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「不安なら不安ってはっきり言ったらどうですか」
 その一言で、相談する相手を間違えたと浩行は悟った。


  ハレルヤ


 そもそも聖なる夜は二人で過ごしたいなどと女々しい発想をしたのがいけなかったのか。
 昔から、外見からは想像できないほどふてぶてしかった少年は、月日を追うごとに確実にその度合いを増していき、今では浩行の手にも余る勢いだ。
 そんな彼に茜のことを相談した自分の浅はかさを恨むしかない。

 茜にとって自分が特別な存在であることを疑ったことなんてない。しかし茜だっていつまでも小さな子どものままではないし、これからさらに広い世界を知っていくのだろう。だから少しだけ不安になったのだ。
 手を伸ばせば届くところにいる茜を思い切り抱き締められないもどかしさ。茜の態度も果たして素直じゃないというレベルで済むものなのか。
 そんな思いもどこかにあったから、せっかくの休日に、昔からよく知っている少年をわざわざ喫茶店なんかに呼び出して。
 どうでもいい話をしたあとさり気なく、クリスマスに茜を誘うか否か、もし誘うとしたらどうしたらいいだろうかと、尋ねてみた結果がこれだ。

「要は茜ちゃんに異性として意識してもらいたいんでしょ、浩行さんは」
 チョコレートパフェを口に運びながら、佐之介は浩行が言えないでいることをずばずばと言ってのける。
「クリスマスは素敵な人と夜景の見えるレストランで過ごしてみたい」
 佐之介の言葉に、浩行はテーブルに落としていた視線を持ち上げる。
「前に茜ちゃんがそう言ってたんですよね。試しに誘ってみたらどうですか? 雰囲気作りも大切だと思いますよ。浩行さんは普段の状況があれだから色々やると危険そうだけど、特別な日くらいはいいんじゃないかな。あ、でもくれぐれも茜ちゃんを泣かすようなことはしないでくださいね」
 茜が可愛いと絶賛する笑顔を浮かべて。
 昔から妙に大人びていて生意気な子どもだったけれど。
「アキ」
「何ですか?」
「……いや」
 その笑顔の奥に何かを隠しているように感じるのは、ただの思い過ごしだろうか。


「夜景の見えるレストラン、ね」
 佐之介と別れ一人小さく呟きしばらく思案する。
 そんなもので茜の心を捕まえられるのなら。


     * * *


「茜、クリスマスの予定、何か入ってる?」
 休み時間、教室でまどろんでいた茜にクラスメイトの莉緒が声をかける。
「あたし、何の予定もないんだよね」
「クリスマス? あー、もうそんな時期だっけ」
 そう答えながら茜は、昨夜浩行が二十四日は夕飯はいらないと言ってきたことを思い出した。
 年末、仕事が忙しくて帰りが遅くなるのだと思っていたが、クリスマス・イブ。夕飯を作るという面倒な作業が一つなくなったと喜んでいたけれど。
(もしかしたら、誰かクリスマスを過ごす相手がいるのかもしれない)
 胸に覚える嫌な痛み。
 でも夕飯はいらないと言うだけで帰らないとは言ってない。誰かと過ごすと言ったわけでもない。
 そこまで考えて茜ははっと我に返った。
(別にあの人が誰とクリスマスを過ごしたってあたしには関係ないもん)
「バカ兄貴」
「え?」
「え、あ、何でもない」
 思わず声に出していたことに気づき慌てて誤魔化す。
「あ、そうだ、クリスマスパーティーやろうよ! みんなで。ね?」
「パーティー?」
「うん。場所はうちでもいいし。二十四日なら少しくらい遅くまででも多分大丈夫だと思うから」
 とっさの思いつきで言ったものの、なかなかいい案なんじゃないかと茜は思った。 一人でもやもやした気持ちのまま過ごすよりはみんなでぱーっと騒いだほうがずっといい。
「なんか面白そうだね」
「でしょ? 佐和たちにも声かけてさ」


     * * *


「余裕、よっぽどないんだろうな」
 風呂上りにリビングで冷えた牛乳を飲みながらソファーに腰を下ろし、佐之介は息を吐き出すのと一緒に呟いた。
 突然自分を呼び出してきた浩行。ポーカーフェイスに変わりはなかったけれど、今までよりも焦っているように見えたのはきっと気のせいではない。
 昨日の浩行の様子を思い出し小さく笑んだところで電話が鳴った。
「はい、秋山です」
『あ、アキちゃん? あたし。茜だけど』
「茜ちゃん? どうかしたの?」
 声を聞いて自然に頬が緩む。
『うん、あのね学校の友達とクリスマスパーティーをやろうってことになって』
「へえ、楽しそうだね」
『でもいろんな子に声をかけたんだけどみんな予定が入ってて、結局あたしともう一人の友達だけになっちゃって。でね、その友達がアキちゃんを呼んだらって』
「僕を?」
 佐之介は首を傾げた。茜の高校の友達に会ったことはないはずなのに。そのことを言うと照れたような笑いが電話の向こう側から伝わってきた。
『いつもアキちゃんのこと、みんなに自慢してるから』
「ホント? えへへ、嬉しいな」
 自分にはこんなに素直に好意を向けてくるのに浩行には素直になれないのは、それだけ茜にとって浩行が特別な存在だということなのだろうか。
 頭の隅でそんなことを考えながら、佐之介は話を元に戻す。
「それで、そのパーティーっていつやるの?」
『あ、うん、二十四日なんだけど、やっぱり予定入っちゃってる?』
「ううん、大丈夫だよ」
 答えてふと気づいた。
「浩行さんは?」
 昨日の様子だとてっきり二十四日の夜は茜を誘うものだと思っていたけれど。
『お兄ちゃん? その日は夕飯作らなくていいって言ってたから多分遅くなるんだと思う。どうせ誰かとデートの予定でも入ってるんだよ。だからうちでやろうかなって思ってたんだけど』
「……茜ちゃん、それって」
 遅くなるのではなく、浩行は茜と一緒に食事に行くつもりではないのか。綺麗な夜景の見えるレストランなんかで。
 出かかった言葉を飲み込む。
「パーティーのこと浩行さんに言った?」
『まさか。絶対駄目って言われるに決まってるもん』
 ほんの一瞬迷って佐之介は頷いた。
「うん、言わないほうがいいかもね」
 浩行には悪いとは思うけれど。
(まあいいや)
 はっきり言わなかった浩行にも責任はあるのだから。
「クリスマス、楽しみだな」


     * * *


 その日、浩行はとても機嫌がよかった。
 昔から外ではあまり感情を表に出すことなく、それでも表面上はわりと愛想よく人付き合いをこなしてきた浩行だったが、その日は明らかにいつもと様子が違った。
「何かいいことでもあった?」
 昼休み、仕事のスケジュールを頭の中で再確認しながら、自分のデスクで茜の手作り弁当を食べていた浩行に、同僚が声をかけてきた。
 浩行は顔を上げ、隣でコンビニ弁当を頬張っている彼を見る。
「何が」
「いや、何かいつもと違うからさ」
 笑顔が普段よりやたらと多いのは決して気のせいではない。
「それ、彼女の手作りなんだっけ?」
 浩行の手元にある弁当に視線を落とす。最近手作り弁当を持ってき始めた浩行。本人がはっきり言ったわけではないが、否定してこないということはそうなのだろう。
「あ、そうか、今夜は彼女と予定が入ってるのか。ちくしょう、こっちは残業だってのに」
 愛想がいいわりにはどこか近づきにくい雰囲気の浩行に、積極的にアピールする女はそれほど多くはなかったけれど、それでも少ないわけではなく、自分が知る限りではいつも違う女性と付き合ったり別れたりを繰り返していたように思うが。
「ちょっと意外。女とはもっとクールな付き合いしてると思ってた。つうか今まではそうだったよな」
 クリスマス一つでここまで機嫌がいいとは。
「今の彼女、そんなに愛しちゃってるんだ?」
 茶化すように言った同僚に、浩行は小さくため息をついて返した。
「悪いか?」
「え、いや、んぐ」
 思ってもいなかったストレートな言葉に、同僚は食べていた肉団子をのどに詰まらせそうになった。



 その日、茜はとても機嫌がよかった。と言うよりも無理やりはしゃいでいるように見えるな、と佐之介は思う。笑顔の合間に時々小さなため息をついているのを気づかないでいるわけがない。
 料理は茜と莉緒が二人で作り佐之介はクリスマスケーキを用意して、茜の部屋の、小さなテーブルを囲んでささやかなパーティー。
「茜、何かあったの?」
 今日初めて顔を合わせてすぐ打ち解けることができた茜の友人も、茜の様子が気になったのか声をかける。
「え、あ、ううん、何にもないよ」
 茜は少し慌てたように莉緒に返した。
「そろそろ片付け始めようか」
 大好きな友達二人と過ごすクリスマス。とても嬉しいはずなのに心の底から楽しめない。原因は何となくわかっている。ただ、自分が認めたくないだけで。
 茜は小さく頭を横に振って立ち上がった。
「どうしたの?」
「ちょっと水飲んでくる」
 佐之介に答えてから部屋を出てキッチンに向かう。蛇口をひねろうとした右手を寸前で止めて代わりに冷蔵庫の扉を開けた。目的のものはすぐに見つかった。浩行が買ってきたのか、それにしては飲んでいる気配がない数本の缶ビール。そのうちの一本を取り出して扉を閉める。
 ここ数日浩行の帰りが極端に遅くなった。それでもどんなに遅くなっても夕飯は家で食べていたし、いらないとわざわざ言ってきたのは今日だけだ。
 見知らぬ女性とワインの入ったグラスを合わせる浩行の姿が頭に浮かぶ。
「バカ兄貴」
 呟くのと同時にプルタブを引いた。少しだけ口にして茜はすぐに顔をしかめた。
「まず……」
 この味がおいしいと思えるようになるときが本当に来るのだろうかとどうでもいいことを考えながら、その液体を無理やりのどに流し込んだ。

「ぐっもーにーん、えぶりばでぃー!」

 声と共にドアが開いた瞬間、茜が戻ってくるのをのんびり談笑を交えつつテーブルの上を片付けながら待っていた佐之介と莉緒は文字通り固まった。
「あ、茜ちゃん……?」
「はーい、茜ちゃんでーす。あははははー」
「どうしたの? 顔真っ赤だよ」
「どうもしないよー。莉緒は相変わらず可愛いねー。アキちゃんも可愛い。みんならい好きー」
 莉緒と佐之介は顔を見合わせた。
「茜、酔ってる?」
「みたいだね」
 水を飲みに行ったはずの茜に一体何が。
 茜はおぼつかない足取りで、ドアを背に、顔だけ茜のほうに向けた莉緒の元に歩み寄り、力が抜けたように膝をつくと後ろから莉緒に抱きついた。
「おわ、ちょっ、茜、重……いっ」
「うふふー、莉緒ちゃーん、好きよー」
 背中に全体重をかけられた莉緒は、何とか首に絡みついた茜の両腕を解こうとするがうまくいかない。佐之介は慌てて立ち上がって莉緒に覆いかぶさった茜を引き離す。
「やだー、莉緒ー」
 佐之介が後ろから茜を押さえている隙に莉緒はその場から何とか離れた。
「莉緒ちゃん、そろそろ時間も遅いし茜ちゃんもこんなだし、今日はもう帰ったほうがいいよ」
 佐之介に言われ、莉緒は佐之介に両腕を押さえられながらもまだじたばたと抵抗している茜を見る。確かにそろそろ帰らないと門限にも間に合わない。怒った父親の顔を思い浮かべて頷いた。
「でもアキちゃんは?」
「僕は大丈夫。あとは任せて。帰りはちゃんと送るつもりだったんだけどごめんね」
「ううん、あたしのほうこそ後片付け最後まで手伝えなくてごめんね。今日は本当に楽しかった。それじゃあ、茜のこと頼むね」
 莉緒は部屋の隅に置いていたコートとマフラー、それから鞄を手にすると立ち上がった。バイバイと二人に小さく手を振って部屋を出る。
「茜、大丈夫かな」
 玄関で手早く帰り支度を済ませるともう一度茜の部屋のほうに視線を向けた。一度小さく息を吐き、ドアを開けようと莉緒の右手がノブを掴むよりも先に、ドアが外から開けられ莉緒はそのままの体勢で止まった。それはドアを開けた人物も同じだった。
「……どちら様でしょうか?」
 数秒思い切り見つめ合った後、浩行は何故か我が家から出て来ようとしていた見知らぬ少女に問いかけた。
「え、あ、あたし、茜の友達で」
 いきなり目の前に現れた、黒いコートに身を包んだ眼鏡の若い男。茜の父親という年にはどうやっても見えない。一体何者なのだろう。
「ああ、妹がいつもお世話になってます」
 外用の、茜が言うには嘘くさい笑顔を浮かべた浩行に、莉緒は思わず口を開いた。
「え、茜、一人っ子って」
 つい最近、茜の口から同じような意味のことをはっきりと聞いたから間違いはないはずだ。
(それに、茜だったらこんな素敵なお兄さんがいたら絶対教えてくれるはずなんだけど)
「妹とは少し前まで離れて暮らしていたから」
 完璧な作り笑顔をはり付けたまま、浩行はドアを大きく開けた。
「今から帰るところなら、駅まで送りましょうか?」
「あ、いえ、そんな、大丈夫です。それよりも茜のことお願いします。お邪魔しました」
 友人の紳士的な兄に何故か気圧され、頭を下げた莉緒は一気にそれだけ言って、逃げるようにその場を離れた。

「あのバカ、何考えてるんだ」
 こんな大切な日に家に友達を呼ぶなんて。
 静かにドアを閉めた浩行は見慣れないスニーカーがあることに気づいた。まだ誰かいるのか。苛立つ心を抑えながら、靴を脱ぎ入ってすぐ左側にある茜の部屋の前に立った。ノックしようと上げた右手を、ドアの向こう側から聞こえてきた茜の声に止められる。
「アーキちゃーん」
 浩行もう一度玄関にあったスニーカーに視線をやる。男物には見えなかったが、まさか。
 勢いよくドアを開けた浩行の目に飛び込んできたのは、標的を莉緒から佐之介に変えた茜が、ちょうど佐之介を押し倒している光景だった。
 何かを考えるよりも先に体が動いて茜を佐之介から引き離し、自分の腕の中に収める。
「アキ、お前」
「浩行さんお帰りなさい。思ってたよりも遅かったですね」
 ゆっくりと起き上がった佐之介は悪びれる様子もなくしれっと言った。
「どういうつもりだ」
 佐之介は茜を抱き締めたまま自分を見下ろす浩行を見上げた。
「クリスマスパーティー。茜ちゃんが誘ってくれたんです。あ、僕は何もしてないので変な誤解しないでくださいね」
 無実を証明するかのように両腕を上げる。少しからかうくらいはしても、浩行を本気で怒らせるつもりはない。
「だったらどうして」
「どうしてってそれは茜ちゃんに聞いてください。押し倒してきたのは茜ちゃんですよ」
 浩行は腕の中で大人しくなっていた茜の顎を掴み、顔を上に向けさせる。焦点の定まらない視線と真っ赤になった顔。
「また、飲んだのか」
 あれだけ酒は飲むなと言っておいたのに。とりあえず家にあるアルコール類はあとで全部処分することにして。
「それに浩行さんに人を責める資格はありませんからね。今日のこと茜ちゃんにちゃんと言わなかったでしょ。誘うならもっとはっきり言ってあげないと。茜ちゃん、浩行さんは別の女の人とクリスマスを過ごすんだと思ってましたよ」
 いつの間にか自分の胸に顔を埋めている茜をもう一度見る。
「この、バカネ」
 それからはっと気づいて佐之介を睨む。
「お前、わかってたんだったらどうして言わないで」
「だってせっかく茜ちゃんが誘ってくれたのに、断れるわけないじゃないですか。僕は浩行さんと違ってなかなか茜ちゃんと会える機会がないし。それにほら、僕、浩行さんが家を出た後だって茜ちゃんの様子伝えたりとか、今まで浩行さんのために色々働いてきたんだから、そのご褒美ということで」
 よく言う。電話で済む話を、わざわざ直接会いに来て、その度に人にあれこれおごらせていたのはどこの誰だ。そもそも「茜ちゃんのこと、教えてあげましょうか」と先に持ちかけてきたのは佐之介のほうだ。その話にうっかり乗ってしまった自分の甘さを悔やんでももう遅いが。
「とにかく、そういうわけなのでお咎めはなしでお願いします」
 にっこり笑う佐之介はやはり食えない奴だ。
「それじゃあ、そろそろ二人きりにして上げますね」


 茜と二人残されて、浩行は腕の中の体温を意識する。
「茜」
 半分眠っているのか、目を閉じたまま僅かに頭を動かしただけだった。
 せっかく予約したレストランは無駄になってしまった。肝心の茜は夢の中。
 制服姿のままの茜をベッドに静かに横たえ、布団をかけた。あどけない寝顔は昔と少しも変わらない。
 この日のためにただでさえ膨大な量の仕事を無理なスケジュールでこなし、それでも今日早めに切り上げた分はまた明日から取り返さなければならない。
 誰のために頑張ったと思っているのだと、茜に僅かな苛立ちを覚えるものの佐之介の言う通り、確かにはっきり茜に伝えなかった自分も悪かったのだろう。腕時計を見る。さすがに今から会社に戻る気にはなれない。
 処分するついでに冷蔵庫に入れたままになっていたビールでも飲んでさっさと寝ようと、茜に背を向けたその時だった。
「お兄ちゃん」
 むくりと上体を起こした茜が浩行を呼び止めた。浩行は小さく息をついてから振り向く。
「何だ」
「忘れ物」
 寝ぼけているのかと怪訝に思いながらも、手招きされるままに身を屈める。
「目つぶって」
 疲労感からか深く考えることもせず言われた通りにすると、茜が少し動いたような気配がして。

「クリスマスプレゼントー。なんちゃっ、て」

 目を開けると赤いままの、無邪気な茜の笑顔が枕に沈み込むところだった。そして何事もなかったかのようにその笑顔が実に幸せそうな寝顔へと変わった。
 自分の左の頬に手を当てる。
 そこに一瞬触れていったものが茜の唇だということに気づいた瞬間、浩行はその場に崩れ落ちるようにしゃがみ込んだ。
 この間訪ねたばかりの友人の顔を思い浮かべる。今夜も彼の家へ避難したほうがいいのかもしれない。
「人の気も知らないで」
 思わず零れた言葉は茜に届くことなく空に散った。



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