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 オオカミの憂うつ

 ちょっと信じられないこの状況。
「神くん」
 さっきまで俺の部屋で、坂口さんと数学の宿題を一緒にやっていて、いきなり抱きつかれた。坂口さんに。俺が。
「神くん、好き」
 押し付けられた胸に気をとられて。
「え」
 言われたことが理解できなかった俺の耳元に唇を寄せて、坂口さんが囁いたのはさらに信じられない言葉。
「神くんになら、何されても、いい」
 震えた体と、今にも泣き出しそうな声に坂口さんが本気だと知ったから。

 理性なんて簡単にふっ飛びます。

 ふっ飛んで、目に飛び込んできたのは天井で、坂口さんを抱き締めたつもりの腕は自分を抱き締めていた。

「……夢って、そんな」





「そこはその式よりもこっちの式で……」
「あ、そう、だね。ありがとう」

 坂口さんを家に誘う口実のつもりだった数学の宿題は口実でなくなってしまった。二人きりで真面目に勉強中。別にいいんだけど。いや、よくないからあんな夢を見たのかもしれない。
 欲求不満。
 学校では避けられるし今日もここまで来る間ずっと後ろを歩いていた。でも不思議と嫌われてるんじゃないかと不安になることはない。
(きっと泣くから)
 例えば俺が突き放したりしたら。
 たった一言、そういう言葉を告げただけで、必死に泣きそうになってるのを堪えていた坂口さん。あんな目で見上げられて、どうにかなるんじゃないかと思った。

 数十センチ先。さっきまで微かに震えていた、シャーペンを握っている右手も今は落ち着いている。
(意外と小さな手)
 坂口さんは自分をとても卑下するけど、俺にとっては十分女の子で、とりあえず今は二人きりの状況なわけで。
 とどめで今朝の夢をリアルに思い出してうっかり伸びた手。
「……っ」
 髪を少し触っただけで思い切り跳ね除けられた。
「あ、ご、ごめん。何?」
「ゴミ、ついてたから」
「あ、ありが、と」
 くだらない嘘を一つついて、トマトみたいになった坂口さんを可愛いと思う。無理やり抱き締めたら泣いてしまうか、それとも今みたいに真っ赤になって固まってしまうか。感情に任せて抱き締めてしまったときのことを思い出し、うっかりにやけて、坂口さんが怯えた表情を浮かべたから慌てて顔を引き締める。
 せっかくの二人きりの時間を堪能しない手はないけど、坂口さんは相変わらず殻の中。そこには誰も踏み込ませない。坂口さんの体を手に入れることはできても、心まで本当に手に入れられることはないんじゃないかと、時々思う。頑なで脆い、きれいな心。
「ちょっと休憩しようか。シュークリーム持ってくる」
 部屋を出て、泣きたくなった。欲求は増すばかりで満たされることはない。
 手に入れたと思えたのは、ほんの一瞬で。
 坂口さんが、俺と宗太郎のことを好きだということに疑問を持ったことはないし、実際それに間違いはない。
 ただ、坂口さんと俺たちは求めているものが違うのだろう。俺たちは体も心も、坂口さんの全てが欲しくて、でも坂口さんは自分が誰かに思われているという事実だけで今は満たされている。それに、人と関わることを、その先にあるものを何よりも恐れているから。

 本当は、誰よりも貪欲な、可愛い人。


「コンビニで百円で売ってるやつなんだけどさ、これがまたうまくて」
「いただき、ます」
 袋の上から両手で持ってぱくりと一口。表情が緩んで「おいしい」と小さな声が零れた。
「よかった」
 俺もつられて笑顔になって、これはこれで幸せなんだろうと思う。
「あ」
 俺より少し遅れて食べ終わった坂口さんの口の左横に、クリームがついているのに気づいた。
「坂口さん、クリームついてる」
「え、あ」
 慌てて口を拭おうとした坂口さんの右手を掴んで、左腕をテーブルについて身を乗り出す。
「神く――っ」
 抜け出そうとする手を逃さないようにきつく握り締めて、口の横についていたカスタードクリームを舐め取った瞬間、坂口さんの体がびくりと震えた。
 唇に触れないぎりぎりの距離。
 坂口さんの顔が再び真っ赤になって、俺は笑いながら手を離す。坂口さんは泣きそうな顔で俺が舐めたところを拭って俯いた。小さく震えている坂口さんが可愛くて愛しくて、このまま思い切り抱き締めてしまおうかと思ったら。

「孝太郎」

 恨みがましい、嫌というくらい聞き覚えのある声が聞こえた。今日は来ないはずだったけど、変なところで勘のいい奴だから。
「何、宗太郎」
 少しだけ開いていたふすまを、勢いよく開けた宗太郎はいつもと変わらない仏頂面で、でも明らかに怒っていた。今日坂口さんが来ることを言わなかったからか、それとも今のを見たのか。いつからいたのかは知らないけど。
「何、してんの、お前」
「坂口さんと一緒に宿題やってんの」
 坂口さんを見ると、後ろを振り返ることもできないらしく俯いたまま正座した膝の上で両手をきつく握り締めていた。そろそろ、本当に泣いてしまうかもしれない。一瞬このまま泣かせてみたいと思ったけど、今以上に避けられるような気がしたからやめることにした。
「今日はもう、帰る?」
 坂口さんは小さく頷いた。


 結局それから坂口さんは一度も顔を上げることなく帰っていった。坂口さんを見送って戻ると部屋には不機嫌オーラを全身から放っている宗太郎が一人。
「で、何しに来たわけ」
「別に」
 宗太郎はベッドの上に相変わらず偉そうに腰掛けて。
「言っとくけど、先に勝手なことをしたのは宗太郎だからな」
 ふすまを今度はきっちり閉めて、俺はさっきまで坂口さんが座っていたところに腰を下ろす。
 宗太郎が坂口さんの家に押しかけて一泊した夜。坂口さんは何もされなかったと言っていたけれど、宗太郎がそんな状況で何もしないはずがない。俺だったら絶対にするから。坂口さんが寝ているときとか。
「お前だってあの後結局同じようなことしただろ」
 同じようなこと。保健室で眠っていた坂口さんに。
 お互い、直接口に出したわけじゃないのにわかってしまうのが、楽で、気持ち悪い。
「あれは、不可抗力」
「俺だって不可抗力だ」
 しばらく睨み合って、同時に溜め息。
 坂口さんは俺たちを仲のいい兄弟だと誤解してるし、周りも最近はそう思っているようだけれど、実際俺と宗太郎の仲は最悪だと思う。ここまで存在が不快な奴はそうはいない。宗太郎も同じことを思っているだろう。
「坂口さんがいなかったら、お前のこと殺してるかもしれない」
 本気の冗談に、宗太郎は小さく笑った。
「それは俺のセリフ」

 誰よりも近いから誰よりも憎い存在。

「全部知ったら、坂口さんはどうするかな」
 唐突に涌いた疑問が口をついて出た。
 例えば、嘘をついたこととか。
「どうもしないだろ。あれは」
 宗太郎は平然と言い放つ。
 どんなに泣いても怒っても、きっと離れることはない。あれには俺たちしかいないから。
「……だと、いいんだけど」


 坂口さんに出会ってしまった俺たちは、不幸で幸福だ。

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