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 長い夜02

 今日のことしか見えなかった頃は夜が好きだった。何だかわくわくした。自分が家や家族に守られていることを実感して安心した。
 明日のことを考えるようになったら好きなことに変わりはなかったけど夜が時々怖くなった。
 今もわたしは夜が怖い。ずっと怖い。小さな物音にもびくびくして、暗闇に浮かぶ見たくないことから必死に目を逸らして、無理やり楽しいことを考える。それでもやっぱり見てしまってどうしようもなくなったときは泣いて涙と一緒に追い出した。

 今夜はそういうの、ないと思った。
 無理やりじゃなくても頭の中は楽しいことでいっぱいで、嫌なことを覆い隠してしまうくらい大きくて、だから大丈夫だと思った。いい夢を見られると思った。
 思ったのに電気を消せなかった。
 電気を消せないことが今までなかったわけじゃない。でも、今日は違う。消せなくなるはず、ないのにおかしい。
 楽しかった。
 幸せだった。
 数時間前の記憶。鮮明に思い出せるのに駄目だった。
 指先が冷たい。
 手が震えて涙が落ちた。
(怖い)
 部屋は明るいのに。明るいから余計に。
 部屋を出て階段を下りた。一階は真っ暗で何も見えない。暗闇に飲み込まれそうな気がして慌てて電気をつけた。
 いつも夜はお風呂から上がったらすぐに自分の部屋に戻って一階にはあまり降りてこないけど、確かめたかった。
 三人で一緒にすき焼きを食べたテーブル。神くんと宗太郎さんが全部片づけてくれて、一緒に食べたのが嘘みたいに、綺麗になっていた。
 流しもぴかぴかになっていた。神くんと宗太郎さんがやってくれたんだって思って泣いた。今日のために、ずっとしまってあった食器をいくつか出したからかごの中の食器の数もいつもより多くて、二人と本当に一緒にすき焼きを食べたんだって思って泣いた。
 もっと一緒にいたかった。
 ずっと一緒にいたかった。
 同じ蛍光灯の下なのに、明るさが全然違った。二人がいたときは温かくて、今は冷たく見える。
 あんなに楽しかったから二人が帰ってしまってもきっと大丈夫だって、思ってたのにやっぱり駄目だった。あんなに楽しかったから余計に苦しい。寂しい。今この家には誰もいない。それがやっと日常になったはずなのに。違う。日常になっても寂しいのも苦しいのも消えない。
「神くん、宗太郎さん」
 呼んでも誰も答えてくれない。当たり前のことなのに、ますます怖くなる。
 脚も震えて、思わず椅子の背もたれに掴まった。
(電話)
 電話、しよう。二人に繋がる手段。時間、遅いけど声を聞きたい。わたしはひとりじゃないって、安心したい。そうしたら落ち着くかもしれない。声を聞いて、おやすみを言って、寝よう。また迷惑をかける。それでも縋らずにはいられない。
 二人がいなくなったらどうしよう。いくら考えても怖くて苦しくなるだけで答えなんて見つからない。

『坂口さん? どうした?』
 繋がらなかったら迷惑かけずに済むなって思ったけど、電話はあっさり神くんに繋がった。神くんの声に力が抜けて、冷たい廊下に座り込んだ。
「神、くん」
 抜けたまま、うまく力が入らなくて受話器を両手で持ち直した。
 声を聞いたら涙がもっと出てきた。この家にはわたししかいない。神くんも宗太郎さんもここにはいない。
「わた、し、わたし、あの、ごめん、声、を」
 泣いてるのがわからないように普通に話そうと思ったのにできなかった。
「声だけ、聞きたくて、すぐに切るから、ごめ」
『今から宗太郎とそっちに行く』
「え」
 電話の向こうの神くんがわたしがどこかで期待していた言葉をくれて、本当に簡単に欲しかった言葉をくれて、びっくりした。
『来るなって言っても行く』
 駄目だって思ってるのに、神くんのやさしさに寄りかかってしまう。どんなことでも受け止めてもらえるって勘違いしそうになる。
「ごめん、ありがとう」
 声が震えないように早口でお礼を言って、神くんが切るのを待ってから受話器を戻した。



 神くんと宗太郎さんが来てくれるまで、電話の前でずっと泣いていた。
 泣けないときがあったから、また泣けるようになったときは苦しいのに嬉しかった。わたしは泣くという行為にたくさん救われている。
 かわいそうなわたし。
 涙を流している間は全部許される気がした。全部忘れられる気がした。



 電話が鳴った。
『開けろ』
「うん」
 宗太郎さんの声に答えて、涙は拭いてドアを開けた。二人とも、多分部屋着のままで、わたしのために急いで着てくれたんだって、嬉しいと思ってしまった。
「ごめん」
 いつも謝ってばかり。
「なんで泣いてんの」
 不機嫌そうな顔の宗太郎さんにいつも通りの不機嫌そうな声で訊かれた。
 理由は単純で、言ったら呆れられるかもしれない。呆れられるかもしれないけど、ここまで来てくれた二人にはちゃんと理由を言わないといけない。
「あ、の……神くんと宗太郎さんが帰っちゃって、寂しくなった、から」
 寂しくなって、この家にひとりでいるのが怖くなった。
 口に出したらやっぱり呆れられそうな理由だったけど、神くんはそういう顔はしなかった。
「だったら、今夜はずっと一緒にいようか?」
「え、あ、でも」
 神くんの言葉に一瞬喜びかけて、でもすぐに神くんは朝からアルバイトがあるって言ってたのを思い出した。宗太郎さんも用事があるって。
「ん、バイトの前には帰るけど、今帰るよりは朝になってからのほうが寂しくならないでしょ」
「宗太郎さん、は」
「そんなにいてほしいなら、朝までいてやってもいい」
 嬉しくても出てきてしまう涙を我慢して、頷いた。
「うん、ありがとう」

 わたしの部屋とダイニングとリビングで迷って、リビングの灰色のソファはふかふかで座り心地がいいからリビングに通した。
 宗太郎さんはソファの右側、神くんは左側、真ん中が開いていて、宗太郎さんがそこをぽんぽんと叩いて「座れ」って言ったからわたしは真ん中に座った。密着してるわけじゃないけど近い距離。
 二人がいて、安心するのと緊張するのが一緒になって変な気分。もう少し落ち着いたらきっと緊張でいっぱいになってしまう。
「まだ寝なくても平気?」
 神くんに頷いてから、大事なことに気づいた。
 朝になるまで一緒にいてくれるってことは、神くんと宗太郎さんが寝るところを用意しないといけない。
 慌てて立ち上がったら宗太郎さんにパジャマの裾を引っ張られてそのまままた座ってしまった。
「何」
「あ、あの、寝るところ、用意」
「ここでいい」
「だって、ここじゃ」
「ここでも寝られる。あんたは」
 二人が来てくれたから、もう電気を消しても眠れる。でも、今は離れたくない。
「わたしも、ここにいてもいい?」
「勝手にすれば」
 神くんを見たら神くんも頷いてくれたから、立ち上がるのはやめた。
 握り拳を膝の上に乗せて、正面のテレビを見つめた。テレビ、つけたほうがいいのかな。
「この家、坂口さんだけじゃ広すぎるね」
 神くんが呟いてわたしは自分の両手を見つめた。
 ここはわたしの唯一の居場所。大切な場所。でも時々、凄く怖い場所にもなる。
 二人がいてくれるのに、またさっきの感覚が蘇って目をぎゅっと閉じて、すぐに開けた。
 神くんがわたしの左手を取った。びっくりして心臓が跳ねて、どうしようって思ったら右手も、宗太郎さんが。
 両手は膝の上から両脇に。二人と、手を繋いでる。右側も左側も見られなくて、さっきまで手を置いていた膝の上を見た。
 神くんも宗太郎さんも何も言わないからわたしも何も言えない。
 自分の心臓の音がうるさくて、他の音が聞こえない。
 右手から流れてくる宗太郎さんの体温と、左手から流れてくる神くんの体温が全身を巡る。
 その体温に体の中から縛られていく感じがした。身動きできなくて息が詰まる。
 嬉しいのと苦しいのがぐちゃぐちゃに混ざって目に涙が溜まる。
 わたしは今二人と繋がっている。本当ならあってはいけないこと。
 鼻をすすって、視線を少し持ち上げてテレビの手前にあるガラスのテーブルを見つめた。
 どうしよう。
 二人がわたしの前から本当にいなくなるときは、もっと苦しいんだ。
 冷たかった両手が二人の体温で温かくなっていく。
 この温かさも、感触も、ずっと覚えておきたい。神くんと宗太郎さんにもらった言葉も全部。
 全部、全部、忘れたくない。離したくない。いつか来る日のことなんて、考えたくない。
 涙を零さないように、両手に力を入れた。神くんと宗太郎さんもしっかり握り返してくれて、吐き出した息が震えた。

 わたしは夜が怖い。
 ひとりになってから朝も怖くなった。
 毎日、世界はこんなに眩しいのにわたしの目の前は真っ暗のまま変わらず続いていく。わたしだけ取り残されたような感覚が堪らなく怖かった。
 早く夜が終わってほしいと思いながら朝も来なければいいのにって、何度も思った。
 今夜も朝が来なければいいのにって思う。でも夜は終わってほしくない。ずっと続いてほしい。この手を離したくない。





 両手の温もりが離れていくのに気づいていつの間にか閉じていた目を開けた。
「ごめん、起こした?」
 神くんに言われて首を横に振った。
「寝てないよ」
 ちょっと言い訳っぽく聞こえてしまったかもしれない。立ち上がった神くんは大きく伸びをした。宗太郎さんも立ち上がる。もう、朝だ。カーテンの隙間から見える外は明るい。
「俺たち、もう帰らないといけないけど大丈夫?」
「うん、大丈夫」
 わたしがここにいたから、多分二人とも一睡もできなかった。わたしはこの後何もないから寝ようと思えば寝られるけど、神くんはこれからアルバイト。宗太郎さんもどこかに出かけるみたいなことを言っていた。そもそもわたしが電話しなければ二人はここに来る必要もなかった。
「ごめん、わたし、迷惑ばかりかけて」
「迷惑って何が」
「夜遅くに電話して、うちまで来てもらったり、二人とも用事あるのに、ずっといてもらったり」
 やっぱり不機嫌そうな宗太郎さんに答えたら、神くんが笑った。
「俺たちも坂口さんにいっぱい迷惑かけてるよ」
「そんなこと、全然ないよ」
「俺たちも同じふうに思ってる。わかった?」
 頷くしかなかった。
 もう一度玄関までお見送り。朝ごはん、用意したかったけど時間がかかりそうだったから諦めた。
「本当に、ありがとう」
「ん、それじゃあ」
「夜電話する」
 手を振って、さようなら。二人が帰ってしまった寂しさを感じてしまう前に鍵とチェーンをかけて息を吐いた。
 長くて短い夜は、もう終わり。
 ずっと二人を感じていた両手を見つめて唇を噛んだ。
 二人に手を離される前に、わたしから離すことを考えて、すぐに無理だって思った。
 せめて、二人が離そうとしたら未練がましく縋りついたりするのはやめよう。うん、それがいい。今はそれでいい。
 リビングに戻ってソファに横になった。
 神くんと宗太郎さんのことを考えながら目を閉じた。





   * * * * * * *





「何か、疲れた」
 アパートに戻るとすぐに俺はベッドに倒れ込み、宗太郎もテーブルに伏せながらぼやいた。
「余計な神経使った」
 坂口さんがそういう空気に少しもさせなかったから、一晩一緒にいてできたのは手を握ることだけ。小さく震えていた冷たい手を思い出して天井に右手を翳した。
 坂口さんからの電話でもう一度家に行くことを申し出たのは純粋な気持ちからだったけれど実際に坂口さんを前にしたらとても純粋とは言えないようなことを思ってしまった。朝まで一緒にいることにしたのは、泣いていた坂口さんを一人にできなかったからだけではなくて下心も確実にあった。
「やっぱ三人だったのがまずかったのかね」
 二人きりだったら、もう少しはそれらしい雰囲気にもなったのか。俺たちが坂口さんの手を握った後、坂口さんは俺のことも宗太郎のことも一度も見ようとしなかった。時々うつらうつら動く頭がどちらかに傾くこともなかった。
「どっちかに寄りかかったりしたら、どっちかが傷つくとか思ってんのかな」
「実際俺に寄りかかったら孝太郎は傷つくだろ」
「まあ、それはそうだけど覚悟はしてるつもりだし、一応」
 目の前で坂口さんと宗太郎がいちゃついているのを見て、何も感じないのは無理だけど平常心を保とうとすることくらいはできる。
 そこまで考えて自嘲した。
「改めて客観的に考えると気持ち悪いな」
 一番気持ち悪いのは、それを普通に受け入れている俺自身だ。
「嫌ならやめれば」
 宗太郎は鼻で笑って、だから俺も平静でいられる。
 ふっと息を吐き出して、うつ伏せになって枕に顔を埋める。
(寂しくなった)
 坂口さんの声を思い出す。
 坂口さんからの電話は俺たちにとっては嬉しいことでも坂口さんにとってはあまりいいことじゃない。
 今回も実際に坂口さんは泣いていた。
 感情が表に出やすい坂口さんは、普段はそれを押し隠そうとして隠しきれていないけれど昨日は隠そうとはしなかった。俺と宗太郎がいることを全身で嬉しいと言っているようで俺はそれが嬉しかったし宗太郎も同じように思っていた。
 まさか名前を呼んでもらえるとは思わなかった。しかもあのタイミングで。坂口さんが考えていることはわかるようでわからない。坂口さんに余裕がないところなんて見せたくないけれど動揺を隠すことができなかった。
 たとえあの場限りでも、坂口さんの名前も呼ばせてもらえた。
 食事の最中も大して会話があったわけではないけれど、幸せすぎるくらい幸せな時間だったのは三人共通で、だから余計に一人になったときとの温度差が大きくなって耐えられなくなってしまったのかもしれない。
 いるべき人がいなくなった広い家。あの家に坂口さんはいつから一人でいるのだろう。最近のことではないことは雰囲気でわかる。でもそれだけ。
 俺が勝手に作っていた壁の一つをあっさり壊してしまった坂口さんはやっぱり殻の中。
 坂口伊織という人を、俺はまだちゃんと見ることができていない気がする。坂口さんのことは何でも知りたいと思いながら、奥まで踏み込むのが怖いと思う。
(飲み込まれそうなんだ)
 坂口さんの後ろに見えない影がちらついて、坂口さんといると安心する一方で不安にもなる。
 坂口さんが影に飲み込まれそうな、引きずられて俺も落ちそうな感覚が過って踏み込むのを躊躇ってしまう。
 そもそも踏み込みたくても坂口さんがそうさせない。
「孝太郎」
 ずるずると沈んでいきかけた思考が宗太郎の声に引き上げられる。
「時間」
「あ、やべ」
 言われて慌てて起き上がった。バイトのことがすっかり頭から抜けていた。
「宗太郎は?」
「俺はまだ時間あるからちょっと寝る」
 むくりと身を起こした宗太郎は大袈裟にあくびをした。
「寝過ごすなよ」
「電話で起こして」
「ふざけんな」
 立ち上がって宗太郎の頭を小突いた。こんなどうでもいいやりとりも、坂口さんが心底求めているものかもしれないと思うと途端にかけがえのないもののように思えるから不思議だ。
 坂口さんの手の感触をまた思い出して、涙腺が緩むのを感じる。
 手を握っている間も、涙脆いわけではないのに何故か溢れそうになる涙に困惑した。不意に昂った感情をうまく抑えられないときがある。
 それを不快だと思うのに、原因が坂口さんであることが嬉しい。
 きっと長く感じるだろうと思っていた手を握ることしかできない夜は終わってしまえばやっぱりあっという間で、必死に、縋りつくように俺の手を握り締めてきた小さな手を離すのが惜しくて堪らなかった。
 坂口さんも、宗太郎みたいに傍にいるのが当たり前になってほしい。長い夜を一緒に過ごすのが日常になってほしい。一緒に過ごせる時間が特別なんじゃなくて、離れるほうが特別になってほしい。
 温い水で顔を洗いながら、簡単には手に入れられないだろう未来に思いを馳せた。

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