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 茜ちゃんは残酷だ。
 茜ちゃんに何も言ってないくせにそう思う僕は卑怯なのかもしれない。


  泣いて笑ってまた明日


 僕に相談したいことがあると茜ちゃんから電話があった時点で嫌な予感はしていた。
 翌日、学校が終わった後に茜ちゃんが僕の家に来ることになった。電話では何度か話したけれど会うのはクリスマスパーティーのとき以来。
 正直、今は茜ちゃんに会いたくなかったけれど茜ちゃんの顔を見たらやっぱり湧き上がってくる嬉しさを抑えきれなかった。
「アキちゃん」
 茜ちゃんも僕に嬉しそうな笑顔を向けてくれる。
「茜ちゃん、いらっしゃい」
「えへへ、お邪魔します」
 よかった。大丈夫だ。茜ちゃんへの気持ちを自覚しても僕はいつも通りの僕でいられる。茜ちゃんの前でもちゃんと。

 キッチンでコーヒーを入れて、シュークリームと一緒に持って部屋に戻ると、茜ちゃんがこたつに入ってすっかりくつろいでいた。
「今日帰りに買って来たんだよ」
 シュークリームとコーヒーを茜ちゃんの前に並べる。
「やったー! ありがとう、アキちゃん!」
 茜ちゃんは大げさに喜びながら「いただきます」と言って、早速シュークリームを頬張り始める。
 僕も茜ちゃんの向かいに座ってコーヒーに口をつけた。普段は砂糖とミルクを入れるけど今日はブラックでちょうどいい。

「それで茜ちゃん」

 一時間後、小さいとは言え三個目のシュークリームを食べ終え、二杯目のコーヒーがすっかり温くなってもまだ世間話を続けようとする茜ちゃんを止めて僕は切り出した。
「相談って何?」
 笑顔だった茜ちゃんは、一瞬動きを止めた後一気に表情を暗くした。
「いや、あのね、大したことじゃないんだよ全然」
「大したことなのはわかってるよ」
 ついでにそれが浩行さんに関することだというのもわかっている。茜ちゃんが僕に、こんなに深刻な顔をしてする相談事なんてそれ以外にあるわけがなかった。
 しばらく唸ってから観念したように茜ちゃんは顔を上げた。
「お兄ちゃんのこと、なんだけど」
 わかりきっていたことなのに、何故か胸がちくりと痛んだ。
「浩行さんがどうかしたの? また何か理不尽なことを言われたとか?」
 違う。それくらいのことで茜ちゃんはこんな顔をしない。わざわざ僕のところに来たりもしない。
「そういうのじゃなくて」
 歯切れが悪い。本当に嫌な予感しかしない。こたつ布団を握り締めて茜ちゃんの言葉を待つ。
「実はその、あたし、お、お兄ちゃんのことがす、好きに――」
「好きなのは知ってるよ」
 茜ちゃんの口からそれ以上聞きたくなくて、我慢できずに口を開いてしまった。茜ちゃんの顔が見る見る赤くなる。
「いや、あのね、だからそのす、好きって言うのはお兄ちゃんとしてってことじゃなくて、つまり」
「異性として好きってことでしょ。それが」
 どうしたのかと苛々しながら言おうとしてそれがどういうことなのか気づいた。
 茜ちゃんは、浩行さんのことが好きだと認めたんだ。やっと。
「よかったね。やっと自覚できて」
 静かに深く息を吸い込んで、無理やり笑顔を作って言ったら茜ちゃんは戸惑ったような表情を浮かべた。
「……驚かないの?」
「何に驚くの?」
「兄妹なのに、おかしいとか」
「今更すぎるしそもそも茜ちゃんたちもう兄妹じゃないでしょ」
「そう、だけど」
 茜ちゃんは一瞬傷ついたように僕から視線をずらした。
 もしかしたら茜ちゃんはまだ浩行さんと兄妹でいたいと望んでいるのかもしれない。異性として意識してしまった今も。
「あと、あたし、ずっとお兄ちゃんのこと、アキちゃんに愚痴ってたし」
「うん、愚痴を聞くたびに茜ちゃんって浩行さんのこと大好きなんだなーって思ってた」
 茜ちゃんは言葉を詰まらせて残っていたコーヒーを一気に飲み干した。
「浩行さんにはまだ言ってない、よね」
「言えるわけないよ! お兄ちゃんは、お兄ちゃんで」
「相談したいことって、やっぱりそれ?」
 僕はできるだけ心を落ち着けて茜ちゃんへのアドバイスを用意しようとしたけれど茜ちゃんは、空になったコーヒーカップを両手でいじりながらしばらく考える様子を見せてから首を横に振った。
「本当はね、相談っていうよりもアキちゃんにあたしの気持ち、ちゃんと言っておきたかっただけなんだ。アキちゃん、あたしとお兄ちゃんのこと気にしてくれてたから」
 照れくさそうに笑う茜ちゃんを、僕はきっととても冷めた目で見ている。
 僕はやっぱり卑怯だ。僕も茜ちゃんのことをとやかく言えるような立場じゃない。僕自身が茜ちゃんへの気持ちにやっと気づいたばかりなのにそのことを茜ちゃんに悟れというのは無理な話だし僕が自分から茜ちゃんに気持ちを知られないことを望んだ。だから茜ちゃんが浩行さんのことを好きだと僕に告白したことだって、茜ちゃんにしてみれば報告という意味しかなくて僕を傷つける意図なんてあるわけもなくて。
 ああ、僕は傷ついたのか。
 そこまで考えてやっと気づいた自分に呆れる。人の感情の機微には敏いほうだと思っていたけれど、自分のことにはどうしてここまで鈍感になってしまうんだろう。
「それよりもアキちゃん」
 茜ちゃんがずいっと身を乗り出してきた。
「あたし、アキちゃんのほうが心配だよ」
「え」
 突然言われて何のことかわからずに僕はうろたえてしまった。
「アキちゃん、何か変だよ。もしかして何かあった? ごめんね、あたしいつも自分のことばっかりで」
 茜ちゃんも、自分のことに少し疎いだけで決して何にでも鈍感なわけじゃない。だから友達の様子がおかしければすぐに気がついてしまう。
「僕のことは、気にしなくていいよ」
「気にする! 人に話すだけでも結構すっきりするし、あたしでよければいつでも相談にのるからね」
 本気で僕のことを心配してくれている茜ちゃん。
 茜ちゃんは何も知らない。そしてそれは僕が望んだこと。
 もう一度自分に言い聞かせて、本当に何にもないよと言うつもりで笑顔を作った。
「本当に何も」
「なくないのはわかってるよ」
 茜ちゃんはにやりと笑った。僕の真似のつもりらしい。
「今日のアキちゃん、本当にいつもと違うもん。話すなら今がチャンスだよ。さあさあ」
 こんな状況でいつも通りでいられる程僕は大人じゃなかったと、いい加減認めるべきなのかもしれない。
 茜ちゃんが妙に目を輝かせているのは、僕が今まで茜ちゃんに何か相談するということがあまりなかったからか。茜ちゃんも頼られたいお年頃なんだろう。
 僕は小さく息を吐く。態度に出してしまった僕が悪いし、茜ちゃんの期待も裏切りにくい。真っ赤な嘘で誤魔化せる程の余裕も今の僕にはない。
 いくつも言い訳を重ねて僕は一部をぼかして茜ちゃんに話すことにした。今が、絶対に茜ちゃんには伝えられない気持ちを茜ちゃん自身に聞いてもらえる唯一の機会だとどこかでわかっていたから。
「僕、好きな子がいて」
 うんうんと頷いた茜ちゃんは、数秒遅れて目を見開いた。
「……え、えええええ!?」
「そこまで驚くようなことじゃないと思うんだけど」
「驚くよ! アキちゃんからそんなこと今まで一度も聞いたことなかったよ。でもそっかあ、アキちゃんにも好きな子が……。同じ学校の子?」
 僕は茜ちゃんを見つめる。
「クラスメートで」
 元、という言葉は抜かした。
「僕にとっては太陽みたいな子で」
 初めて見たとき、本当に太陽みたいだと思った。
「その子と……何か、あったの?」
 心配そうな様子の茜ちゃんに、僕は首を横に振って答える。
「何もないよ」
「でも」
「その子には別に好きな人がいて、その相手もその子のことが好きで、僕はそれを知ってるのにその子のことを好きになった。それだけだよ」
「それだけって、え、だって、それじゃあ」
「好きになった瞬間に失恋確定しちゃった」
 僕の恋は最初から叶うはずがなかった。だから今日茜ちゃんの口から何を聞いたって同じこと。だから平気。
 そう思って僕が笑いながら明るく言ったのとは対照的に茜ちゃんの表情が悲しそうに歪む。
「それって、もうどうしようもないの……?」
 それでも僕は笑顔を続けた。
「うん、どうしようもない」
「それって、すごくつらくない?」
「つらくないって言ったら嘘になるけど、どうしようもないから。だから僕は、せめてその子が誰よりも幸せになってくれればいいなって……茜ちゃん、なんで泣くの」
 僕を見つめたまま突然ぽろぽろと涙を流し始めた茜ちゃんに、僕は思わずぎょっとする。
「なんでアキちゃんは笑っていられるの」
 だって、最初からわかってたことだし、確かにつらいけど僕だって一応男だからこんなことくらいで泣いていられない。
 そう言ったら茜ちゃんはさらに悲しそうな顔をした。
「もしかしてそれでずっと我慢してるの?」
 我慢なんて、してるつもりは。
「男とか女とか関係ないよ。泣きたいときは泣いていいよ。無理に我慢するよりずっといい。アキちゃんはその子のことが本当に好きなんでしょ?」
「うん、好きだよ」
 茜ちゃん、僕は君のことが好きです。
 そんなこと、言わなくて本当によかった。言ったら僕のために泣いてくれる茜ちゃんを、もっと苦しめることになっていた。
 茜ちゃんの太陽みたいな笑顔に今思えば一目惚れして諦めて、でもやっぱり僕は茜ちゃんのことが好きだった。
 僕が茜ちゃんを幸せにしてあげたかった。
「なんで、僕じゃだめだったのかな」
 茜ちゃんを泣かせてばかりの浩行さんが、茜ちゃんにとっては唯一の人。
 どうしたって浩行さんには敵わない。茜ちゃんの中には今までもこれからも浩行さんしかいない。二人は鎖でがんじがらめに縛られていて誰にもそれを解けない。
 茜ちゃんの前で泣きたくないのに、茜ちゃんの涙につられて今まで出てこようとしなかった涙が込み上げてくるのを抑えられなかった。
 僕じゃ茜ちゃんを幸せにできない。
「僕だって、こんなに好きなのに」
 拳を額に押し付ける。一度決壊したらもう止められない。
 悔しくて、悲しくて、涙を流してやっと、そういう感情を自分が抱え込んでいたままだったことを知った。茜ちゃんを好きだという気持ちとそんな感情を一緒に抱えている自分が嫌で、余計に涙が出てくる。
 涙を止めようとするのは途中で諦めて、どうせ止まらないのならと開き直って茜ちゃんと一緒に思い切り泣いた。

 泣くのにもエネルギーがいる。どれだけそうしていたのか、さすがに泣き疲れてきて最後は茜ちゃんと照れ笑いを交わしながら交代で顔を洗いに行った。
「何か、ごめんね」
「ううん。あたしのほうこそ、ちょっとお節介だったかもって」
「そんなことないよ。茜ちゃんのおかげで、今はすごく楽になった」
 涙と一緒に全部出せたらよかったけれどそう簡単に追い出せるものでもない。それでも茜ちゃんに話す前よりもずっと楽になったのは本当だ。
「そっか。うん、よかった」
「ありがとう、茜ちゃん」
 僕と同じように目を腫らした茜ちゃんの笑顔を見て、僕も笑う。痛くて、苦しくて、涙がしつこく出てきそうになったけれどちゃんと笑えた。無理やりじゃなくて、心から。



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