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 朝食は家族全員で。それが立花家のルールだった。
 両親ともに外へ外へと出て行く人たちだったから、朝は数少ない家族団らんの時間だった。茜は朝から騒がしく、いつも楽しそうに喋りながらご飯を頬張っていて、両親はそれを嬉しそうな顔で見ていた。


  約束


 あたたかい記憶の一つを思い出していると、浩行の向かいで自作の焦げた卵焼きを頬張っていた茜が不意に口を開いた。
「前から思ってたんだけどさ、ここって一人で住むには広すぎない?」
 卵焼きと同じように焦げた鮭をつついていた浩行はその手を止めて顔を上げる。
 茜はいつも最初こそ黙っているが黙々と食事をすることに我慢できなくなるのか昔と変わらずどうでもいい話を始めたり今のように妙なことを訊いてきたりする。
「そうか?」
 目が返答を求めていたので仕方なく答えてやる。
「そうだよ。現にあたしが来るまで部屋一つ空いてたわけだし。せっかく広いリビングだってあるのに休みの日もお兄ちゃんほとんどいないよね。たまにテレビ見にくるくらいで」
「ああ」
 それは茜がいるからだ、とは言わずに浩行はもう一度適当に相槌をうつ。
「お金もったいなくない?」
「本当は、もっと広いところを買うつもりだったけどな」
 口が滑った、というわけではないが少し余計なことを言ってしまったとは思った。
「え、なんで?」
 案の定茜は食いついてきた。少し迷ってから浩行は続けた。
「結婚して、子供でも生まれたら広いほうがいいだろ。いいところがなかなか見つからなかったからとりあえずここを借りてるだけだ」
「結婚、するつもりだったの?」
「悪いか?」
「……別に」
 おそらく無意識のうちに泣きそうな顔をした茜。どうせまた馬鹿な勘違いをしているのだろう。わざと勘違いをさせるような言い方をしたのだから。
 浩行自身は結婚まで考えて付き合っていた女性はいないし、本心がどうだったかは知らないが相手もそれを承知で付き合っていた。
 広い部屋を探していたのはただ夢を見たかったからだ。叶うはずのない相手と結婚して、あたたかい家庭を作る夢。自分を誤魔化すために持っていた婚姻届もこの部屋も、諦めたつもりだった茜への未練の表れだ。
「茜」
「……何」
 思わず呼ぶと、茜は元気のない声で答えた。
 叶わぬ夢はもう夢ではなくいずれ訪れるはずの未来となった。ずっと望んでいたものがすぐそこにある。
 とっくにわかっていたはずの事実を唐突に理解して浩行は箸を置き右手を伸ばした。少しだけ身を乗り出して茜の髪に触れる。
「な、何? 何かついてる?」
 こんなに簡単に触れられる。当たり前ではなくなったことがまた当たり前になっている。
「茜」
「お兄ちゃん……?」
 手のひらを頬に当てて茜の体温を感じる。茜は浩行の行動に戸惑うような表情を浮かべた。
 今までどれだけ茜に酷いことをしてきたのかという自覚はある。身勝手な感情で茜を振り回し、傷つけた。
 それでも平気な顔で茜の前にいられるのは、何をしても茜に受け入れてもらえるという甘えが浩行にはあるからだ。甘え、というよりも確信。生まれる前から茜の傍にいて茜の全てを知っていた。男女のそれとは違ったがかつて茜が浩行に向けていた愛情がどれだけ大きなものか、誰よりも浩行自身がよく知っていた。
 茜と浩行を繋いでいる鎖は、思っているよりもずっと深く互いの身に巻きついている。簡単には解けないその鎖の存在が浩行を傲慢にさせる。
 そのくせ些細なことで不安を感じるのは我ながらどうしようもないと思う。
「茜」
「だ、だから、何」
「十八の誕生日に籍、入れるか」
 膨らんでいくばかりの気持ちを少しでも吐き出したくて、浩行は茜から手を離し食事を再開しながら何でもない話の続きのように茜に訊く。
「せき……って」
 浩行の言葉を数秒遅れて理解した茜は一瞬動きを止め、すぐに何も聞こえなかったふりをして味噌汁に手を伸ばした。
「別に今すぐにでも」
「今日の味噌汁おいしくできたな」
「茜」
 少し強く名前を呼ぶとわざとらしく浩行の言葉を遮った茜は口をとがらせた。
「ぴちぴちの女子高生を奥さんにしたいなら他の人にしてよ」
 茜が心にもないことを言っているのはわかったから浩行はそれには答えず茜が自画自賛した味噌汁を啜る。確かに以前の味のない味噌汁と比べると料理の腕は確実に上がっているようだ。嫌みの一つ二つを言った焦げた卵焼きも味付け自体は悪くないし、鮭も食べられないほどではない。
 しばらく続いた沈黙を破ったのは茜の小さな声だった。
「あたしだって、年を取るんだよ。いつまでも子供じゃない。若いままじゃない。いつか普通のおばちゃんになって、おばあちゃんになって」
「何当たり前のこと言ってんだバカネ」
 浩行は茜が何を不安に思っているのか悟る。
 若い女がいいのなら茜でなくてもいい。むしろ茜だけは選ばない。そんな理由で、自分の大切な人たちの娘に手を出せるわけがない。それを言えば茜が安心することはわかっていたが浩行の口から出たのは別の言葉だった。
「指輪、いるか?」
 再び口をとがらせて拗ねた表情を浮かべながら浩行から視線を外していた茜は、浩行の言葉に僅かに首を傾げた。
「指輪?」
「婚約指輪」
「こっ、いらない!」
 現実味のないプロポーズよりも指輪のほうが効果があるのか。
 明らかに動揺して顔を赤くした茜に浩行は小さく笑った。やはりまだまだ子供なのだと思う。茜らしいと言えば茜らしいが今の浩行にとってはもどかしい。
 今まで散々傷つけてきた分少しは茜の望む兄らしいこともしてやろうとは思うが、どうしても下心が混じる。昔と比べればそういう衝動はある程度抑えられるようになったがあくまでも昔と比べればの話。
 その苛立ちに任せて茜を家に閉じ込めておきながら、もう逃げないと誓ったはずなのに仕事に没頭することで茜を避けて、気がつけばまた茜から逃げていた。
 外出禁止など、佐之介に言われるまでもなく自分でも馬鹿げていると思ったが茜が不満そうにしながらも言いつけを守っているのに何かが満たされるのを感じてしまった。
「茜」
「な、何」
 茜はまた浩行が妙なことを言い出すのかとびくりと身構える。
「今度の土曜の夜、空けとけ」
「え、なんで」
「映画見て飯食う」
「空けとけも何も、どこにも行けないから予定なんてないけど……お兄ちゃんと、あたしで? というか外に出てもいいの?」
「俺と一緒ならいいって言っただろうが。嫌なのか?」
 茜は両手に持ったお椀に視線を落す。
「……知らないところに置き去りとか、しない?」
「……は?」
 不安そうな顔の茜に浩行は思わず聞き返した。
「だって、お兄ちゃんがいきなりそんなこと言い出すなんて変だよ。初詣だって結局連れて行ってくれなかったのに」
「だからその埋め合わせだ」
 わざわざ人混みに揉まれて余計な疲れを溜め込みたくなくて初詣には行かなかった。今は少し落ち着いたが茜を避ける口実にしていた仕事が馬鹿みたいに忙しかったのは事実だ。
「ホントにホント?」
 そんなに信用がないのかと浩行は小さくため息をついた。
「外出禁止もそれで終わりにしてやる」
 くだらない束縛ももう気が済んだ。
「え」
 目を丸くした茜の顔に徐々に笑みが広がっていく。
「やったー! 後でやっぱダメとか絶対なしだからね!」
 茜が浩行と出かけることよりも外に出られることに喜んでいるのが少し癪だが、久しぶりに茜の満面の笑みを見られたことに満足している自分に気づく。
 どうしようもない感情を抱えたまま、ほんの一時でも茜が求める兄を演じてみるのも悪くないと思えた。



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