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 机に向かってはいるけど広げた宿題のプリントの上には真っ白な封筒。宿題は少しも進んでいない。
 睨んだ先の宛て名には随分な達筆で「立花茜様」と記されている。


  ラブレター


 どこをどう見てもあたし宛ての手紙。おまけに面と向かって渡されたから間違いではない。
 驚き桃の木山椒の木で声も出ずに突っ立ったままのあたしに押し付けられたそれを、受け取らないという選択肢はなかった。
 真っ赤になった顔。涙の溜まった瞳。うっかりときめいてしまったあたし。
 それにしても返事はどうしよう。やっぱり直接会って言ったほうがいいかな。何て言えばいいんだろう。
「困ったなー」
「何が」
「何がって返事……って勝手にドア開けないでよ!」
 いつの間にか部屋のドアが開いていて帰って来たばかりらしいクソ兄貴が入り口のところに立っていた。
「ノックしただろ」
 きっとものすごく控えめなノックだったんだろう。ドアもわざと音を立てないように開けたに決まってる。
 あたしは封筒をプリントの下に隠した。年頃の妹の部屋にずかずか入ってきたお兄様はどうやら遠慮というものを知らないらしいから机の上もじろじろと見てくる。
「きょ、今日は早いんだね。ご飯もお風呂も用意できてるから勝手にどうぞ」
 声が裏返りそうになりながらも、できるだけさりげなくプリントの上に腕を置く。
 別にやましいものではないけどわざわざクソ兄貴に見せるものでもない。
 あたしだったら自分が書いた手紙を渡した相手の家族に見られるのは嫌だし。
「今何隠した」
「何も隠してない。勉強の邪魔だから出て行ってよ」
 しまった。手紙の存在自体を隠したのは失敗だったかもしれない。普通に友達から貰った手紙だとか誤魔化したほうが。
「って、待ったー!」
 さりげなくプリントの上に置いたつもりの腕は何の役にも立たず、あたしの僅かな隙をついて悪魔の手がプリントの下の手紙をあっさり奪い取っていた。あまりにもあっさりすぎて反応が遅れた。
「守山翼?」
 封筒の裏。これまた達筆な字で書かれた名前をクソ兄貴が読み上げた。そしてさも当然のことかのように中から便箋を取り出した。
「ちょっと、勝手に見ないでよ!」
 立ち上がって慌てて取り返そうとするものの、クソ兄貴とあたしの身長差じゃ高く持ち上げられたらどうしようもない。しかもクソ兄貴は可愛い妹の頭を鷲掴みにして押さえてくれた。
「これは何だ」
 一通り読んでしまったらしいクソ兄貴が、いつもの何倍増しもの不機嫌そうな声で言った。
 その手紙には、ずっと憧れていた、友達になってほしいというようなことが流れるような字で書いてあった。春先に、目の前で転んだ一年生に手を貸して保健室に連れて行ったことがあった。手紙の主はその一年生でそれが手紙をくれたきっかけらしい。いきなりでびっくりしたけど、そういうふうに思っていてくれたのは素直に嬉かった。
「……一年の子に貰った」
 今更隠しようもないからあたしは正直に告げた。
「もちろん断ったんだろうな」
「断るも何も、いきなり渡されてすぐに行っちゃったから」
 それに断る理由はない。むしろ精一杯の勇気を出してあたしに手紙をくれたのだと思うと断れるわけがない。
「なら今すぐ断れ」
 確かに手紙には住所と電話番号が書いてあって連絡を取ろうと思えば取れるけど。
「そんなことできるわけ」
「どんな奴なんだ」
 あたしの言葉を無視したクソ兄貴は手紙を睨みつけたまま。
「どんな奴って、何かちっちゃくて可愛い感じの子」
「てめえはそんなにアキみたいなのが好きなのか」
「なんでそこでアキちゃんが出てくんの。確かにアキちゃんは可愛いけどそれとは」
「茜が断れないなら俺が断る」
「え?」
 クソ兄貴が手紙を見ながらコートのポケットから取り出した携帯で電話をかけようとしていることに、数秒遅れてから気づいた。
「やめてよ! せっかく友達になりたいって言ってくれたのに!」
 クソ兄貴の右腕に体重をかけてしがみついてやったらやっと動きを止めた。
「そんなの下心があるに決まってるだろ」
 あたしはクソ兄貴の右腕をがっしり抱えて反論する。
「下心なんてあるわけないでしょ。大体なんでお兄ちゃんに口出しされなきゃいけないの。悪い友達ができたとかならまだわかるけど」
「こんな手紙よこす男のどこが下心がないって言えるんだバカネ」
 クソ兄貴の言葉にあたしは思わず固まった。
「お、男?」
「どう見たってラブレターだろこれ」
 これ。
 守山翼という名前の一年生から渡された友達になってほしいという内容の手紙。
 クソ兄貴の勘違いに気づいてあたしは抱えていた腕を離した。
「この手紙をくれた子、女の子だよ。守山翼ちゃん」
 今度はクソ兄貴が固まった。
「……紛らわしい真似すんなボケ」
 あたしは少しも悪くないのに思い切り頬をつねられた。
 勝手に勘違いしたのはそっちじゃないかと言いかけたのは何とか飲み込んだ。クソ兄貴に下手につっこんだらどんな仕返しをされるかわかったものじゃない。



 という出来事があった翌日。
 恐ろしいほどのタイミングで容子さんからとんでもないものが届いた。

『おにいちゃんへ。ラブレターってしってますか? すきなひとにすきっていうおてがみのことです。ようこさんにおしえてもらいました。だからあかねはおにいちゃんにラブレターかきます。あかねはおにいちゃんのことだいすきだからです。おにいちゃんもあかねにラブレターかいてね。おにいちゃんはずっとあかねのおにいちゃんでいてね。あかねより』

 解読に時間がかかった恥ずかしさで叫びたくなるような文面は、元は真っ白だったはずの薄汚れたぼろぼろの画用紙に黒いクレヨンで書かれていた。
 下には大きい棒人間と小さい棒人間がにこにこ笑顔で手を繋いでいる絵が描いてあって、その周りを赤いクレヨンで描かれた歪んだハートが囲っていた。多分、クソ兄貴とあたしのつもりなんだろう。
 大きめの封筒に二つ折りで入っていたそれをたっぷり五分は凝視した。
 どうしてこんなものが容子さんから届いたのか。これを書いたのは本当にあたしなのか。
 このまま見なかったことにするのは何だかこわかったからあたしは仕方なく容子さんに電話した。
「容子さん、何か、変なのが届いたんだけど」
『あら、もう届いたの? 懐かしいでしょ。覚えてる?』
「……覚えてない」
 覚えてないから余計にこわい。
『まだ小さかったものね。私も少し手伝ってあげたのよ』
 容子さんにとっては懐かしい思い出なのか、何だか楽しそうで恨めしい。
「……お兄ちゃん宛てみたいだけど、なんで容子さんが送ってきたの?」
『それを渡そうとした日に浩行ってば急にお友達のところに泊まることになって。渡したいものがあるってしっかり約束してたのに帰って来なかったから茜は大泣きして拗ねちゃって大変だったんだから』
 昔のあたしはどうしてこう恥ずかしいことばかりしているんだろう。十年後のあたしから見たら今のあたしも十分恥ずかしいんだろうけど。
「それで?」
『茜が丸めてゴミ箱に投げちゃったのを拾って取っておいたの。茜が落ち着いたら返そうと思ったのをすっかり忘れちゃってたんだけど、この間荷物を整理してたらひょっこり出てきたのよ。あ、どうせ送るなら茜じゃなくて浩行宛てにすればよかったわね。十数年越しのラブレターが届いたりしたら絶対』
「ありがとう! これはこっちで処分しておくから!」
 さらっと恐ろしいことを言った容子さんの言葉を最後まで聞かずに電話を切った。

 机に向かい、いびつなハートを人差し指でなぞる。指の腹がクレヨンで赤く汚れて何となく感傷的な気分になった。
「大好き、か」
 これを自分が書いたのかと思うと、言葉にはできない恥ずかしさが込み上げてくる。
 どうしたらこんな恥ずかしいことを書けてしかもそれをクソ兄貴に渡そうなんて思えるんだ。
 何も考えずに、クソ兄貴でいっぱいだった昔のあたし。

「茜」

 驚きすぎて声は出なかった。代わりに思わず立ち上がって椅子を倒してしまった。
 今回もノックなしで年頃の妹の部屋のドアを音を立てずに開けたクソ兄貴は、今回もやっぱりずかずか部屋に入ってきた。その前に声をかけてくれただけまだましかと一瞬思ってしまってから机の上の画用紙の存在を思い出して慌てて裏返した。それから横に置いてあった英語のノートを上に置いてクソ兄貴のほうを向いた。
「おか、えり。何か用?」
「容子さんから俺宛ての手紙を茜が持ってるって電話があったから。さっさ出せ」
 余計なことをしてくれた容子さんに心の中で八つ当たりしながら、あたしは無理やり笑顔を作った。
「し、知らないよ。容子さんの勘違いじゃない?」
「そんなんで誤魔化せると思ってんのかバカネ」
 思ってないけど何が何でもこれをクソ兄貴に見られるわけにはいかない。どんなことを言われるかわからないしずっとあたしをからかうネタにされることは間違いないし、何よりあたしが恥ずかしすぎる。
「大体俺宛ての手紙なんだろ。返せよ」
 絶体絶命って言葉がぴったりのこの状況。
「あ、後で! 後で渡すから! 帰ってきたばかりで疲れてるでしょ。先にお風呂にでも入ってきなよ」
 クソ兄貴としばらく睨み合う。先に目を逸らしたのはクソ兄貴だった。
「わかった」
「え」
 クソ兄貴の言葉にあたしは自分の耳を疑った。まさかクソ兄貴がこんなにあっさり引き下がってくれるなんて。もっとしつこく迫られるかと思ってたのに。
「じゃあ、お風呂上がりに渡すね!」
 クソ兄貴がお風呂に入っている間にこの恥ずかしいものは処分してしまおう。そして容子さんに電話して何とか誤魔化してくれるように頼もう。クソ兄貴も容子さんに言われたら諦めるに違いない。
「ああ」
 クソ兄貴は頷いてあたしに背を向けてドアに向かう。
 気が抜けたあたしは倒れた椅子を元に戻して座り、ドアが開いて閉まる音がしてからふうっと息を吐いてもう一度画用紙を眺める。やっぱり捨てるのはやめてどこかに隠そうか。
「それが俺宛ての手紙か」
 クソ兄貴の声に心臓が止まりかけたのと同時にあたしの手の中から画用紙が消えて頭の中が本当に真っ白になった。
「う、あ」
 心臓がばっくんばっくんすごいことになって、今がどういう状況なのかやっと受け入れてからもう一度椅子を倒して立ち上がって叫んだ。
「わああああ! 見るなー!」
 手を伸ばしても画用紙はクソ兄貴の手によって高く持ち上げられあたしには届かない。
「うそつき! お風呂上がりって言ったのに!」
「うそつきはどっちだ。見せる気なかっただろ」
 昔からあたしのうそがクソ兄貴に通じたことなんてなかったことをもう少し早く思い出すべきだった。
 クソ兄貴の視線の先に恥ずかしいものがあるという現実に耐えられず、とうとうあたしはその場に崩れ落ち倒れた椅子を抱き締めた。
「これ、いつ書いたんだ?」
「知らない覚えてないもう用は終わったんだから行ってよ」
 さぞ意地の悪い顔であたしの手紙を見ているんだろうと思って、恐る恐るクソ兄貴を見上げたあたしは思わず息をのんだ。
 クソ兄貴は笑っていた。いつもの、あたしをバカにしたような笑い方とかじゃなくて、もっとやさしくて、穏やかで。
 なんでそんな顔をするの。なんでそんな目であたしの手紙を見ているの。
「お兄、ちゃん」
 あたしが呼ぶとクソ兄貴の顔から笑みがすっと消えた。
「風呂入ってくる」
 今度こそ本当にクソ兄貴は部屋から出て行った。あたしの手紙を持って。
 あたしはよろけながら何とか立ち上がりベッドに倒れ込んで枕に顔を埋めた。
「クソ兄貴のバカ。バカバカバカ。変態。ロリコン」
 クソ兄貴は昔のあたしがいいんだ。素直でクソ兄貴が大好きな可愛い妹だったあたしがいいんだ。
 今のあたしは間違っても大好きなんて言えない。小さい頃の可愛さもない。昔のあたしにはどうやったってなれない。
 覚えてなかったラブレター。あたしが書いたはずなのに、クソ兄貴が知らない誰かが書いたラブレターを嬉しそうに見ているみたいに思えて嫌だった。
 あたしにはあんな顔してくれないのに……ってこれじゃあまるで昔の自分に嫉妬してるみたいじゃないか。
 違う。そんなんじゃない。
 クソ兄貴がどう思っていようがあたしはあたしなんだから関係ない。
「関係ない」
 口に出してもやもやした感情は無理やり追い払った。



 数日後、あの手紙のことであたしをからかうどころか手紙のこと自体に触れようとしなかったクソ兄貴から茶色の封筒があたし宛てに届いた。あのクソ兄貴が、同じ家に住んでいるのにわざわざ住所を書いて切手を貼ってまで送ってきた手紙。
 もう二度と見ることはないであろうあたしの恥ずかしい手紙に書いてあったことを思い出して、不覚にもクソ兄貴が本当にラブレターを書いたのかと思ってしまった。
 よく考えればそんなことあるはずなくて、実際バカみたいに緊張しながら開けた封筒の中に入っていたのは嫌がらせとしか思えない婚姻届が一枚だけだった。
 あとは名前を書くだけ状態の婚姻届は引き出しの奥にしまって見なかったことにした。



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