抑える。
あんな顔をされるのは、わたしに原因があるから。
わたしはいろんなことがうまくできない。できなくて逃げて余計に駄目になる。時々頑張れても空回りしかしなくて、自分にいいわけばかりしていた。
小学校や中学ではいじめられた記憶はないけど時々からかわれたり、多分陰でも何か言われたりしていた。今以上に周りも自分も見ていなかったから気づかなくて、直接的な言葉はなかったけどはっきり態度に出されて周りを見て、やっと自分がどういう人間なのか思い知った。
今までたくさんの人に嫌な思いをさせた。傷つけたこともあったと思う。そのときにはわからなくて、全部後になって気づいた。そうやって取り返しのつかないこともしてしまったのに、今もわたしはわたしのまま。
それでも神くんと宗太郎さんはわたしのことを見てくれた。わたしの駄目なところなんて何も見えないみたいに接してくれる。
信じられないようなことだけどそれは本当のことのはずで。
「宗太郎さんに訊きたいこと、あって」
面と向かっては無理でも電話なら訊けそうな気がして言ってみて、後悔した。
『何』
「あ、の」
訊きたいこと。訊けないこと。宗太郎さんが電話の向こうでわたしの言葉を待っている。
「わ、わたしの、どこが」
わたしのどこが好き?
自惚れているみたいで、そんなこと本当に口に出せるわけなくてちゃんと言えなかったのに、宗太郎さんはそれでわかってしまった。
『どこがじゃなくて坂口伊織が好き』
息を止めた。
『馬鹿なところもうざいところもそれがあんただから受け入れられる。前にも孝太郎が言ったけどちゃんと説明できるもんじゃないしなんであんたなのか自分でもよくわからない。きっかけは本当に何か気になるってだけだったから。遠くから見て雰囲気とかもっと気になって、実際に話してやっぱりあんたがいいと思った。あんたの目が好きとか声が好きとか一緒にいるときの空気が好きとか、そういうのがいいならそういうことにしとけ』
一気に言われて、頭よりも心臓が破裂しそうになった。止めていた息を吐き出した。どうしよう。
(どうしよう)
二人とも見えないわけでも、見ないふりをしているわけでもないのかもしれない。全部、全部、見えていて、わかっているのに、それでもわたしを見てくれているのかもしれない。
そうだったらいいなって思ってしまう。
わたしはこのままだとこれから先もうまく生きていけないってわかってる。自己嫌悪でどうしようもなくなるときだってある。でもこのわたしがわたしで、変わらないといけないって思うと自分を全部否定してしまう気がした。誰もわたしを好きになってくれないならせめてわたしだけはわたしを本当に嫌いになったりしちゃいけないって思ってたから、否定してしまうのが怖かった。
自分をちゃんと好きになれるような努力もしないで逃げてるだけだって言われたらその通りで、結局いつものいいわけでしかなくて、それでもいつかわたしを丸ごと受け入れてくれる人が現れてほしいなんてどうしようもないこと、夢見てた。夢。これは夢みたいな現実で、いつか覚めてしまう。
今目の前に宗太郎さんがいなくてよかった。泣きたいのか笑いたいのかわからなくてきっと酷い顔をしている。
『俺は言ったからあんたも』
「え」
『俺のどこが好き?』
一瞬何を言われたのかわからなかった。
電話の向こうにいるのは本当に宗太郎さんですか。
声のトーンはそのままなのに、絶対に宗太郎さんが言いそうにない言葉をまたあっさり口にして、電話じゃなかったらその場にいられなかったかもしれない。宗太郎さんは今どんな顔をしているの。
左手で作った握り拳で胸を押さえて考える。
わたしは宗太郎さんのどこが好き?
きっかけはやっぱりあの絵で、でもそれだけじゃない。
どこがって、答えるのは難しい。怖いところ。やさしいところ。宗太郎さんだから好き。宗太郎さんが好き。宗太郎さんも、こんなふうに思ってくれたのかなって考えたら、頭の中がぐるぐる回る感じがした。
ぐるぐる回って神くんにも同じこと、訊かれたのを思い出した。いきなりでびっくりして恥ずかしくてうまく答えられなかった。
「どこがじゃなくて、宗太郎さん……は前はわたしのこと、嫌いとか、言ってたのに」
今度もやっぱりちゃんと言えなくて、諦めて、恥ずかしさを誤魔化そうとしたけどうまくできなかった。
『今は言ってない。孝太郎いるから代わりたきゃ代わるけど。つか孝太郎が代わりたがってる』
「え」
急に話が変わって混乱した。神くん。電話を代われるってことは、すぐ近くにいるということ。今の恥ずかしいやりとりも、神くんは聞いていたのかもしれない。
『もしもし』
どうしようしか考えられないうちに神くんの声が。
「あ、う、ごめ」
謝りかけて、何を言わないといけなかったか思い出す。
「違う、ごめん、あの、今日はありがとう。神くんが声、かけてくれたから、わたしも班に入れてもらえて、なのにちゃんとお礼言ってなくて」
今日のこと、全部忘れてなかったことにしたいけど、神くんが助けてくれたのは事実で、恥ずかしかったけど嬉しくて、お礼を言わないといけない。
『ん、遠足楽しみだね』
やさしい神くんは何でもないふうにそれだけ言った。
「うん」
憂うつでしかなかった遠足。でも神くんのおかげで素直にそう思えた。
『坂口さん』
神くんはいつもわたしの名前をとてもやさしく呼んでくれる。もう一度目を閉じて、神くんの声をいっぱい感じて、心臓の音に混じって消えていってしまうのを追いかけて目を開けた。
「何?」
『あ、いや……電話、宗太郎に戻すから。おやすみ』
「おやすみ」
宗太郎さんにもおやすみを言って電話を切った。
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