top - novel - MY GOD
- index -

 恋い焦がれた

「あたしだってまさか、この年になって一目惚れするなんて思わなかったわよ。それも生徒に」

 騒がしい居酒屋の隅で、酒の勢いに任せて吐き出してみたら急に気持ちが楽になって、意外と思いつめていた自分に気づいた。あたしのグラスにビールを注いでいた原田が、少しだけ驚いたようにその手を止めた。
「それ、初耳ですね」
「今まで誰にも言ったことなかったからね」
 そうそう誰かに言えることでもないけれど。
 高校時代は放送部の後輩、今は同じ高校で美術教師をしている原田は、気兼ねなく話せる数少ない相手だった。
「まあ教師も人間ですからねー。間違いの一つや二つ」
「先に言っておくけど生徒とどうこうなったわけじゃないから」
 原田がわざとらしく残念そうな顔をしたから、テーブルの下で向かいの脚を軽く蹴る。
「まあ間違いがあったら問題ですからねー。俺も気をつけないと」
 唐揚げを頬張りながら慌てて付け足した原田にあたしは苦笑する。
「原田クンは相当おモテのようで」
「だってうちの学校、めぼしいのが俺くらいしかいないじゃないですか。あとはおじさんとかもっさりしたのとか」
 しれっと言い放ってからにやっといやらしい笑みを浮かべた。
「先輩は結構美人なのに、人気は全部映子ちゃんにいっちゃってますよね」
 英語担当の映子ちゃん、もとい桜田映子はあたしとは正反対で可愛くて優しい空気を全身から放っている。確かに彼女が人気があるのはわかるし、「鬼の穂高」、「天使の桜田」と陰で言われているのも知っている。でも、この男の言い方はいつもやたらと癪に障る。
「言いたいことがあるならはっきり言え」
「いえ、別に。ただ、もう少し優しくなったら先輩も結構いい線いくんじゃないかと」
「余計なお世話。人気者になりたくて教師になったんじゃないし」
「はいはい、で、相手は?」
 横にそれた話を元に戻される。
「なんでそこまであんたに言わないといけないのよ」
「何を今更。ここまで言ったら同じでしょう。ささ、全部吐いてすっきりしちゃいましょうよ」
 ビールを注ぎ足しながら言う原田の言葉と気持ちの良い酔いとで、しばらく迷ってから結局あたしは原田にその名を告げた。

「神、宗太郎」

 にやにや笑っていた原田の顔が面白いくらいに固まって、グラスからビールが溢れた。
「っと、うわ、すみません」
 慌てて瓶を置いて濡れたテーブルを拭いてから、原田が恐る恐るといった感じであたしを見た。
「……マジですか、それは」
「マジですよ」
「う、うわー、何か、ちょっと意外と言うか、いや、宗太郎とはよく話すから」
「知ってる。たまに準備室で会ったしね」
 とりあえず原田を驚かすことができたことに満足してビールをのどに流し込んで大きく息を吐いた。
「でも、宗太郎、学校やめちゃいました、よ? それに宗太郎って確か」
「うん、当たって砕けた」
 原田の言葉を遮って言ったら、急に泣きたくなってグラスを両手で包んだ。
「え! なんで俺の知らないところで全部終わっちゃってるんですか!」
「終わったからあんたに話したんでしょうが」
 バカな後輩が近くにいてくれたことに、今だけは感謝することにした。



     * * * * *



 最初から、報われることのない思いだとわかっていた。それでもどうしようもなかった。


 放課後、雑用を片付けてから久しぶりに原田を飲みに誘おうと美術室に行ったら、部活がある日ではないのにキャンバスに向かって絵を描いている生徒が一人。余程集中しているのかあたしが入ってきても顔を上げることなく手を動かし続けていた。
 窓から差し込んだ光が落とす影がとても綺麗で思わず見惚れて、今思えばそれが運の尽き。
 恋愛はそれなりにしてきたつもりだったけれど、人を好きになるのに理屈も何もないのだと、そのときはじめて知った。

 原田に会いに行くついでに、正確に言えば神宗太郎に会いに行くついでに原田に会いに行ったりもした。もちろんそんなに頻繁に行けるわけもなく、彼のクラスの授業も受け持っていなかったから二、三ヶ月に一度、美術準備室で原田と話している神宗太郎に会えればいいほうだった。彼が絵を描いているところに遭遇できたのは、最初の一度だけだった。
 実際に口をきいたのも、一年半の間でほんの数えるほど。

 一番好きなものを描けという課題で女の子の絵を描いた奴がいる。ある日原田が面白そうに言った。放課後の準備室で他愛ない話をしているときだった。わざわざその絵を出して見せてくれた原田を、あのときは恨んだものだった。
 彩色途中の絵は、それでも目を惹き付けて離さなかった。
 裏の「宗」という字に気づいて、本当に叶わないのだと思い知るのと同時に、それが彼の絵だということにやけに納得した。
「それ、神って奴が描いたんですけどね。先輩も知ってますよね。あの仏頂面で好きな子の絵描いたりとかホント何考えてるのかわかんないんですよ。ちょっとからかったら凄い目で睨んでくるし」
 のほほんと笑いながら言う原田に殺意がわかなかったと言ったら嘘になるけど。

 元々叶うはずのない思いだったから最初から諦めはついていたはずなのに、心のどこかでは諦め切れていなかったから、終業式の日美術室で鉢合わせた神宗太郎を呼び止めた。偶然を必然に置き換えて自分を奮い立たせる。
「こんなこと言ったら、笑われるかもしれないけど」
 柄にもなく緊張して言ってから、そうではないと気づいた。笑うような人じゃないとわかっていたからどうしようもなく惹かれたのに。
 真っ直ぐ、逃げることを知らない瞳を見つめる。
「あなたのことが好きでした」
 表情が変わることはなく、あたしを見つめ返す瞳はひたすら真っ直ぐだった。
「それだけ、伝えたくて」
 いい年した大人が馬鹿みたい。それも教師が生徒にこんなこと。
「ありがとうございます」
 思わぬ言葉に、とっさに耳を疑った。笑顔なんて浮かべていなかったけど。
「意外と優しいのね」
「そうでもないですよ」
 これで最後。終わりにしなければいけない。青の色を思い出す。
「あなたの絵、見たわ。あの絵の子が、好きなの?」
 必死に教師の顔を作りながら言うと、そこでやっと、彼は唇の端を持ち上げて微かに笑んだ。
「俺は、あれじゃないと駄目だと思うんです」
 前言撤回。本当に優しくない。そんなにはっきり言わなくたっていいじゃない。変に希望を持たされるより、はっきりふってもらうほうがいいと思っていたのに。

 初めて見た笑顔と共に告げられたのは、何よりも残酷な言葉。



     * * * * *



 自分の運のなさを呪ったのは翌月、担当のクラスの初授業で見たことのある顔を見つけたときのことだった。それも二人。
 好きだった人と同じ顔をした双子の弟と、好きだった人が恋焦がれていた相手。
 前者は同じなのは顔だけで好きになるどころか前々から気に食わない生徒だったけれど、顔は同じだから嫌でも思い出す。
 後者は、いっそのこと彼が好きになるのも当然だと思えるような、そんな子だったらよかったのに、あいにく神宗太郎の趣味は悪いらしい。



「原田から見て、坂口伊織ってどんな子? 美術とってるんでしょ?」
「あ、何だかんだ言ってやっぱりライバルが気になります?」
 思い切り睨んでやったら、原田はこほんと咳払いをした。
「真面目な生徒ですよ。美術的なセンスはないみたいですけど」
「不器用そうだしね」
「不器用ですねー。それに何と言うか、誰かの恋愛対象になるとは思えな……と、それはさすがに言いすぎか」
「やっぱり原田もそう思う?」
「……先輩、当たって砕けて諦めたんじゃないんですか?」
「最初から諦めてるわよ。ただ、ちょっと気になるだけ」
 頭ではいくらでも諦めたはずなのに。諦めて、現実を突きつけられて、それで終わったはずなのにあんな八つ当たりみたいな真似をするなんて、教師である以前に人として最低だ。チョークを握る震えた手を思い出して自己嫌悪。
「あたし、自分が思ってるよりずっと子供だったみたい」
「もうすぐ三十路でうっ……先輩、すぐに足が出るその癖、何とかなりませんか」
「あんたもその口どうにかしてよ」



 今は無理でも、いつかあの子にちゃんと謝ろう。それから新しい恋を見つけよう。
 だからもう少しだけ思い出に浸らせて。
 苦しいけれど、すぐに忘れてしまうには惜しい恋だったから。

- index -

top - novel - MY GOD