トップ | 小説一覧 | くさり目次 | 君が好き


 僕は茜ちゃんが好き。
 初恋の人で、今は大切な友達で、だから茜ちゃんを傷つけてばかりの浩行さんが嫌い。


  君が好き


 年の瀬の深夜、ベッドの上でクッションを抱えながら僕は電話の子機を耳に当てていた。
 呼び出し音はもう十回を超えたけど留守電にもならないし相手が僕からの電話を無視できないのを知っているから電話を鳴らし続ける。
『こんな時間に何の用だ』
 二十回を超える前にやっと低い声が聞こえた。
「こんばんは。早い時間だと仕事の邪魔になりそうだと思って。僕だって気を遣ってるんですから浩行さんももったいぶってないでさっさと出てください」
『何の用だ』
「僕が茜ちゃん以外のことで電話したことってありましたっけ」
 浩行さんが苛々しているのが伝わってきて、僕ももったいぶってみる。
 昔はともかく今は浩行さんのほうが僕より茜ちゃんに近いところにいるから僕が浩行さんに伝えることは多くないけど、全くないわけじゃない。
「もしかして寝てましたか?」
『これから寝るところだから用件があるなら早く言え』
「ああ、本当に忙しいんですね。また何か奢ってもらおうと思ってたんですけど今度にしておきます」
 疲れている声に少しだけ同情して、貴重な睡眠時間を奪ってしまうのも悪いからそろそろ浩行さんが聞きたがっていることを教えてあげる。
「今日、と言うか昨日、茜ちゃんから電話がありました」
『愚痴でもこぼしたか』
「浩行さんは相変わらずみたいですね。でもさすがに僕も外出禁止はありえないと思います。独占欲丸出しみたいなこと言って恥ずかしくなりませんか?」
 茜ちゃんも茜ちゃんで文句を言いながらもそのバカみたいな言いつけをちゃんと守っている。だから余計に浩行さんがつけあがるんだ。
『ならない』
 きっぱり即答されて、こめかみのあたりがずきずき痛むのを感じたからクッションを握り締めていた手で強く押した。
「浩行さんはずるいです」
『何が』
「自分は散々好き勝手やってきたくせに茜ちゃんのことは縛りつけようとしてます。外に出したくないくらい大事なら、最初から最後までずっとそうしてください」
 昔から茜ちゃんにひどいことばかりして、家を出たと思ったら茜ちゃん以外の人と付き合ったり、やっと茜ちゃんと再会しても逃げるようなことをしてまた茜ちゃんを傷つけた。
 浩行さんが家を出たのは茜ちゃんのことも考えての行動だったと思うから僕には止めることはできなかった。だからせめて二人の繋がりが本当に切れてしまわないように浩行さんが家を出た後も茜ちゃんのことを一々伝えていたのに、浩行さんは茜ちゃんを裏切るようなことをして僕がどんなに抗議しても少しも聞き入れてくれなかった。
 思い出したら電話をここにはいない浩行さんに投げつけくなった。
『アキ』
「何ですか」
『お前、何かあったのか?』
 言われて強く押していたこめかみから手を離した。
 今日の僕はどこかおかしい。浩行さんだけじゃなくて僕も苛々している。浩行さんと話すときはいつもそうだけど、今日はいつも以上に苛立ちをうまく抑えられない。
「茜ちゃん、落ち込んでました」
 口調は明るかったけれど、いつもの元気な茜ちゃんとは違った。
「束縛しようとするなら、茜ちゃんのことを避けようとしないでください」
 浩行さんは外出禁止令を出してから仕事が忙しいという理由でここ数日茜ちゃんとほとんど顔を合わせていないらしい。実際に忙しいみたいだけど、仕事を口実にまた逃げているとしか思えない。
「別にそんなつもりは」
「つもりがあってもなくても茜ちゃんがそう感じるなら同じことです。元々コミュニケーション不足なのもいけないと思うんですよね。茜ちゃんが本当は甘えん坊なの、浩行さんのほうがよく知ってるでしょ。妹として茜ちゃんのことをもっと可愛がってください」
 どんなに嫌いだと強がっていても茜ちゃんは浩行さんのことが大好きで、普通の兄妹なら今の状態は別に何でもないことだろうけど、二人は普通の兄妹じゃないし今まで離れていた分もある。
『妹、ね』
「僕としてはさっさとくっついてくれたほうがいいんですけど、茜ちゃんが今必要としているのは恋人としての浩行さんじゃなくて、お兄ちゃんとしての浩行さんみたいで」
 今までも何となく感じていて、今回の電話でもやっぱり感じたことを伝える。
 そんなことはとっくにわかっているはずの浩行さんは何も言わない。
 僕は浩行さんに言葉をどんどんぶつけたくなるのを堪えて一度深呼吸する。
「浩行さんが茜ちゃんを傷つけないように距離を置こうとするのはわかります」
 僕だって男だから、浩行さんのつらさがわからないわけじゃない。
「でも距離を置くことで茜ちゃんが傷ついていたら意味ないです」
 向かっている方向は逆だし度合いも全然違うけれど、結局浩行さんは昔と同じようなことを繰り返している。本人は必死なんだろうけど、傍から見ているとバカらしくなってくる。
『だったらどうしろって言うんだ』
「わかりきったことを訊かないでくださいよ。我慢すればいいだけの話でしょ。せいぜい我慢して苦しんでください。長くても数年待つだけ。七年前とは違って希望に満ちた未来が待っているんだから楽なものじゃないですか」
『言うだけなら簡単だな』
「今までのつけだと思って頑張ってくださいね」
 嫌みを込めてわざと明るい声で言う。
『話はそれだけか』
 これ以上はもう僕の話を聞く気はないらしい。茜ちゃんへの接し方を考え直すきっかけは作れただろうから僕も無理に話を続けるのはやめる。
 浩行さんのことなんて本当はどうでもいい。家を出ようが女遊びをしようが僕には関係ない。わざわざ口を出して茜ちゃんと浩行さんの仲を取り持とうとするのは浩行さんのためじゃなくて茜ちゃんのため。
 全部浩行さんのことが大好きな茜ちゃんのため。
 茜ちゃんには笑顔でいてほしい。幸せになってほしい。
「浩行さん」
『まだ何か――』

「やっぱり僕、茜ちゃんのことが好きです」

 すとんと落ちてきた言葉をそのまま出したらすごくすっきりした。
『アキ』
 浩行さんの声が怒気を含んでいるのに気づいて、どんな顔をしているのか想像しながら続ける。
「二人の邪魔はしません。茜ちゃんにも言いません。言ったら茜ちゃんが困るから。今まで通りでいます」
 しばらく考え込むように無言でいた浩行さんが電話の向こうで深く息を吐き出した。十年前の浩行さんだったらすぐにでも家に殴り込んできたかもしれない。今もそうだったらどうしようかと思った。
『なんでそんなことを急に』
「あはは、なんででしょうね。僕もよくわかりません。気がついたら口が勝手に」
『今までずっと好きだったなんて言うなよ』
 僕が茜ちゃんに未練があるような素振りを見せていたら、浩行さんは僕が茜ちゃんの友達でいることも許さなかっただろうし僕も浩行さんの望む通り茜ちゃんを好きな人から友達に完全に切り替えて見ていたつもりだった。
「好きだったけど、友達としてです」
 嘘はついていない。ずっとそう思っていた。
 僕は茜ちゃんのことが好き。大切な友達で、諦めたはずの初恋の人。
 僕にとって茜ちゃんはいつでも友達以上の存在になると自覚はしていたけど、初恋を諦めたときのように自分で決められることだと思っていた。
 実際は、制御なんてできなくて、降って湧いたような感情で動揺が遅れてやってくる。
「今まで通りです」
 自分に言い聞かせるようにもう一度口にする。
「何も変わりません。僕は二人がうまくいくことを願っています。だからこれからも色々口出しします。それだけです」
 浩行さんよりも僕のほうがバカかもしれない。どうして自分でどうにでもできるなんて思っていたんだろう。
「僕だって一生報われない恋をするつもりはありません。でも茜ちゃん以外に本当に好きだと思える人に出会えるまでは、茜ちゃんと浩行さんが結婚したとしても、僕はきっと茜ちゃんのことを好きでいると思います」
 気づかないうちに十年も引きずっていたこの気持ちは、突然目の前で風船のように膨らんで、掴まえる前にあっという間に僕の手の届かないところに飛んで行ってしまった。
『俺にどういう返答を求めているんだよ』
「別に何も。ただ僕がすっきりしたくて言っているだけ。嫌なら聞かなかったことにしてください」
『本当に今まで通りなのか?』
「僕、そんなに信用ないですか? 大丈夫ですよ。浩行さん次第です。前にも言った通り浩行さんが茜ちゃんを大切にしてくれれば」
 もう二度と茜ちゃんを手放そうと思わなければ。
『今まで通りならそれでいい』
「意外ですね。もっとねちねち色々言われた挙句茜ちゃんとはもう会うなくらい言われるかと思いました」
『言ってほしいのか?』
「遠慮しておきます。浩行さんが納得してくれたのならよかったです」
 僕はクッションを抱え直して天井を見上げた。
「やっぱり僕、浩行さんのことが嫌いです」
 初めて会ったときからずっと思っていたことを告げる。
『そうか、俺もお前のことは嫌いだ』
「嫌われて嬉しいと思ったのは初めてです。おやすみなさい」
『おやすみ』



トップ | 小説一覧 | くさり目次