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 それは一夜の過ちか。


  Good night.


 微かに響いたドアの開く音に、浩行はまぶたを持ち上げた。
 そのまま薄闇に浮かんだ人影をぼんやり眺める。
「……っ、う……ひっく」
 耳に届いた嗚咽、そして次第にはっきり見えてきたその人影に浩行は一気に覚醒した。
 それから目を閉じひとまず眠ったふりをする。
 ドアが静かに閉められる音がして、小さな足音が近づいてくる。それとともに高鳴る心臓。
「えく……っ」
 声が出ないように必死に堪えているのだろう。浩行は気づかれないように深く息を吐き出す。
 思えば茜がこうやって自分のところにやってくるのは久しぶりだ。
 少し前までは両親のいない夜は一人では寝られないのか頻繁にやって来たが、小学校に入ってからは妙に強がって、以前のように布団にもぐり込んでくることが少なくなった。
 今夜は余程怖い夢でも見たのだろう。
 ベッドのスプリングがきしむ。布団に入り込んでくる自分以外の体温。
「う、ぐ」
 必死にしがみついてくる小さな体に、意思とは関係なく自然に口元が緩む。

『今日はね、さっちゃんと遊んだの』
『アキちゃんっていう子がいてね、すっごくかわいいんだよ』
『今日の給食はカレーだったよ。給食ってどうしていつもあんなにおいしいんだろ。おにいちゃん、知ってる?』

 自分と遊ぶかわりにさっちゃんと遊ぶことを選んだ茜は、アキちゃんよりも絶対に可愛くて給食よりもきっとおいしい。
(……おいしいって、何を考えてるんだ俺は)
 くだらない考えを、僅かに頭を振って追い払う。
 妙に腹が立ったから一度、そんなに学校が好きならずっと学校にいろと家から閉め出してやったにもかかわらず、茜は少しも懲りずに嬉しそうな顔で報告してくる。
(人の気も知らないで)
 近頃茜の口から出てくるのは学校の話題ばかり。自分につきまとってくる時間も随分減った。おまけに、少しばかり反抗的になったような気がする。
(ちょっと前までだったら、俺の言うことは何でも信じたし、やれって言ったら泣きながらでもやったし)
 望んでいたはずのことなのに、いざそうなってみるとどうしても寂しさを感じてしまう。
 だからと言って、風邪をひいて休んだ茜の見舞いに来た少年にやつ当たりをしたのは、我ながら大人気なかったと思う。自分よりもはるかに年下の小学生に向かって。
 ――矛盾してるな。
 浩行はもう一度小さく息を吐き出した。



 腕の中でぐずぐず言っていた茜が、いつの間にか静かになったことに気がついた。
 茜を起こさないように、その小さな体をすっぽりと腕の中に納める。
「茜……」
 丸まった背中を撫でながら、名前を呼ぶ。
 今この瞬間は、茜は誰のものでもなく自分だけのもの。
 涙の跡が残る目元に唇で触れる。少しだけくすぐったそうに身を捩った茜が目を覚ます気配はない。
(服、脱がせても気づかないだろうな。鈍いから)
 柔らかい頬を人差し指でつつき、唇を押し付けてから首元に顔を埋めた。
 まだ赤ん坊の頃のようにミルクの匂いがするのは気のせいだろうか。
 甘い匂い。
(たべたい)
 湧き上がった衝動に任せて小さくて柔らかい、今は少し乾いている茜の唇を舐める。
 どんな料理よりもこっちのほうがおいしいと感じるこの舌は、もしかしたら異常なのかもしれない。
(もしかしなくても異常だ)
 とりあえず開き直ってから、浩行はその小さな唇に自分の唇を重ねた。

「ん……」

 思いの外深くその行為に熱中していることに気づき、さすがの浩行も我に返った。
 たとえ血の繋がりはないとは言え仮にも妹、それもまだたった七歳の少女に一体何をしているのだろう。
(茜が悪い)
 誰にともなくまるで子供のような言い訳をする。
「悪いのは茜」
 自分に言い聞かせるように呟いてから、浩行は床に寝かせるべく茜の小さな体を抱き上げた。
 毎回床に放り出されていれば、寝ている間に可愛がられているなんて茜は思いもしないはずだ。
「んにゃ……」
 不意に聞こえた声に危うく茜を床に落としかける。
「おにいちゃーん……だいすきー……」
 自分のシャツをしっかり握り締めてくる小さな手。
 実に幸せそうな笑みを浮かべて、どうしてそういう寝言を。

「この、バカネ」

 暴走しそうになる別の感情を誤魔化すための、理不尽な苛立ちをぶつけられる茜は可哀想だけれど、その原因を作っているのはいつも茜自身だ。
 起こさないように床の上に茜をそっと寝かせ、浩行はベッドに戻り布団を頭から被った。 
(茜はまだ小学生。茜はまだ七歳。まだ七歳……)
 幼い妹に一瞬でも、いつも以上のよからぬ感情を覚えた自分に恐怖と嫌悪を感じながら、呪文のように何度も繰り返す。


 立花浩行十七歳、試練の夜。



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