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 三男の呟き

 初めまして。僕の名前は神啓太郎と言います。至って平凡な中学生をやっています。
 家族は父、母、二年前の縁日で運命の出会いを果たした金魚の一郎、二郎、三郎、それから三つ違いの兄が二人います。名前からもわかると思いますが、例の双子が僕の兄です。
 趣味は金魚鑑賞、読書、最近では上の兄の影響でスケッチブックに絵を描いていたりします。

 兄の話をしましょう。
 僕が物心ついた頃には二人の兄はすでに逆らえない存在になっていました。反抗を試みたこともありましたが二対一、そして三つの年の差の壁は強大でした。僕はあのとき初めて世の中の厳しさを……やめましょう。このようなことは恐らくどの兄弟にもよく見られることです。
 僕は目があまりよくないので眼鏡をかけています。細くて黒っぽい縁の、これと言って特徴のない眼鏡です。少し内向的な性格と、もしかするとこの眼鏡も影響しているのかもしれません。どうやら僕はいじめられっ子という部類に分けられるようです。上の兄に似ているとよく言われます。上の兄も眼鏡で、愛想が悪く口数も少ないのでそう言われるのでしょう。確かに上の兄にも根暗な部分があることは否めませんが、それは大きな間違いです。上の兄と僕は根本的に違います。上の兄はいわゆるガキ大将タイプです。いじめられる側ではなく、いじめる側です。
 下の兄は一見まともで何の問題もないように思われがちです。あくまで一見、です。僕はいつも無愛想で近づきにくい上の兄よりも、一見人当たりのよい下の兄のほうが怒らせると怖いということを知っています。これは兄たちの幼馴染で双子被害者の会の会長である渉さんも証言しています(ちなみに僕は副会長をやっています)。

 この二人の兄がいつの頃からかとても険悪な仲になりました。仲のよい兄弟で通っていた彼らが、何があったのかは知りませんがそれこそ親の仇のように憎み合ったのです。あの頃のことを語るには多くの時間が必要なので、ここでは省略します。僕もそのとばっちりを受け、一時期近所に住む祖父母の元に預けられたこともありましたが、今ではもういい思い出です(ということにしておきます)。下の兄が家を出たりするなど色々あったものの、仲のよかった双子の兄弟はまた以前のように二人でよくつるむようになりました。むしろ以前よりも親密度が増したような気さえします。雨降って地固まる、とはこのようなことを言うのでしょう。

 こうして大きな問題はとりあえず去ったわけですが、新たな問題が発生しました。
 どうやら最近、そんな兄たちに好きな人ができたようです。

 大事件です。



 衝撃の事実を知ったのは、上の兄の絵がきっかけでした。
 兄二人の仲は言わずもがなですが、兄二人と僕の仲は微妙なものです。決して悪いわけではありませんがそれだけです。一人だけ年が違うというのもあるかもしれません。二人の間に僕が割り込むことは許されない気がしたのです。
 ただ、下の兄が家を出た後、上の兄と話す時間が少し増えました。
 上の兄は絵がとても上手い人です。一度覚えたものはそれが目の前になくても正確に紙に写し取ります。兄の描く絵はまるで写真のようにとても精巧です。僕は兄の絵を見るのが大好きで時々見せてもらっていました。兄でなければ怖くてとても近づけないような人ですが、仮にも兄弟です。幼いころ勇気を出して頼んでみたら、思いの外あっさりと見せてくれました。それが今でも続いて時々見せてもらっているのです。
 見せてもらっているうちに、兄のスケッチブックには人の絵がないことにいつの頃か気づきました。
 石膏像を描いたものはあるのに、生きた人間を描いたものがなかったのです。理由を聞くのは何故か憚られたので、兄は人嫌いなのだと勝手に結論付けて納得していました。

 だから、その絵を見たときの驚きは大きく。

「誰これ」
 兄の部屋のベッドに腰掛けスケッチブックを見せてもらっていた僕は、思わず僕の後ろで寝転んでいた兄に問いました。
 机に頬杖をついて遠くを見ている女の子。制服姿から兄たちと同じ高校の人だということはわかりました。それから兄のサインとは別に、絵に溶け込むようにして筆記体で記されたアルファベットに気づきました。
「Io……ri……?」
「孝太郎の好きな女」
 あまりにもさらりと言われたので意味を理解するまでに時間がかかりました。
 ショックを受けなかったと言ったら嘘になりますが、事実なら僕にはどうしようもないので受け入れるしかありません。

 そしてじきに、絵の中の彼女が上の兄の好きな人でもあることを知りました。
 いつの間にかスケッチブックの半分以上が“Iori”の絵で埋まっていたのです。いくら色恋沙汰に疎い僕でもさすがに気づきます。
 別に兄たちが誰を好きになろうが誰と付き合おうが僕には関係ありません。現にそれまで兄たちの恋愛事情は僕の知るところではありませんでした。でもこれだけは確かだということが一つだけありました。
 兄たちが本気で他人に興味を示したのは、僕が知る限りではそれが初めてだったのです。
 同じ人を好きになってしまった兄たちがこの先どうするのか気になりましたが、元々兄たちと僕がそんな立ち入った話をすることはなかったので、“Iori”のことは時々絵で見るだけで僕にはその後どうなったのか知ることはできませんでしたし、僕には直接関わりのないことだったのでそれっきりになっていました。



 それは、タイミングが悪かったとしか言いようがありません。

 下の兄は高校進学とともに家を出て、家から数駅離れたところにアパートを借りて一人暮らしを始めました。上の兄と距離を置くために家を出たわけですが、いつの間にか上の兄もそこに入り浸るようになって意味がなくなりました。両親も僕も家に戻ってくることを望んでいましたが、下の兄にはその気はないようでした。

「啓ちゃん、孝ちゃんのところにこれ持って行ってくれない? それと宗ちゃんにもそろそろ帰ってきなさいって」
 そう母に頼まれたのはある日の夕方のことでした。翌週に控えた小テストの勉強をしていたのですが、母の頼みを断ることはできません。兄たちの仲が最悪だった頃母がどれだけ悩んだか知っています。今の状況をどれだけ喜んでいるかも、また、寂しく思っているかも知っています。だからせめて僕だけは母を困らせてはいけません。
「バナナケーキを焼いたの。啓ちゃんの分もたくさんあるから、帰ってきてから一緒に食べましょう。あ、そうだ、孝ちゃんに次はいつ帰ってくるのかも訊いておいてくれる?」
 母の作るバナナケーキは小さい頃から兄たちと僕の大好物です。紙袋に入ったそれを受け取って僕は笑顔を浮かべます。幸せです。
「うん。それじゃあ行ってきます」



 うちから下の兄のアパートまでは電車より自転車のほうが早いので、僕も自転車で向かいます。
 アパートの前に自転車を止め、かごに入れていた紙袋を持って、いつものように石段を三つ上り、そこで足が止まりました。
 一番奥の兄の部屋の前に人が立っていたからです。女の子です。兄と同じ高校の制服で、今時の女子高生というものからはかけ離れた雰囲気の人です。
 困りました。
 彼女は何をするでもなくドアの前で俯いたまま立っていました。僕は兄に用があるのでドアをノックしなければなりません。それには彼女に声をかけるべきなのでしょうか。とりあえずここでずっと迷っているわけにもいかないので、意を決して足を一歩踏み出しました。そもそも彼女は兄の部屋の前で一体何をしているのでしょう。僕と同じように兄に用があるのでしょうか。兄もいい年なので「彼女」の一人や二人いてもおかしくありません。が、その可能性は低いでしょう。学校の用事なのかもしれません。
「あの」
 思い切って声をかけると、彼女は驚いたように勢いよく顔を上げて僕のほうを振り向きました。そして僕を見た瞬間訝しげな表情を浮かべました。おそらく僕も同じような顔をしていたでしょう。どこかで見たことがある人だったのです。

「あ」

 見つめ合ったまま数秒。あるものに思い当たって僕は声を上げました。
「Iori」
 彼女は少しだけ目を見開きました。どうやら間違いではなかったようです。見たことがあるはずです。スケッチブックの中の彼女を何度も見ました。

 ああ、この人が。

 そう思った瞬間、一気に膨れ上がった感情を、僕は抑えることができませんでした。
 兄たちは同じ人を好きになってしまいました。それもかなり本気です。もしどちらかだけがその人と付き合うことになったりしたら、二人の関係は以前の比ではないくらいに酷いことになるでしょう。ですが今のところそのような気配はありません。拮抗状態が続いているとも考えられますが、僕も馬鹿ではないので最近の兄たちの変化に気づかないわけがありません。その後どうなったのか知ることはできませんが推測することはできます。
 恐らく兄たちは、共有することを決めたのです。常識的に考えれば普通ではありません。でも上の兄の絵を見れば、兄たちが“Iori”にどれだけ執着しているのか嫌でもわかります。あれだけ欲しがっていたものを、諦められるわけがありません。
 身内の欲目ととられるかもしれませんが、女性にはそれなりにもてる兄たちです。余程のことがない限りそんな二人に迫られて断る人がいるとも思えません。目の前にいるこの人は、そうやって簡単に、もしかしたら本気で好きじゃないかもしれないのにあっさりと兄たちを手に入れてしまったのです。
「兄に何か用ですか」
 初対面の人に向けるような言い方ではないと、自分でも思いました。でもこればかりはどうしようもありません。
「あ、に……?」
 戸惑ったような声と落ち着きなく動く目に、この人は何も知らないのだと思い知り、それが余計に膨れ上がった感情を押し上げました。
「用がないならどいてもらえますか」
「あ、ご、ごめん、なさい」
 震えた声に、苛立ちはさらに募ります。
「兄たちが」
 僕は一体、何を言おうとしているのでしょう。これ以上言葉を続けてはいけません。わかっているはずなのに止めることができませんでした。
「あなたみたいな人を本気で好きになるはず、ありません。いつかきっと、他の人を選びます」

 とんでもないことをしてしまったと、我に返ったときにはすでに彼女は去った後でした。紙袋を持っていた手が震えています。
「何してんの、お前」
 背後から聞こえた声に、心臓が止まったと本気で思いました。ぎこちない動きで振り返ると、コンビニの袋らしきものを手にした下の兄が立っていました。
「バナナケーキ、お母さんが」
「ああ、サンキュ。上がってく?」
 僕は首を横に振ります。
「宗兄、は」
「バイト。そのままそっち帰るって」
「孝、に、いは」
「来週あたり帰る。お前顔色よくないけど、具合でも悪い?」
「別に」
 この場を誤魔化したところで意味はありませんでしたが、僕にはそうすることしかできませんでした。



 兄たちにはふさわしくない人だと思ったのです。
 物心ついた頃から、二人の兄は僕の憧れでした。それは今も変わりません。
 だから兄たちの心を掴まえるのはそれにつり合うような人でないといけないと思ったのです。外見はもちろんのこと、内面も僕が尊敬し得るような人であることを望んでいました。今は外見のことは置いておきます。問題は中身です。
 上の兄は見たものを正確に紙に写し取ります。その絵は時には実物よりも本質が現れます。絵の中の彼女を僕は何度も見て常々感じていたことがありました。そして本人を見て確信しました。
 あの人は、僕と同類の人間です。あの怯えた目を僕は知っています。そんな人が、僕が一生追いつくことのない兄たちの隣に並ぶことが許せなかったのです。僕が欲しかった兄たちの愛情を一身に受けていたあの人が羨ましかったのです。
 兄たちと僕の間には壁があります。とても大きな隔たりです。それでも今までは弟という立場がありました。実の兄弟です。本当なら一生近づくことなんてできそうにない人たちは僕のことをちゃんと見てくれました。僕は自ら唯一の特権を手放してしまったのです。兄たちはきっと僕を許しません。





 下の兄と会ってから数日が経ちました。
 学校から帰っていつもはない靴があることに気づいて血の気が引きました。部屋のドアを開けてさらに血の気が引きました。いつか来るとわかってはいましたが、心の準備は全くできていませんでした。
 下の兄が僕の部屋で、壁に寄りかかって座って本を読んでいたのです。考えるまでもなく、僕に用があるようでした。
 僕は声も出せず、その場に立ち尽くしました。
「啓太郎」
 この声で名前を呼ばれるときは、生きた心地がしません。
「何、孝兄」
 できるだけ平静を装って答えましたが、声は明らかに震えて聞こえました。
「次はないから」
 本から顔を上げることもなく、兄はさらりと言いました。僕を問い詰めることもせず、言い訳すら許されませんでした。弟だからと、容赦はしない人間です。
 別に怒鳴られたわけではありません。その声から怒りという感情を読み取れるわけでもありません。でも、でも。
 時々、下の兄は笑いながら人を殺せるんじゃないかと本気で思います。
 今回は何とか許してもらえたのだと遅れて気づき安堵しましたが、次は、本当にないのでしょう。
「ごめ、なさ」
 声にならない声を絞り出すのが精一杯でした。震えの止まらない両手をきつく握り締めます。
 兄は読んでいた本をぱたんと閉じて立ち上がりました。僕は、兄に言わなければならないことがあります。大きく息を吸い込みます。
「あの人は、別に孝兄たちじゃなくてもいいんだよ」
 思ったよりしっかりと声が出ました。兄は僕を真っ直ぐ見つめました。僕も負けないように見つめ返します。あの人は、手を差し出したのが兄たちでなくても、その手を取ったでしょう。縋れるものなら何でもよかったのです。あの、全てに怯えた目を、僕もきっとしています。あの人は僕と同じ、弱い人間です。
「だろうね」
 兄があまりにもあっさり肯定したので、僕は戸惑いました。
「じゃあ、なんで」
「結果的に俺たちのところに来たわけだし、今後放すつもりもないから何も問題ないだろ」
「でも」
「俺たちはあの人じゃないと駄目なんだよ。だから、もし」
 兄は、微かに笑みを浮かべました。下の兄はとても綺麗に笑う人です。だから余計に怖いのです。
「もし、俺たち以外のものを欲しがったら、どうするかわからないけど」
 そのとき初めて彼女に同情し、同時に尊敬の念を抱きました。僕なら逃げます。この兄たちに、ここまで執着されたら。
「いつか逃げられるよ」
 思ったのと同時にうっかり口が滑りました。
「坂口さんは逃げないよ。とても強くて弱い人だから」

 本当は、絵を見たときから気になって仕方がなかったのです。僕と同じ目をした、兄たちに愛されている人のことが。
「謝りに、行きたい。とても酷いことを言ってしまったから」
 下の兄は僕の頭をぽんぽんと軽くたたきました。
「ん。今夜はカレーだって」
 僕はとても幸せだと実感して、あの人とは決定的に違うのだと気づきました。僕の周りはこんなにも温かいけれど、あの人の周りにはきっとそれがありません。あの人を覆っていたのは冷たい空気です。とても、とても冷たくて。どうして気づかなかったのでしょう。もしかしたら、あの人には兄たちしかいないのかもしれません。
 僕は、本当に酷いことをしました。
「あの人、僕のこと何か言ってた?」
 部屋から出ようとしていた兄を引き止めて訊きました。
「何も。いきなり弟がいるかって訊かれて、様子がちょっとおかしかったし、啓太郎が坂口さんに何か言ったんだろうと思ったんだけど。そう言えば、お前、何言ったの?」
「本人に、直接訊いてみたほうがいいと思うよ」
 そのほうが、兄も喜ぶでしょう。



 しばらくしてから、やたらとご機嫌な下の兄にやたらと感謝されました。上の兄も珍しく機嫌がよく、新しいスケッチブックを一冊くれました。余程嬉しいことがあったのだろうということはすぐにわかりました。
 僕の余計な一言が思いがけずいい結果をもたらしてしまったようで、ほっとしたと言えばほっとしましたが正直複雑な気持ちです。謝りに行くタイミングも完全に逃してしまいました。下の兄もすっかりその話を忘れてしまっているようなので今更蒸し返すのも躊躇われました。
 今度、兄たちに内緒で会いに行ってみるのもいいかもしれません。色々話してみたいことがあります。

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