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クソ兄貴が家を出た日。それはあたしがクソ兄貴から解放された日であり、クソ兄貴に見捨てられた日でもあった。
あらしのあと
それまで散々いじめられて、数えきれないほどひどい目にあっていたけどクソ兄貴はうちに帰ってきた。あたしの傍にいた。
クソ兄貴が帰ってこなくなってあたしがどれだけ傷ついたか、自分でも正直認めたくないくらいでクソ兄貴は夢にも思わなかっただろう。
クソ兄貴のワイシャツを干しているだけで涙が出てくるなんて、ちょっと恋する乙女すぎやしないかあたし。
干したばかりのワイシャツで涙を拭ってやりたいのは我慢してあたしは灰色のパジャマと紺色のカーディガンの上に羽織っていた赤いはんてんの袖で顔を擦った。
昔と今は全然違う。昔ほどの嫌がらせはないし何よりここはクソ兄貴のうちで、帰ってこないなんてことはない。
朝帰りは、あったけど。
いいほうに考えようとして失敗した。
朝帰りのクソ兄貴からした香水のにおいを思い出して吐き気がした。
朝帰りもクソ兄貴から女物の香水のにおいがすることも今はもうないからあれは、やっぱり彼女ではなかったんだろう。彼女じゃないならいいわけじゃないけど。
どっちにしろクソ兄貴に今特定の彼女がいないのははっきりしている。休みの日は買い物以外は大抵家にいるし。でもそれは今の話。
クソ兄貴とちゃんと付き合っていた彼女。一人、二人、それ以上? いつ、どれくらい付き合っていたんだろう。どんな人だったんだろう。
考えても仕方がないことが、今まで以上に気になって仕方がない。
あたしの知らないクソ兄貴。
昔から知らないことのほうが多かったけど、それでも確かに同じ場所で同じ時間を過ごしていた。
でも家を出てしまった後クソ兄貴は完全にあたしとは切り離されたところにいた。それがどうしようもなく悔しくて、あたしは冷たい風の吹きすさぶベランダに立ち尽くしたまま鼻をすすった。
クソ兄貴の存在をなかったことにしていた七年間。クソ兄貴のそれまでのひどい仕打ちだけが原因じゃなかったって今ならわかる。あたしが忘れたかったのは、悪魔のようなクソ兄貴にいじめられてきたことよりも、大好きなお兄ちゃんが帰ってこなくなったこと。
そうでもしないとあたしは耐えられなかったのだろう。クソ兄貴がいなくなってしまったことに。
寒空の下いつまでもぐずぐずと考えていられたけど鼻水だけでなくくしゃみまで出てきたから部屋に引っ込むことにした。
今日は土曜日。風邪でもひいたらクソ兄貴に嫌がらせのような看病をされるかもしれない。今のあたしには何よりも効果的な嫌がらせだ。
クソ兄貴は朝食後さっさと自室に戻っていた。家にいるときは基本的に自分の部屋にひきこもっているからきっと今日もお昼になるまで出てこないだろう。
極力顔を合わせたくないからありがたといえばありがたいけど、どこかで寂しいと思う自分がいることを、今のあたしは簡単に認めてしまう。
一緒にいたい。甘えたい。小さい頃なら恥ずかしがることもないクソ兄貴への欲求は、数ヶ月後には十八の誕生日を迎える今となっては大っぴらには口にはできない。兄妹としてのそれなら余計に。
おまけに兄妹でいたいあたしはそれ以上の感情も抱えている。クソ兄貴と一緒にいたいのは一体どっちのあたしなのかわからなくなる。
「めんどくさ」
リビングのソファの上で膝を抱えたまま体をごろんと横に倒した。
クソ兄貴が傍にいなければ結構冷静でいられる。だから余計なことをどんどん考えて、最終的にはいつも面倒くさくなって考えるのをやめてしまう。
あたしは本当にどうしたいのだろう。
ひとしきりソファでごろごろして、あたしは何を血迷ったのかクソ兄貴の部屋の前にいた。
一応はんてんは脱いで寝癖だらけだった髪も直した。
妹として、暇な休日の時間潰しに「お兄ちゃん」に付き合ってもらう。そういうシナリオなら普通に一緒にいられるんじゃないかと思ったけど、ドアをノックする前からすでに心臓は爆発寸前だった。
あたしが考えたシナリオ、ちょっと不自然じゃないか。だって暇な休日の時間潰しにクソ兄貴に付き合ってもらったことなんて今まで一度もない。
そもそもここしばらく、あたしはクソ兄貴を不自然に避けていた。食事の時間も無言でいることのほうが多い。それなのに急に「遊びに来ちゃった」とか、どの口で言うつもりだったんだあたし。
この作戦はなしだ。
あたしは早急にリビングに戻ることにした。それでこの作戦の存在は完全に抹消できたはずだった。何か面白いテレビやっていたっけと足を動かす前にその場で考えてしまわなければ。
「何」
ドアのノブが回った瞬間、たった今部屋の前を通り過ぎようとしているふうを装えればよかったけど、残念ながらあたしは間抜けにもドアを開けたクソ兄貴と真正面から向かい合って立ち尽くしていた。
「え、いや、ほら、その」
非情にもあたしの頭はあたしを置いて現実から逃避した。そのせいであたしは何の言い訳も思いつかず抹消するはずだった作戦通りのことを口にした。
「暇だから一緒に遊ぼうと思って」
「は?」
クソ兄貴は「何言ってんだこいつ」と言わんばかりの目をあたしに向けた。やっぱり作戦を中止する判断は正しかった。この状況ではもう意味がないけど。
「忙しいなら、いい」
ものすごいいたたまれなさと闘いながらその場から去ろうとしたあたしを、何故かクソ兄貴は引き止めた。
「遊ぶって何で?」
しまった、そこまでは考えてなかった。あたしは次々と見つかる作戦の穴に自分の間抜けさを痛感しながらまた逃げようとする頭をどうにか捕まえた。
真っ先にカードゲームが浮かんだけどトランプなんて持っていない。道具のいらない遊びならどうだ。
「しりとり!」
思いついたものをそのまま声に出していた。クソ兄貴のバカを見るような視線が痛くて目を逸らした。
「そんなにしたいならしてやってもいいけど」
何の気紛れかしりとりをすることに同意したクソ兄貴に促されて、あたしはおそるおそる悪魔の根城に足を踏み入れた。
相変わらず几帳面に片づいている部屋だ。
一応掃除しているのはあたしだけどあたしが任されているのは、大きく言えばゴミ箱のゴミを捨てて埃を払って掃除機をかけることくらい。クソ兄貴の部屋に置いてあるものに勝手に触ったらどうなるかということは初めて掃除を命じられたときにすっぽんのようなしつこさで脅された。もちろんそこまで触られたくないなら自分で全部掃除すればいいのにとは思ったけどそんなことを言ってもさらなる脅し文句が待っているのはわかりきっていたから、今日に至るまでクソ兄貴に言われた通りにしている。
家具は黒で統一されていて、大人の雰囲気を漂わせているのがなんだか悔しいと部屋に入る度に思う。
クソ兄貴はベッドに腰を下ろしたからあたしは机から椅子を引き出してクソ兄貴のほうに向けて座った。
座って落ち着いたら、クソ兄貴と同じ部屋にいるという現実がのしかかってきた。
クソ兄貴を避けていたのは今まで通りのあたしでいるのが難しいから。それでも、クソ兄貴と一緒にいたいと思ったから今ここにいる。
「あ、あたしからね。しりとりだからえーと、りんご!」
「ゴマ」
「窓」
「ドア」
「餡子」
何やってるんだろうあたし。クソ兄貴を見たら車の雑誌を眺めていた。片手間に相手にされている気がしてちょっとむっとした。
「鯉のぼり」
「リス」
「ストロー」
「……飽きた」
意外と、クソ兄貴の前でも平気でいられたからわがままな妹をやってみたくなった。
「なんか面白い話して」
クソ兄貴はあたしの言葉を無視した。無視されたあたしは椅子を回して机のほうに向いた。黒い机の上には電源の入っていないパソコンのモニターとキーボードが置いてある。万が一触って壊しでもしたら大変だからまた椅子を回して横を向いた。視界の外にいるクソ兄貴が動く気配はない。
「茜」
油断しきっていたところに名前を呼ばれて椅子を大きく鳴らしてしまった。
「な、何」
顔だけクソ兄貴のほうに向けた。クソ兄貴は雑誌に視線を落したままだった。
「何か用があるなら早く言え」
「だから、用なんてないよ。暇だったから」
気まずい沈黙の後、あたしは思い切って口を開いた。
「……お兄ちゃんの」
「あ?」
膝の上に置いた手を睨みながら、なんでもないことみたいに訊いてみる。
「お兄ちゃんの元カノってどんな人?」
「……それをてめえが知ってどうすんだバカネ」
「別に、どうもしないけどちょっと気になったから。今まで何人くらいと付き合ったことあるのかとか。後学のために」
意味のわからないことをつけ加えてしまったあたしはいよいよ顔を上げられなくなった。
「一々覚えてない。こっちが付き合いたくて付き合ってたわけじゃねえし」
最低なクソ兄貴にうっかり少しだけ安心した。
「でも、付き合ってたことに変わりはないじゃん」
あ、しまった、声が震えた。
それに少なくとも、結婚を考えて広い家を探そうと思った相手が一人はいたはずだ。
今さら気にすることじゃない。クソ兄貴はあたしより十年も先に大人になった。だから仕方ないことで。
自分を納得させるための言葉は、今のあたしにはなんの効果もなかった。
クソ兄貴が熱を出したときのことを思い出す。あのときもこんな気持ちになった。クソ兄貴が知らない誰かと愛し合っていたという事実を思い知って。
嫌だ。クソ兄貴がただの「お兄ちゃん」ならこんなこと思わなかったのに。妹としてクソ兄貴をとられたことに小さなやきもちをやくことはありえないことではないかもしれない。でも、あたしのは全然小さくない。こんなに、泣きわめきたくなるくらい。
「そんなもん気にしたって過去はどうにもなんねえだろ。俺の未来は全部茜にやるからそれで我慢しろ」
うっとうしい妹の相手を面倒くさそうにしているみたいに、なんでもないことみたいにクソ兄貴は爆弾みたいな言葉を放り投げた。
サーモグラフィであたしの顔を見ていたら面白いことになったかもしれない。
熱すぎる顔が何色をしているのかは自分でよくわかったからあたしはもっとクソ兄貴に顔が見えないようにクソ兄貴に完全に背中を向けた。
クソ兄貴の気持ちを、あたしはもう知っている。その証拠の婚姻届もあたしの机の奥で眠っている。でも、クソ兄貴は時々兄妹らしからぬ言動をしつつもあたしの兄妹ごっこに付き合ってくれている。
だから、全部あたし次第なんだ。
兄妹ごっこを続けるのも、やめて赤の他人としてクソ兄貴と向き合うのも、あたし次第。
「お兄ちゃんは、あたしが一生兄妹でいたいって言ったらどうするの」
兄妹のまま、一生一緒にいてくれる?
クソ兄貴は何も答えてくれなかった。その代わりに立ち上がった気配がした。てっきり部屋を出て行くのだと思っていたら。
「う、わ」
いきなり椅子をぐるっと回されてクソ兄貴と向き合わされた。
思わず上げた顔に影が落ちた。
頭をがっちりつかまれて、どうにもならない状態でキスされた。キス。頭が真っ白じゃなくて真っ赤に燃え上がったみたいになった。
乱暴に押しつけられた唇はすぐに離れたけどクソ兄貴の顔は至近距離にあって押さえつけられた頭は動かせなくて、その距離で見つめられた。というか睨まれた。
「てめえは、本当にそれでいいのか」
いつもよりもさらに低い声と鋭い目があたしに向けられる。
「だって」
兄妹なら無条件で一生繋がっていられる。
「だって、兄妹じゃないといつか繋がりが切れちゃう」
本当はもう兄妹じゃなくて、クソ兄貴に突き放されればそれで終わってしまうから無意味なことを言っているのはわかっている。でもあたしの気持ちはそれを受け入れられない。
「そんなもん、兄妹じゃなくたって切りたくても切れねえよ。一生兄妹ってことは、お互いそれぞれ別の家族を持つってことだろ。俺は茜以外の誰かと結婚して、茜は俺以外の誰かと結婚する。本当に、それでいいのか」
家族。別の。
「嫌だ。あたし、誰とも結婚しない。だからお兄ちゃんも」
あたしのバカな発言にクソ兄貴はため息をついた。
「俺は」
クソ兄貴にじっと見つめられる。
「本当の家族が欲しい」
一瞬、吸った息を吐き出せなかった。
あたし、本当に大バカだ。あたしが生まれる前のことを誰も教えてくれなかったしあたしも聞かなかったからクソ兄貴に何があったのかわからない。でも、想像くらいはできる。あたしには当たり前のように両親がいてクソ兄貴がいたけど、クソ兄貴は違った。だからうちに来た。
あたしにとっては誠さんも容子さんもクソ兄貴も全部丸ごと家族で、誠さんと容子さんもそれは同じで、でも、クソ兄貴はそうじゃなかったんだ。しょせん、他人。他人の家族の中にいた。クソ兄貴はずっとそう思っていたんだ。
ごめんなんて、言えないくらいひどいことを言った。でも。
「なんでそこで泣くんだよ」
いつの間にか視界が涙で滲んでいた。
「お兄ちゃんが、ひどいこと言うから」
あたしもひどいけどクソ兄貴もひどい。本当の家族って、何。クソ兄貴と過ごした十年間はなんだったの。
「誠さんも容子さんも、あたしだってお兄ちゃんのこと他人だなんて思ったことない! 血なんて繋がってなくても本当の家族だよ!」
クソ兄貴が自分の家庭をもちたいと思うのをどうこう言いたいんじゃない。ただ、あたしが感じていた家族としての繋がりが一方的なものだったことがどうしようもなく悲しかった。
「本当の家族だもん……!」
滲んだ視界がクソ兄貴のシャツでふさがれる。
思わず息を止めてしまうくらい、やさしく抱き締められた。
「ごめん」
クソ兄貴の声でクソ兄貴が絶対に言わないような言葉が聞こえて自分の耳を疑った。
「言い方が悪かった。誠さんと容子さんと、それに茜には感謝してもしきれない。何よりも大切な家族で、だからこそ俺は自分でそういう家族を作りたい。茜と」
止めた息を吐き出すタイミングを失ったまま酸欠になりそうだった。本能が酸素を欲してあたしはやっと呼吸を再開した。
あたしの心臓、今どうなっているんだろう。体を突き破って出てきてしまわないか本気で心配になるくらい暴れていて、もしかしたらクソ兄貴にもこの鼓動が伝わってしまっているかもしれなくて。
「返事は」
プロポーズらしきものをされたのはこれが初めてじゃない。でも、今までとは違う。あたしはクソ兄貴への気持ちを認めてしまっている。
クソ兄貴と家族になる。昔とは違う形で。
今の状態がただの兄妹ごっこなのはわかってる。兄妹としてクソ兄貴とずっと繋がっていられると思い込める代わりに、クソ兄貴が作る家族の中にあたしはいられない。
でも、紙切れ一枚で簡単に壊れてしまう関係になる覚悟もできなくて。
考え出すときりがなくて、そんなときは初心に帰るに限る。
あたしにあるのは昔からたった一つだけ。
「あたしは、お兄ちゃんと一緒にいたい。ずっと」
妹だとか他人だとか、全部抜きにして残るのはそれだけ。
生まれたときからあたしの世界にはクソ兄貴がいた。
いるのが当たり前で、いないのはおかしくて、自分の記憶から存在自体を消してしまおうとするくらいありえないことで。
どんなにひどいことをされようと、それがあたしの望むことだった。
「死ぬまで一緒にいて」
クソ兄貴に引っ張られるようにして立たされる。一瞬圧死させられるんじゃないかと思うくらい強く抱き締められた後、クソ兄貴の腕が緩んで解放された。と思ったら、クソ兄貴の両手があたしの二の腕をがっちり掴んだ。
「茜」
腕が痛いと、抗議するつもりでクソ兄貴を見上げた。クソ兄貴と目が合った。この目を、あたしは知っている。熱を孕んだ目。本能が危険を察知しても体がついてきてくれなかった。
もう一度、抱き寄せられる。クソ兄貴の左腕があたしの腰に回されて、右手で頭を押さえられて、顔が迫ってくる。逃げ場はない。逃げられない。だから、受け入れるしかない。受け入れてもいい。
わけのわからないことを考えながら目を閉じた。
唇が合わさって、それで終わりじゃなかった。舌が触れ合う。湿った感触が強制的にクソ兄貴の熱をあたしに伝えた。あたしの熱も、クソ兄貴に伝わってしまう。
唇が離れて、また触れて、繰り返すごとに長く深く繋がる。クソ兄貴と。
こんなに激しく誰かを求めるクソ兄貴を、あたしは知らない。
「……っ、は……あ……っ」
どれだけそうしていたのか、やっと解放されたときにはあたしは息も絶え絶えだった。
見上げたクソ兄貴の顔は涙で滲んでいた。頭からつま先まで体中真っ赤になってしまっている気がする。
「茜」
抱き寄せられた体勢のままクソ兄貴に頭を撫でられる。流すつもりなんて全然なかった涙が溢れて、あたしはクソ兄貴の胸に顔を埋めた。
「お兄ちゃん、好き。大好き」
あたしの頭を撫でる手がやさしすぎて、絶対に言えないと思っていた言葉が涙と一緒に簡単に溢れてしまった。
言ってもクソ兄貴との繋がりは壊れない。こうしてクソ兄貴の体温を感じていられる。そう思ったら余計に涙が出てきた。
背中をさすられながらクソ兄貴の胸でぐずぐず泣いていたあたしの頭から徐々に熱がひいていく。それと同時に勢い余って告白まがいというか思い切り告白してしまった現実に血の気もひいていく。
あんな、キスまでして。クソ兄貴と。
ひいた血の気が一気に戻ってくる。
あたしはもう、クソ兄貴と兄妹でいられない。
その事実をどうにかのみ込もうとする。
あたしはクソ兄貴と一緒にいたい。関係の変化はそれに必要なこと。だから大丈夫。大丈夫だあたし。落ち着けあたし。
何度も自分に言い聞かせてみたけど、今まで兄妹としてでしか向き合ったことのなかったクソ兄貴と、これからどんな顔をして向き合えばいいのかわからなくて、不安になって縋りつくようにクソ兄貴のシャツを掴んでいた手にさらに力を込めた。
「どうした?」
心なしかやさしい声が上から降ってくる。こんな状態で顔なんて上げられるわけがない。クソ兄貴の腕の中は心地いいのに、あたしの心臓はまだまだ暴れ足りないらしい。
「これからは」
「ん?」
「これからは、なんて呼べばいいのかな、とか」
とんでもなく恥ずかしいことを言ってしまった気がする。「お兄ちゃん」以外の呼び方をしようとするってことはつまり、そういうことで。
「普通に、名前で呼べばいいだろ」
「じゃあ……ひ、ひろ、浩行、さん……?」
言ったそばから鳥肌を通り越して鳥になりそうな勢いだった。
「や、やっぱり今のはなしで! なんか気持ち悪かった! 無理!」
反応がなくておそるおそる顔を上げたら眉間にくっきり刻まれたしわが目に飛び込んできた。
クソ兄貴も相当気持ち悪かったらしい。
「やっぱりまだ普通に『お兄ちゃん』で――」
「バカネ」
明らかに怒気を含んだ低い声に肩が竦んだ。
「ごめ――っ」
自分から名前で呼べと言ったくせにそんなに嫌だったのかと反射的に謝りそうになったら耳を噛まれた。
「なななな何!」
「こっちがどれだけ我慢してやってると思ってんだ」
「な、なんの話」
「今までキスだけで済んでたのが奇跡だって話」
クソ兄貴の言葉の意味がわからないほど子供でも、聞かなかったことにできるほど大人でもないあたしは、顔が燃えそうになるのを止める術を持っていなかった。
「なんか、そういうのはいいっていうか、無理っていうか」
自分が何を言っているのかもよくわからない。
「子供はこうのとりが運んでくるわけじゃねえってわかってんのか? いずれはすることだろ。いい加減少しは大人になれ。それが無理ならせめてもっと自覚を持て」
本当に発火してないかあたし。
あたしはただクソ兄貴と一緒にいたいだけで、 でも、家族に、夫婦になるってことはつまり、そういうことも含まれるということで。
「す、鈴ちゃんって覚えてる?」
「……は?」
クソ兄貴に抱き締められたままのこの状態。クソ兄貴の機嫌が悪くなれば嫌というほどよくわかる。でもそれを無視して無理やり話を続ける。
「映画見に行ったときに駅前であった子」
「覚えてるけどそれがなんなんだよ」
「鈴ちゃんにはね、年上のやさしい彼氏がいて、デートの話とか聞かせてもらうといつも楽しそうでいいなって思って」
そのときの憧れの気持ちを思い出す。無意識のうちに自分の相手にクソ兄貴を思い浮かべて鳥肌を立てながら慌てて振り払ったことも。
「何が言いたいんだてめえは」
今すぐ大人になれないあたしは、一歩ずつ進むしかない。だから。
「だから、あたしもか、彼氏が欲しい!」
「何を、言ってんだてめえは」
「お兄ちゃんだって、彼女がいてデートとかしたんでしょ。あたしだって、そういうことしたい。お兄ちゃんと」
恥ずかしさに勝てなくて思い切りクソ兄貴から目を逸らした。
「最初からそう言え。紛らわしいんだよ」
クソ兄貴はどうやらまた勝手に変な勘違いをしたらしい。クソ兄貴と違って、あたしにはクソ兄貴しかいないのに。
「……恋人でも、することはするぞ。やさしくしてやる余裕なんてねえから、覚悟しとけ」
耳元で言われて肌が粟立った。
物騒なことを口にしたクソ兄貴の手は、そのわりにはやさしくあたしの頭を撫でたからあたしはクソ兄貴を突き飛ばさずに済んだ。突き飛ばそうとしたところでがっちりあたしを捕まえているこの腕からは逃げられないだろうけど。
あたしも必死だけど、あたしよりずっと大人なはずのクソ兄貴の言動も、さっきからなんだか必死だ。
そこまで考えてふと気づく。
「そう言えば、お兄ちゃんはなんであたしなの」
あたしは当たり前のようにクソ兄貴が好きだったけど、クソ兄貴もそうとは限らない。
今まで女の人なんて選び放題だっただろうし現に付き合っていた人がいた。わざわざ色々面倒くさいあたしにしたそれなりの理由があるはずだ。
「今さらそれを訊くのか」
鼻で笑われた。確かに自分でもなんで今まで気づかなかったのか不思議だけど。
「あ、あたしは多分小さい頃からの刷り込みが原因だろうけど、お兄ちゃんはあたしが赤ちゃんの頃のことだって覚えてるわけでしょ?」
しかもあたしが十歳の頃に家を出てその後七年もの間音沙汰もなかったのだ。一体いつ結婚相手にしたいと思うようなきっかけがあったんだ。再会した後にそんなきっかけがあったとも思えないし。
「赤ん坊の頃からずっと、茜を愛していた。一人の人間として」
真顔でとんでもないことを言うクソ兄貴をあたしは思わず見つめた。
「赤ちゃんの頃から?」
「容子さんのお腹にいた頃は弟か妹ができるのが嬉しいくらいにしか思ってなかったけどな」
混乱する。赤ちゃんの頃からってなんだ。どういうことだ。それに。
「だったら、なんであたしあんなにいじめられたの?」
間違っても愛情の裏返しとは思えないレベルだったぞ。
「何言ったって言い訳にしかなんねえけど、あの頃の俺は茜を受け入れられるほど強くなかったんだよ」
「……今は?」
クソ兄貴は珍しく穏やかな笑みを浮かべただけで答えてくれなかった。珍しすぎて凝視したらすぐに眉間にしわが寄った。
とにかくクソ兄貴の気持ちが、どうやらあたしが思っているよりもずっと深くあたしに絡みついているらしいことはわかった。赤ちゃんの頃からなんて相当な根深さだ。でも不快じゃなくてむしろ嬉しくて、安心する。あたしの気持ちだって、それに負けないくらい深くクソ兄貴に絡みついているから。
言葉にならない感情が溢れてきて、両手をクソ兄貴の背中に回してぎゅっと抱き締め返した。
こんなに幸せなことってない。あたしはこれからこの人と生きていける。
クソ兄貴と。お兄ちゃんと。お兄ちゃん。
あたしがこの世で一番、大好きな人。
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