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 草木も眠る丑三つ時。
 あたしは暗闇の中、枕を抱えクソ兄貴の部屋のドアを凝視していた。


  あらしの夜


 この間も季節外れの大雨が降ったばかりなのに今夜も外は季節外れの嵐で、土砂降りだった雨は少し弱まったみたいだけど、風は少しも治まった気配がない。 雷にめっぽう弱いあたしは、尋常じゃない風雨の音ももちろん駄目で、加えて寒さと多分さっき見た夢のせいで震えが止まらない。
 枕を抱え直して深呼吸をする。
 昔はこんな夜はこっそりクソ兄貴の布団にもぐり込んだものだった。毎回翌朝には床に放り出されてたけど。
 でもあたしも子供じゃないからさすがにそんなことはもうしない。するわけない。と思っていたのは数十分前のあたし。今のあたしは右手でクソ兄貴の部屋のドアのノブを握っている。こんなことしてクソ兄貴にばれたら何を言われるかわかったものじゃないのに。
 でも、朝になる前に戻ればクソ兄貴だってきっと気づかない。
 息を大きく吸い込んでノブをゆっくりと回す。
 心臓の音がうるさすぎてクソ兄貴が目を覚ましてしまわないかとバカなことを考えながら一歩。後ろで閉めたドアが思いのほか大きな音を立ててひやりとする。
 幸いなことにクソ兄貴は壁側を向いて、こっちには背中を向けて寝ていた。おまけに手前には入ってくださいと言わんばかりのスペースが。抜き足差し足でベッドに近づく。置き場所に困った枕はとりあえず床に置いて。
 お邪魔しますと心の中で言って、細心の注意を払いクソ兄貴の隣にもぐり込むことに何とか成功した。あたたかい布団に入って冷え切った体と張り詰めた気も緩んで、ほっと一息ついたところで。
 あろうことか、あたしに背中を向けて熟睡していたはずのクソ兄貴がこっちを向いた。暗闇越しにばっちり目が合った。あたしはまさかの出来事に一瞬頭が真っ白になった後、てっきりもの凄い嫌み攻撃が来ると思ってとっさに身構えたら。

「明日も会社なんだけど」

 眠そうな声で一言。
「あ、ご、ごめ――」
 拍子抜けして慌てて謝ろうとしたのを、クソ兄貴の言葉が遮った。
「夜這いなら、せめて次が休みの日にしろ」
「だ、誰がそんなこと……!」
 だるそうにそう言ったクソ兄貴はやっぱりクソ兄貴だった。
「大体なんでそんなに冷えてるんだよ。足つけたら殺すぞ」
 仕返しのつもりで今まさにつけようとしたところで釘を刺されてあたしは仕方なく足を引っ込めた。
「……冷え症だから」
 部屋の前にずっと立っていたとは言えなくて、とりあえず言い訳をする。
「怖い夢見たとか、外の音が怖いとか言うなよ。ガキじゃあるまいし」
 そのまさかですよ、お兄様。
 至近距離のクソ兄貴にうっかり動揺しつつ、次の言い訳を考える。
「だって、本当に怖かったんだもん」
 言い訳のつもりが何故か素直に告白したあたしは、さらに動揺して余計なことを口走った。
「お兄ちゃんが、死んじゃう夢で」
 思い出したら本気で怖くなって目の前のクソ兄貴の顔に手を伸ばした。
 伸ばした手を掴まれた。クソ兄貴に。
「え」
 強い力に頭を後ろから押さえ込まれてあたしはクソ兄貴の胸へダイブ。鼻が一瞬みしっといった。気がつけばクソ兄貴の腕の中にいて、数秒息もできないくらいきつく抱き締められた。
 息が、できない。
「茜」
 すぐ近くで名前を呼ばれた。低い声。もう何度も呼ばれて呼ばれ慣れたはずなのに、何か、変な感じ。でも何が変なのかわからない。クソ兄貴の声が変なのか、それともあたしの耳が変なのか。
「お兄ちゃん」
「何だ」
「苦しい」
 とりあえず息苦しさを訴えたら何故かクソ兄貴の腕にさらに力がこもった。もう、近いとかそんなんじゃなくて、そんなのは飛び越えて、クソ兄貴の体温で溶けるんじゃないかと本気で思った。
 冷え切っていたはずの体が、燃えるように熱い。
「茜」
 またあたしの名前を、返答を求めるような呼びかけじゃなくて吐き出すように口にする。だからあたしは返事をすることもできず、クソ兄貴の腕の中で体をできるだけ丸める。クソ兄貴は今何を考えているんだろう。
 なんで、抱き締めてくれるんだろう。
 苦しいのに心地いい。昔のあたしだったら嬉しくて泣いていたかもしれない。今も泣きそうだ。
「お兄ちゃん、もう、どこにも行かないで」
 暗闇と心地よさにそそのかされてまた言わなくてもいいことを口走ってしまった。クソ兄貴の手があたしの頭をやさしく何度も撫でる。
「どこにも行かないから、もう寝ろ」
 それはつまり、今夜はここで寝てもいいということなんだろうか。クソ兄貴の腕の中でしばらく何か裏がないか考えたけどクソ兄貴はそれっきり何も言わなかったから、あたしもクソ兄貴に言われた通り寝ることにした。あたしだって明日は学校があるし朝からクソ兄貴のお弁当を作ったり洗濯したり、やることがたくさんあるから寝坊はできない。



 クソ兄貴の腕の中で目を閉じてからどれくらい経ったのか。外の嵐の音よりも、自分の心臓の音がうるさいことに気づいた。
 クソ兄貴に抱き締められたままでずっと同じ体勢なのが少しつらい。クソ兄貴も腕が痺れたりしないんだろうか。頭のすぐ上でクソ兄貴の寝息が聞こえる。洗濯したばかりのパジャマの匂いや嗅ぎなれた石鹸の匂いの主がクソ兄貴だと思うと、抱き締められているのとは別に息をするのが苦しくなる。さっきまでは確かに心地よかったはずの場所なのに、落ち着かない。
 この感じには覚えがある。
 プロポーズらしきものをされたときとかキスされたときとか、兄妹ではしないようなことを、クソ兄貴がしたときはよくこんな感じになる。でも今は違う。昔みたいに一緒に寝ているだけ。普通の兄妹だったらこの年でこんなにひっついて寝ることなんてないだろうからそのせいかもしれない。うん、そのせいだ。
 本当は認めたくないけどあたしはクソ兄貴と兄妹でいたい。兄妹だからクソ兄貴と一緒にいられる。兄妹なら、ずっとクソ兄貴と繋がっていられる。
 たとえあたしがクソ兄貴のことを好きだったとしても、それはあくまでも「お兄ちゃん」のクソ兄貴であって、それ以外の好きはありえない。
 だから、何かされたわけでもないのにクソ兄貴にドキドキするなんてこと、あるわけない。あたしにとってクソ兄貴はクソ兄貴なんだ。確かに初恋はクソ兄貴だったけどそれだって、「大きくなったらパパのお嫁さんになるー」的なことがあたしの場合は誠さんではなくてクソ兄貴だっただけの話。だから、だから、静まれあたしの心臓。
 こんなの嫌だ。寒さも怖さもとっくにどこかにいったのに、全然眠れない。クソ兄貴がいるのに眠れないんじゃなくて、クソ兄貴がいるから眠れない。顔が熱い。体中熱い。
 どんなに頑張っても少しも静まってくれない心臓に絶望した。
 あたしは何にドキドキしているの。



「お兄ちゃん、大好き」

 自分の口から洩れた言葉にびっくりして飛び起きた。さっきまで見ていたはずの夢もどこかに飛んで行ってもう思い出せなかった。残ったのはあたしが恐ろしい言葉を口にしたという事実だけ。身震いしてから慌てて横を見たけどクソ兄貴はいなかった。よかった。
 それにしてもいつの間に寝てたんだろう。外はまだ暗いけど昨夜のうるささがうそのように静かだった。
 何気なく見た枕元の目覚まし時計の針は六時五分前を指していて血の気が引くのがわかった。まずい。五時に起きるつもりだったのに寝坊した。洗濯は諦めて早く朝ご飯とお弁当の用意をしないと。焦って布団から出ようとして、違和感を覚えた。
 あたしはクソ兄貴のベッドにもぐり込んだはずで、実際ここはクソ兄貴の部屋で、こういうときあたしは必ずベッドから放り出されていて毎回床の上で目を覚ましていた。今回も、体のあちこちを痛めながら寒さで目を覚ますはずなのに、おかしい。あたし、布団の中にいる。なんで?
 クソ兄貴の部屋を出ようとドアを開けたところで、顔を洗っていたのかメガネをかけ直しながら洗面所から出てきたクソ兄貴と鉢合わせた。目が合う。
「お、おは、よう」
 あたしは何故か動揺して後ずさった。開けたばかりのドアも一緒にそのまま閉めようとしたのを、クソ兄貴の手に止められて大きく開けられた。
「な、何?」
「おはよう」
 クソ兄貴が普通に挨拶を返してくるなんて珍しい。いつも、「ああ」とかちらっとこっちを見るだけなのに。雪でも降るんじゃ、いや、だから嵐だったのか。
「茜」
 くだらなことを考えていたら名前を呼ばれて頭が重くなった。
「え」
 クソ兄貴に頭を撫でられているのだと気づいた瞬間、顔に血が上った。
「お、お兄、ちゃん」
「今日は一人で寝ろよ」
 クソ兄貴が本格的に変だ。笑顔はないけどいつもみたいに突き放す感じでもなかった。頭まで撫でられてるからあたしは素直に頷くしかなかった。
「う、ん、ごめん」
 今度はちゃんとドアを閉めてクソ兄貴の部屋に一人残ったあたしはよろよろとベッドに座り込んだ。
 昨夜の絶望感に再び襲われて、耳をふさいで目を閉じた。
 本当に変なのは、多分あたしのほうだ。
 頭を撫でられるのは、嬉しいことのはずで、それだけのはずなのになんでこうなるんだあたし。クソ兄貴に頭を撫でられてドキドキするなんて。
 今まで認めないようにしていた。ずっと閉じ込めてきた。気づかないふりをしていた。こんなこと。それでうまくやってきた。
 外の嵐は過ぎ去ってもあたしの中に吹き荒れた嵐はずっと同じところに留まったまま。
 昨夜、あたしはクソ兄貴にドキドキしていた。今もドキドキしている。
 クソ兄貴に。お兄ちゃんに。お兄ちゃんだった人。

 あたしはあの人のことが。

 全身に鳥肌が立った。素直に認めてしまえとそそのかすあたしと、それを必死に否定しようとするあたしが頭の中で大乱闘を繰り広げる。
 しばらくは押したり押されたりしていたけどそんなことをそそのかすあたしが存在する時点でクソ兄貴に対してそういう感情があるんだと認めているようなものだと気づいてしまった途端、否定派のあたしは泡のようにはじけて消えてしまった。
「うそ」
 呆然と呟いたあたしの両手が突然耳からはがされた。閉じていた目を開けたらクソ兄貴が目の前にいた。うそ。
「何が」
 クソ兄貴の手があたしの手を。
「あたしがお兄ちゃんを」
 って、何を言おうとしているんだあたし。
「何でもないから、手、離して」
 声が震えた。二十四時間前のあたしだったら、かわいくない妹としてもっと強くクソ兄貴に言えたはずなのに。
「お前が俺を、何なんだよ」
 クソ兄貴の指があたしの指に絡む。温かくて、大きな手。クソ兄貴の手。つまりあたしが言うまで離さないということか。いつもより大分激しく動いている心臓を恨みながらあたしはクソ兄貴を見上げる。
「朝ご飯とお弁当の用意、しないといけないし」
「飯はもう食った。弁当は今日はいい」
「え」
 あたしは横を向いて目覚まし時計を見る。いつの間にか七時近くになっていた。
「で?」
 話を元に戻される。
 クソ兄貴が家を出るのは大体七時十五分。クソ兄貴はまだパジャマのままだから着替えたりするのに十分必要だとすると、あとたった五分耐えれば解放される。
「だから、何でもない」
 あたしは目覚まし時計を見つめながら答える。クソ兄貴の視線が痛い。あと五分も耐えられる自信がない。
「茜」
 自分でも認めたくないことをクソ兄貴に言えるわけがない。
「何でもないってば」
 手も顔も燃えそうだ。顔が赤くなっているかもしれない。
「ちょっと体調が、よくないだけ」
 うそはついていない。クソ兄貴に変な反応をしてしまうくらい体調は最悪だ。
「あたしも学校あるから、手、離してよ」
 心臓は暴れ続けていたけど、何とか今までの感じを思い出して、ぶすっとした顔を作る。
「体調悪いなら休めばいいだろ」
「そ、そんな簡単に休めないよ。授業遅れるの嫌だし」
 クソ兄貴につっこまれて嫌な汗をかきそうになる。
「茜」
「だから本当に」
「愛してる」
 目覚まし時計の秒針の動きが急に遅くなった。何、言ってるんだろうこの人は。
「それは」
 妹としてなのか訊こうとして、その答えをあたしはとっくに知っていることを思い出した。クソ兄貴が全部本気で言っていたのだとしたら、クソ兄貴はあたしのことを妹だとは思っていない。アキちゃんちではっきり言われた。
 それでも妹だと言ってくれていたのはあたしがそう望んだからだ。
 ――もう少しだけ、お兄ちゃんでいて。
 なんで今まで気がつかなかったんだろう。
 クソ兄貴のくせに、あたしのお願いを一応は聞いてくれたんだ。
 凝視しすぎて目覚まし時計の盤面がぼやけたから何度か目を強く閉じた。さっきよりは少し落ち着いてきたけどクソ兄貴の手が何か嫌だ。
 昨夜が嵐じゃなくて怖い夢も見なくてクソ兄貴と一緒に寝ようとしなければこんなことにならなかったのに。
 クソ兄貴と血が繋がっていたら、こんなこと考えなかったのに。
「お兄ちゃんは、あたしと実の兄妹がよかったって思ったり」
「しない。茜は」
 最後まで言う前に即答された上に訊き返された。
「あたし、は」
 血が繋がっていたら本当にこんなこと考えなかった?
 クソ兄貴のことがこの世で一番好きだったから、クソ兄貴のことがこの世で一番嫌いになった。あたしはもしかしたら、クソ兄貴が本当にお兄ちゃんじゃないって知る前から。
 何も答えられないでいたらクソ兄貴が小さくため息をついた気配がした。
「着替えるから出ろ」
 目覚まし時計の針は七時五分を指していた。ようやく解放してくれるらしい。
 握られていた手をそのまま引っ張られてあたしはその力に任せて立ち上がる。
 ついクソ兄貴を見上げて目が合ってしまった。落ち着いてきたはずの心臓がまた暴れ出したのに目を逸らせない。
「茜も、どこにも行くな」
 うん、と答える前にクソ兄貴の顔が近づいてきた。あたしはただそんな現実から逃げたくて目を閉じた。
 唇に何かが触れる。何かが何なのかは考えない。なかなか離れなくて陸の上で溺れ死ぬかもしれないと本気で思った。
 何かがやっと離れて、クソ兄貴に捨て台詞を言うことも、クソ兄貴の顔を見ることもできずにあたしは部屋を飛び出て洗面所に駆け込んだ。
 ドアを後ろで閉めて正面の鏡に映った自分の顔を見て愕然とする。顔は真っ赤で、間違ってもクソ兄貴には見せられないような情けなさで、鏡の中のあたしはどうしようもないくらいはっきりと負けを認めていた。

 あたしはあの人に恋してる。

 今まで必死に閉じ込めてきた気持ちは自分の中で言葉にしたらたったそれだけのことで、涙が勝手に溢れてきた。
 クソ兄貴に言ったらきっともう兄妹ではいられなくなる。クソ兄貴の言うことが本心でもそうじゃなくても、あたしが言えばそれで全部壊れてしまう。クソ兄貴との唯一の繋がりがなくなってしまう。クソ兄貴に切られることを心配していた繋がりは、あたしだって同じように切ってしまえるんだ。
「言っちゃ駄目」
 鏡の中で泣いているあたしが囁く。
 今まで通りに振る舞うのは無理でも、あたしが何も言わなければ兄妹でいられる。
「言わない」
 今のあたしはクソ兄貴には言えない。
 もし、いつか言える日が来るならそのときまで、この気持ちはクソ兄貴には秘密。



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