トップ | 小説一覧 | くさり目次 | あらしは続く
『浩行さんのこと、呪ってもいいですか』
あらしは続く
電話の向こうからいつもと同じ調子の声で物騒な言葉が紡がれる。冗談なのか本気なのか判別しづらいのは昔からだった。
「人を呪わば穴二つ」
ずきずきと痛む頭に手をやり、浩行はベッドに腰かけながら投げやりに返した。この頭痛や吐き気の原因ははっきりしている。ただの二日酔いで佐之介の呪いなどではない。
「用はそれだけか」
貴重な休日の、それも二日酔いの朝に一番聞きたくない声は一瞬だけ不機嫌そうな気配を洩らした。
『それだけです』
電話は唐突に切られ浩行は携帯電話を耳から離した。しばらくぼんやりとしてから自分が洗面所に向かおうとしていたことを思い出す。
酒には弱いわけではないが特別強くもない。自分の限界量はよく理解しているから普段はその量を超えるほど飲んだりはしない。ただ昨夜は一緒に飲んだのが気心の知れた学生時代の友人たちで、仕事とは別のストレスを少しでも発散したかったのだ。
ベッドから腰を上げ、部屋を出た途端ストレスの元凶と鉢合わせた。
「わ、お、おはよう」
頭痛が一層ひどくなった気がして浩行は顔をしかめた。
「二日酔い……?」
「……ああ」
心配そうな顔をして訊いてくる茜に、どうしてそんな顔をするのかと心の中で八つ当たりしながら僅かに頷いて答える。
「朝ごはん、どうする? 昨日の残りがあるけど」
友人たちとの飲み会は急遽決まったことだった。夕飯は作らなくていいとメールを送ったのは、茜がすでに支度を終えた後だったようで浩行が昨日食べなかった分が丸々残っている。
悪いことをしたという気持ちは表には出さずに昨夜のメニューを尋ねた。
「ぶりの照り焼き」
食べられないことはないだろう。吐き気をやり過ごし浩行は頷いて答えた。
「じゃあそれで。あと、水」
「わかった、用意するね」
踵を返してキッチンに向かおうとした茜の背中を浩行は思わず呼び止めた。
「茜」
足を止めた茜は振り返り浩行を見る。
「何?」
「何か、あったのか。それ」
「それ……って、どれ?」
例えば悪態の一つもつかずに食事の支度をしに行くところとか。
「……いや、何でもない」
茜が用意した朝食をどうにか腹に収め、後片づけも茜に任せ浩行は早々に自室に戻った。
頭が浩行を責めるように痛み、メガネを外し机に置くとたまらずにベットに倒れ込んだ。何も考えたくはなかったが思考は勝手に茜の態度の軟化についての考察を始める。
軟化と言っても今までの捻くれた態度が完全になくなったわけではない。浩行が小言を言えば不満そうな顔をするし何か失敗すればああだこうだと言い訳をする。しかし何もなければそれまでのつんけんした態度が嘘のように丸くなった。いや、と浩行は記憶を辿り直す。思いの外動揺していたのか意識していなかったが茜に対して覚える違和感はそれだけではなかった。丸くなった代わりに妙によそよそしくもなったのだ。ここ数日よく見せるようになったと思っていた笑顔も、もしかすると愛想笑いではなかったか。何のために。
とにかく何かきっかけがあったはずだ。そう考えると思い当たるのはあの嵐の夜しかない。あの夜。何事もなかったのがいまだに自分でも信じられない。幼い頃とは違う体の柔らかさを腕の中に感じながら、幼い頃と変わらぬ行動をとる茜が本当にまだ子供なのだということを思い知った。神経が麻痺していたのかもしれない。一睡もできずに拷問のような時間を過ごし、それでも茜を抱きしめたままでいたのは茜の体温をもっと感じていたい思う自分がいたからだ。さすがにいつもより大分早い時間に布団から出たが昔のように茜をベッドから放り出すことはしなかった。茜に、浩行は茜を嫌っているのだと思わせる必要はもうない。
その後起きてきた茜は、朝食もとらずにベッドに座り込んだままでいた。確か体調がよくないと言っていたがそのときの会話の内容はよく覚えていない。仕事がなければ茜を部屋から出せたかわからない状態だった。あそこまで耐えられたのなら最後まで耐えればよかったと、浩行の唇を避けようともしなかった茜が怒ったようにドアを閉めていった後僅かに後悔したことだけはやけにはっきりと思い出せる。
体調が悪いというのは何かを誤魔化すための嘘なのだろうが、もしそれが本当であのキスが茜をおかしくさせた原因なら茜は軟化ではなく硬化するだろう。高校生にもなって浩行の布団にもぐり込んできたことに対する照れ隠しでどこをどうなったのかああなったのかもしれないとも思ったが、照れ隠しがこんなに長く続くのはやはりおかしい。
茜のことは誰よりも知っているつもりでいたくせに結局何もわからない自分がおかしくて、自嘲気味に深く息を吐き出しながら浩行は天井を見つめた。
佐之介の顔が不意に浮かび反射的に眉間にしわが寄る。できれば思い出したくない顔だったが浩行は細い糸を手繰るように思考を向けたくない方向に向けた。
寝起きにかかってきたあの電話は一体何だったのか。茜が数日前佐之介に会いに行ったことは、その夜は顔を合わさなかったが翌朝の食卓で茜から聞いて知っている。まぶたが腫れているように見えその理由を尋ねると「すごく悲しい話をアキちゃんから聞いてもらい泣きしちゃった」と照れくさそうに笑っていた。嘘をついている様子はなかった。悲しい話の内容も、尋ねれば失恋の話だとあっさり返ってきたからそれ以上深く訊くことはしなかった。普段ならかかってくるはずの佐之介からの嫌がらせのような報告の電話がなかったのも、どういう理由であれ茜を泣かせたことに対して浩行に責められるのを避けてのことだと思っていた。
数日経ってから、わざわざ休日の朝を選んで電話してきたのは嫌がらせの一種と思えなくもないがその内容は違った。確かに物騒な言葉を口にはしたが嫌がらせのつもりなら佐之介はあんなにすぐに電話を切ったりはしない。浩行と佐之介を結びつけているのは茜の存在だけ。やはり茜と何かあったのだ。茜が佐之介の話を聞いたように、佐之介が茜の話を聞いていてもおかしくない。
佐之介の機嫌が最悪だったのは明らかだった。佐之介は浩行にとってよくないことがあればあるほど機嫌がよくなる。佐之介の機嫌が最悪だったいうことは浩行にとってはいいことで、そして佐之介に、用があったわけでもなく嫌がらせでもないのにあんな電話をかけさせるような何か。
――それは、何だ。
答えはすでに浩行の中にある。しかし貰った飴玉をすぐには口に入れずに眺める子供のように、浩行は静かに自分の中に広がっていく歓喜の気配を頭痛とともに味わう。
茜の様子がおかしいのもそれで全て説明がつく。嵐の夜の出来事がきっかけになったのもわからなくはない。真っ先に否定していた可能性が佐之介のおかげで限りなく正解に近いと思われる答えに変わっていく。
浩行が必死に自分を抑えようとするのは茜がまだ高校生で中身も子供だからだ。茜は兄としての浩行を求めていて異性としての浩行は求められていない。昔もしていたキスは意味合いが違ってもどうにか受け入れているようだが、それ以上は無理だろうと一緒に暮らせば暮らすほど痛感する。茜が自分以外の男を選ぶはずがなく、浩行が茜から逃げない限りいずれはこの状況から抜け出せるという確信はあったが茜が兄ではない浩行を認めるのは少なくとも今ではない。だから今は耐えなければならないのだ。佐之介の言う通り長くても数年待つだけだ。そう自分に言い聞かせていた。それが、まさか。
まさか。
体の奥から生まれてくる熱が頭痛を侵食していく。浩行は身を起こしふらつきながらベッドから立ち上がった。
確かめよう。茜の口から直接聞いて、そして。
考えるよりも先に体が動いた。部屋を出てリビングに向かう。休日、家にいるときはソファにだらしなく寝そべりながらテレビを見ていることが多い茜は、今日もどこにも出かける予定がないのか部屋着のままソファに仰向けに横になっていた。テレビはついていない。
「茜」
呼びかけても返事はなく眠っているようだった。浩行は身を屈めソファの後ろから、肘かけを枕代わりにしている茜の顔を覗き込んだ。寝顔を見ると起こすのが惜しくなる。浩行は目を細め、さらに口元も緩ませソファの前に回り込み床に膝を突いた。
「茜」
もう一度呼びかけても目を覚ます気配はない。
浩行が茜の元に来た目的を果たすためにはまず茜を起こす必要があるが、茜のどこか間の抜けた寝顔は浩行から上昇しすぎた熱を奪っていく。
茜の口から直接聞いて、それからどうするつもりだったのだろうと自問する。茜がまだ高校生であることに変わりはないし、今までのことを思い返せば茜が浩行を異性として意識したからと言ってすぐに浩行を受け入れられるはずがない。浩行は静かに息を吐き出し茜が寝ていたことに感謝しつつ半ば無意識に手を伸ばした。
茜の髪に触れ頬に触れる。親指で薄く開いた唇をなぞりその手を首から肩、腕へと動かした。あんなに小さかった茜が浩行が離れている間に成長していたという当たり前の事実が今の浩行には苦くのしかかる。茜を傷つけないためというもっともらしい理由をつけて逃げたのは浩行自身だ。離れなくても、二人きりでいることが多かったとは言え誠と容子も暮らしていたあの家で実際に茜を傷つけるようなことをするほどどうしようもない人間ではなかったと思いたいが、あの頃の浩行にはそんなことを考える余裕もなかった。ただ自分に異常な感情を抱かせる茜から離れたかった。
そのまま後悔だらけの記憶がよみがえりそうになったのを慌てて振り払った。茜の二の腕に触れていた手を胸に伸ばすのだけは何とか思い留まり頭を撫でる。ソファの背に手をかけ顔を近づけた。せめてこれくらいはと、誰にともなく言い訳をして浩行は唇を合わせた。軽く触れて離れる。茜は穏やかな寝息を立て続けている。浩行はもう一度茜に口付ける。
――茜。
頭の中が融けていくような感覚を覚え、浩行は舌先で茜の唇をなぞりそのままさらに深く茜を求めた。
「う、んん……」
茜もさすがに目を覚ましたのか互いの唇の隙間から声が洩れた。
浩行は唇を離し至近距離で茜の目が開くのを見つめる。
「……ん、何……」
重そうなまぶたを何度か瞬かせる。
「起きろ」
おぼつかない茜の視線がやっと浩行を捉えたところで浩行は立ち上がり、茜の腕を引いて体を起こさせ空いたスペースに腰を下ろした。まだ目が覚めきっていないのか、浩行にされるままになっていた茜の体が浩行に寄りかかる。浩行は茜の肩に手を回し抱き寄せもう片方の手で頭を撫でる。
「茜」
腕の中の茜の体が小さく動いたのを感じる。しばらくしてから茜はゆっくりと顔を上げた。視線がぶつかり浩行はまた唇を重ねた。
すぐに唇を離し非難の声が上がるのを待とうとした浩行は、動きを止めた茜の顔を見て同様に固まった。今まではキスをすれば顔を真っ赤にして恥ずかしさを隠すように怒る茜が、真っ赤になるのは変わらず泣き出しそうな顔で浩行を見ていた。極力欲を抑え僅かに触れただけのキスで。
その表情が全てだった。
浩行は茜から得たかった答えを得たことを悟る。わかっていたはずの今はありえない答えに思わず茜を抱き締めていた腕を緩めると、茜は浩行を押しのけるようにその腕から逃れて立ち上がった。
「さ、最低……!」
大分遅れていつもの調子で浩行に抗議しようとした茜の表情はいつもとは明らかに違いあまりにも弱々しく、声も震え浩行の確信をますます強くさせるだけだった。
茜はさらに続けようと口を開いたが、結局涙の溜まった瞳で浩行を睨むように見つめるだけでリビングから出て行ってしまった。
残された浩行はドアが大きな音を立てて閉まるのを聞き、もしかしたらあの朝も茜は同じ顔をしていたのかもしれないと思いながら茜に触れていた自分の両手を見つめる。
喜ぶべきはずの結果は大きすぎてすぐには飲み込めない。今は飲み込まないほうがいいのかもしれないとも思う。
茜は浩行のことを恐らくは異性として意識している。あの茜の様子は、浩行に兄でいてほしいと言っていた茜だったらありえない。
――いや、待て。
浩行は暴走しそうになる思考をどうにか引き留める。
茜は浩行に直接そう言ったわけではない。茜が子供だという事実も相変わらず浩行の前に立ちはだかっている。何よりも茜が浩行の腕から逃れたのはやはりまだ浩行を受け入れる気がないということだ。
そこまで考えたところで意識するのをやめていた頭痛が突然存在を主張するように激しくなり浩行は頭を抱え項垂れた。
これでは今までと何も変わらない。むしろ浩行を抑える枷が一つ減り前よりも状況は悪くなった気さえする。
我慢するだけ。自業自得。
佐之介の悪魔のような声がずきずきと重く痛む頭に響く。佐之介の呪いでもおかしくないと思うくらいには苦しい状況だった。
「……茜」
どれだけつらくてももう逃げるわけにはいかない。ここで今までのように逃げてまた死ぬほど後悔するようなことがあれば自分を本当に許せなくなる。
逃げずに茜と向き合おう。浩行は自分自身に言い聞かせる。
浩行にとってはこの状況のだめ押しにしかならないかもしれないが、互いの気持ちのずれをはっきり言葉にして認識したほうが少なくとも茜にとっては危機感を持つことにもなっていい。さすがにもう布団にもぐり込んでくることはないだろうが、浩行に対して無防備なのは以前と変わっていないのだ。
頭痛がますますひどくなるのを感じながら決意した浩行は、早速それを口実に茜と話し合う日を先延ばしにした自分に呆れ目を閉じた。
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