top - novel - MY GOD
- index -

 たゆたうとき

 高校をやめると言ったら母親に泣かれた。父親は珍しく真面目な顔をして「もう決めたのか」と言った。俺は頷いた。
「後悔、しないか」
「すると思う」
「それでもか」
 もう一度頷いた。
「次からは決める前に相談して」
 父親はいつもの情けない顔で言った。

 やめることは両親以外には言わなかった。孝太郎は勝手に気づいて、少しだけそういう話をした。
「それしかないの、道は」
「今は」
「宗太郎がそれでいいなら、止めないけど」
「ん」


 一度どこかで切らないといけないと思ったんだ。


 駅から高校に向かう途中、制服姿の高校生とすれ違った。数ヶ月前は同じ制服を着ていたのに、案外あっさりと切れた日常。
 校門をくぐって左手、生徒用の玄関の手前にある来客用の玄関で靴からスリッパに履き替える。
 正面の事務室の窓口から顔見知りの中年の事務員が小さく手を振った。俺もいつものように軽く頭を下げた。
「久しぶりね。今日も原田先生のところ?」
「はい」
 時々原田に呼ばれる。現状報告やこれからのことを話すために。絵のこととか、会話を交わす機会は多かったから、散々説教されたけど今も面倒をみてくれている。ありがたいと思う。一応。

 放課後。教室や廊下にはほとんど人影はなかった。遠くから楽器の音や人の声が聞こえて取り残されたような感覚。原田が俺を呼ぶのは美術部がない日だから、美術室にも誰もいない。前に、原田の空き時間に呼び出されたことがあった。授業中。学校にいるのに授業も受けずに原田と話している自分を奇妙に思った。あれからそんなに経っていないのに、今あるのは本来ならいないはずの場所にいる居心地の悪さ。
 居場所の一つをなくしたのだと知った。
 入り口のところで無人の美術室を眺めていたら、黒板の右横の扉から原田が顔を出した。
「何だ、宗太郎か。誰かと思った。来てるなら声かけてよ」
 挨拶代わりに頭を下げて準備室に入る。
「調子はどう?」
 資料や画材に埋もれた原田の机の傍の、不安定な丸椅子に腰を下ろした。独特のにおいが鼻をつく。
「特に変わりは」
「バイトは?」
「いつも通りに」
「絵は?」
「毎日」
「勉強は?」
「それなりに」
「そっか。順調そうで何より」
 手にした卓上カレンダーを眺めていた原田は、顔だけ俺の方に向けた。
「ちょっと立ち入ったこと訊いてもいい?」
 嫌だと言っても訊いてくるのはわかっていたから黙っていた。原田はカレンダーを机に置いて小さく息を吐き出してから、椅子を回して体も俺のほうに向けた。
「お前の弟、だっけ、孝太郎。あいつも留年しただろ」
 原田が何を言おうとしているのか、何となく察した。
「今は、あの坂口と同じクラス。で、前から気になってたんだけどさ」
 視線が迷うように僅かに揺れる。わざとらしい、と思うのは俺が余計な勘繰りをしているせいか。
「弟も、見てる。美術の時間。人数そんなにいるわけでもないし俺、席は自由にしてるんだけど坂口の隣はいつも空いてて」
 学校での様子は孝太郎からも聞く。昼飯は弁当だとか、授業中は申し訳なさそうに背中を丸めているとか、相変わらず一人だとか。
「孝太郎は坂口の後ろの席。いつも前の坂口を見てる。そういう目で」
 俺もあれを見るときは孝太郎と同じ目をしているのだと思う。あれは普段からあまり人の目を見ようとはしないから、自分がどんな目で見られているかなんて知らない。知ろうとも、しない。
 原田は一旦閉じた口をまた開いた。
「お前たちが留年したり学校やめたりした理由って、坂口?」
「まさか」
 間を置いてはいけないところだと思ったからそうした。
「だよなー。いくら馬鹿でもさすがにそれはないよな。うんうん」
 安堵したように原田は笑って、何度か頷いた。
「いい加減理由くらい教えてよ。なんで二人揃ってそんなふうになったわけ? 宗太郎はさっさと中退しちゃうしさー。孝太郎だって今は結構真面目に学校来てるのに。やっぱ一年やり直すのはお前にはきつかった?」
 理由。二人とも学校に行かなくなったのは、お互い考えることがあったから。その中にあれのことが含まれていないと言ったら嘘になる。
 俺がやめたのは、自分の中で色々なことが回りすぎたから。いくつも積み重なって、破れそうになった。あのときはやり直す余裕なんてなかった。逃げた。のかもしれない。あれには偉そうなことを言っておきながら。
 結局人に言っても意味のない理由だから答えずにいると原田は笑顔を引っ込めた。
「ん、でもさ、二人とも坂口を、ってのは事実なんだろ?」
「いけませんか」
「いや、別にいけないってわけじゃないけど。なんで坂口なのかと思って。それに大変じゃない? 色々と」
 何かを確信しながらの探るような言い方が不快で、線を引くつもりで眉を少しだけ寄せた。
「話、終わりなら帰ります」
「ああ、立ち入りすぎた? んな顔するなよ」
 悪びれた様子もなく言って、また笑った。





 どうでもいい世間話に付き合わされて、準備室を出たのは数十分後。
 美術室の前の階段を下りる。三階から、一階まで下りずに二階の渡り廊下を渡った。
 孝太郎の話ではあれは掃除当番でもない限り授業が終わるとすぐに帰るらしい。
 だから、放課後のこんな時間にあれがいるはずがない。のに。何かを期待して二年三組の教室を覗いた。
 誰もいないはずの教室に一人、いた。当然のようにいて、血が震えた。
「何してんの」
 真っ直ぐ黒板を見ていた瞳が揺れた。
「え、あ、え?」
 面白いくらいに動揺した馬鹿女と目が合う。
「え、なん、で……?」
 迷う前に教室に足を踏み入れる。廊下側から三列目の前から二番目。孝太郎の席に座る。俺の動きと一緒に動いていた頭もそこで止まる。
「あんたも、なんでまだいるの」
「わた、わたしは、ちょっと図書室で見たい本があって、あの、それから、何となく、教室に戻って」
 慌てたようにまた前を向く。いつも孝太郎が見ているはずの後ろ姿。どこかが微かに焦げる。
「それで」
「それで、それで……教室に誰もいなくて、いつも、すぐに帰るから、放課後の誰もいない教室って、あんまり知らなくて、やっぱり朝とは違うなとか、好きだなとか思って」
 頭が小さく動いた。途中から自分が何を言っているのかわからなくなっているようだった。
 時々こうやって思い出したように言葉を一気に吐き出すことがある。出てこないだけで、内側ではきっとたくさんの言葉が渦巻いている。
「……それで……卒業したらここにはいられないんだって思ったら、今のうちに覚えておかないとって、思って」
 後悔。するのはこんなとき。学校での何でもない日常を共有できないことを思い知る。
 明らかに力が入っている肩。髪、初めて会ったときは肩につくくらいだった。伸びたまま、弄られたことのない黒。
 右手で頬杖をついて、左手を伸ばす。人差し指で髪越しに背中に触れた。びくりと、体が小さく跳ねて指を離した。
「こっち向いて」
 顔が見たい。動く気配がないから今度は少し強く言う。
「こっち向け」
 躊躇うように右足が机の外に出て、遅い動作で体が廊下のほうを向いた。一瞬俺を見てすぐに俯く。膝の上で組んだ両手が僅かに震えていた。
「なんで、学校に」
 人に伝える気がないような声はそれでも響いた。
「原田に呼ばれた」
「なんで、教室、に」
「そういう、気分だったから」
 嘘。あるはずのない姿を期待していた。期待通りあるはずのない姿がそこにあった。
 偶然が偶然ではないような気がして、もう駄目だと思った。
「いつもみたいにすぐ帰ってたら、会えなかったんだね」
 ほとんど独り言のように、ぽつりと。髪の隙間から見える横顔は俯いたまま。どの口でそういうことを。
 抱き締めたいとか、そういう感情は飛び越えて壊してしまいたいと思う。手に入れても繋がっても、何をしても満たされる気がしない。だったらいっそのこと。
 不意に周りの音が消えて自分の音しか聞こえなくなった。血が巡る音。目を閉じる。瞼の裏に赤が浮かぶ。手は伸ばさない。伸ばせない。


 音と赤に浸って夢を見た。


 瞼を少しだけ持ち上げる。
 さっきまで膝の上で震えていた手が、頬杖をついていた俺の右手のほうに伸びていた。
 視線はじっと右手に注がれて、俺が目を開けたことに気づいてない。
 指先が触れて離れる。唇を噛んで、泣きそうな顔をしていた。触れられたところが一瞬、燃えた。
 瞬きをした。そこでやっと気づいた馬鹿女は俺を見て目を見開いた。
「ご、ごめ……っ」
 弾かれたように手を引っ込めて顔を背けた。
「ね、寝ちゃったのかと、思って」
「別に、触ってもいい」
 勢いよくこっちに向けられた顔は真っ赤になっていて、どうしようもない馬鹿だと改めて思った。
「う、あ、あの……本当、に」
 あちこちに飛ぶ視線を捉えるのは諦めて、もう一度目を閉じた。まだ赤い。
「やっぱ駄目」
 今感じたら、崩れる。どうしようもない馬鹿だけど、俺を揺らすには十分すぎるから。
「バイバイ」
 立ち上がって何も見ないように後ろの戸から教室を出た。
 呼び止めることも、追いかけてくることもなかった。期待はしていなかったから別にいい。

- index -

top - novel - MY GOD